第2話 流した汗と涙の距離
登校、朝練。
リングもない部室でひとり、黙々とシャドーをする。
身体を動かしていると、頭が空っぽになる。そう、ただ自分自身とだけ向き合うこの時間は、僕にとって至福の時だ。こうしていると、全てを忘れられる。昨日、茂にカツアゲされそうになって慧真に助けられて、それで――
「あーーーーッ!」
独りでいると、昨日の出来事が思い起こされて仕方ない。まさか、カツアゲされてるところをクラスの女子に見られるなんて――しかも、その子に助けられるとは。
3分を告げるアラームを待たず、僕はシャドーの動きを止めた。目の前の鏡を見る。
貧相な身体だ。
高いとはいえない身長に、短い手足。
身長は同じくらいでも、手足が長くスタイルのいい茂とは大違いだ。
だから、中学時代は目をつけられて随分ひどい目にあった。
巻き上げられた金は10万を超えるかもしれない。
高校に入ったときは、「新しい自分になるんだ」っていう希望をもって、それでこのボクシング部のドアを叩いたのに。
それなのに、昨日のあれはなんだ――
目の前の鏡が、ボヤけて滲んだ。
* * *
一人っきりの朝練を終え、僕は教室へと向かった。
入り口のドアをくぐり、談笑するクラスメートたちの間を縫うように、自分の席へと向かう。周囲の皆は、僕の存在などないかのように、やれアイドルだの、ソシャゲだの、人のうわさ話だので盛り上がっている。
まったく、朝からよくもまぁ、そんなくだらない話で盛り上がれるよ。
自分の席に座ってふと、僕は教室の一角を見た。
篠井
僕は昨日のことを思い出した。
僕よりも小柄な身体に、後ろでひとつに束ねた髪。半分閉じたような切れ長の目元。
教室の中で席に座る彼女からは、まったく想像が出来なかったが、僕は確かにこの目で見たのだ。
あの小さな身体が、茂を吹き飛ばした、あの瞬間――
その時のことを思い出そうとして僕はまた、激しい自己嫌悪が湧き上がってくるのを感じた。
「巻村ぁ」
不意に、名前を呼ばれてその方向を見ると、いつの間にか教室に入ってきた担任の坂間が僕を呼んでいるようだった。
「昼休み、ちょっと職員室に来てくれ。ボクシング部のことで」
「あ、はい……」
周囲の目線が僕に注目するのがわかった。こそこそと笑っているやつもいる。
ふと、慧真の方を見ると、慧真と目が合った。
僕はすぐに目線を外し、なにごともなかった振りをした。
* * *
「廃部……ですか」
昼休みの職員室。デスクについた坂間の前に、僕はうなだれていた。
「公式戦での実績もないし、それに部員もいないんだろう?」
「いますよ、5人」
「幽霊部員じゃないか。活動してるのはお前ひとりだろう」
本当のことなのでグウの音も出ない。クラスメートの名前を勝手に登録しているだけなのだ。
「お前ひとりだけのために部室を使わせとくわけにはいかないんだよ。わかれ」
朝に引き続き、自分の情けなさが胃の底からこみ上げてくるようだった。
確かにボクシング部はこのところ、新入生のひとりも入っていない。3年の先輩たちは既に引退済みで、顏すら見せようとしなかった。
それでも、ひとりでボクシング部を続けていたのは、半分が意地だったと思う。自分を変えたい、このまま終わりたくないという、ささやかな意地――そう、それは確かな、僕の意地だったのだ。
「……次の大会まで、待ってもらえないですか」
デスクの上の書類に目を落としていた坂間先生が、顏を上げて僕を見て、そしてぎょっとした顔をした。その顔が、また滲んだ。
「実績があれば、再検討してもらえますか? お願いです、次の大会でちゃんと、実績を出しますから……」
流れる涙が頬に伝うのがわかったけど、その時僕にそれを拭う余裕はなかった。
* * *
放課後の部室でまた、たった一人。
トレーニングウェアに着替えた僕は、また鏡を見た。
貧相な身体。短い手足。
僕の大嫌いな、僕がそこにいる。
小学生のころは運動が苦手で、中学時代は周囲から弄られ、金まで巻き上げられて――
高校に入り、ボクシング部に入って、それでも、なにも変わらなかった。
昨日、茂に会ってまた、カツアゲをされそうになる始末だ。
なぜ僕は、あそこで戦わなかったのだろう。
なぜ、戦えなかったのだろう。
部室の隅に置きっぱなしだったタオルが目に入る。
これでも、汗は流してきたつもりだ。
その流した汗を、戦わずに終わることだけはできない――そう思ったら、自然と涙が出てきたのだ。
「……せめて、戦わなくちゃだめだよな」
流した汗の意味を、見出すために――
「……ただ戦ったって、ダメだよ」
突然、声がした。
振り向くと、部室の入り口にクラスメートがひとり、立っていた。
「篠井……さん?」
昨夜、「寸勁」を放って茂を吹き飛ばして見せた慧真。その彼女が、なぜボクシング部の部室に――?
「……潰れるんだってね、ボクシング部」
部室に入ってきて、慧真は言った。
「なんでそれを?」
「もう噂になってるよ……キミのことも」
「……そっか」
僕は黙って鏡に向かい、拳を振った。
「次の大会には出れるんだ。そこで実績を出せば、もう一度考えてくれるって」
「そうなんだ」
慧真はゆっくり拳を振るう僕の動きを眺めていた。
「……昨夜のあの人も、ボクシング部なんでしょ」
慧真が呟くように言う言葉に、僕の拳が止まった。
「なんでそれを?」
確かに、茂は別の高校でボクシング部に入ったのだと僕も聞いていた。
「……拳の作り方と、身体の感じがそうだったから」
「へぇ……」
改めて、僕は篠井を見た。小柄ではあるが、均整の取れた引き締まった身体つきは、確かに日常的に鍛錬を積んでいるものなのだろう。
「拳法は長いの?」
「……まぁね。親が道場主なの。それで子供のころから」
なるほど。それにしても、この歳で寸勁まで使いこなすとは――身近なところに飛んだ達人がいたものだ。
「……でさ……」
慧真が俯いて、恥ずかしそうに言葉を発する。
「あいつに、勝たないといけないんでしょ?」
「……そうなるかな」
「キミには無理だと思う。素養が違い過ぎる」
間髪いれずに言われ、僕は鼻白んだ。
「やってみなきゃわからないだろ!」
僕は慧真に背を向け、シャドーをし始めた。
「……ほら。その動き。典型的なアマチュアボクシングの動きだもん」
後ろから、声がかかった。
「その動きで競い合ったら、手足の長いあいつの方が勝つに決まってる。そうでなくてもあなたの体格じゃ、他の選手にだって……」
「じゃぁどうすればいいんだよ!」
思わず僕は振り返り、激昂した。
「それでも……それでもやるしかないんだ! そうじゃなきゃ、僕は……」
――不意に、慧真の身体が動いた。
目がかすんだかのように揺らめいたそれは、ふわりと踊るように、床を蹴り――
次の瞬間、慧真の顔が僕の目の前、15㎝の距離にあった。
「……戦い方を考えろって言ってるの」
慧真の拳は、僕の鳩尾に当てられていた。
「相手の有利な距離で戦う必要はない……あなたの距離で、この15㎝で戦うの」
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