ノック・アウトに必要な距離
輝井永澄
第1話 彼女の15㎝
なにしろその時、僕はぶっ飛んだんだ。
いや、正確に言えばぶっ飛んだのは僕じゃない。
いやいやいや、これも違うな。
「物理的に」ぶっ飛んだのが、髪を金髪に染めたその不良で、「精神的に」ぶっ飛んだのが僕だってわけ。
そしてなによりぶっ飛んだのは、その金髪の不良をぶっ飛ばしたのが、目の前にいるこの、小柄な女の子だってこと。
そりゃあ、精神的にもぶっ飛ぶさ。不良は10m近くぶっ飛んだけど、僕の心は月ぐらいまではぶっ飛んだ。
わずか5分ほど前、ロードワークの途中で通りがかった公園の裏手で、不良グループに絡まれて――さらに良くないことには、その不良グループのリーダー格は僕の中学時代の同級生、我那覇茂だったってことだけど。
それでまぁ、旧交を温めながら財布を出そうとしていた、その時だったんだ。
先週僕のクラスに転校してきた彼女が、たまたまそこを通りがかったのは。
問題は、その彼女が空気を読まずに僕に声をかけたこと。
「巻村くん、こんばんわ」――ってね。
「おい、負け村」
茂が馴れ馴れしく肩を組みながら、僕に言う。
「……なに、茂……くん……」
「このカワイ子ちゃんは、お前の知り合いか?」
「あ、えっと……」
「同級生。まぁ、そんなに話したことはないんだけどね」
なぜか僕の代わりに彼女――篠井
確かに、高校1年の末に突然、転校してきた彼女とは、同じクラスだが数えるほどしか話していない。部活もやっていないし、放課後派手に遊び歩いているグループに入っているわけでもない彼女は、あまり校内に人付き合いがないはずだ。いつも放課後はそそくさといなくなっている、そんな女子だった。
「……ふぅん」
茂が鼻の穴を膨らませながら、言う。
「負け村よぉ、お前、財布置いたらもう行っていいぜ。俺たちはこの子と遊ぶからさ」
「え? えっと……」
茂は僕の肩にまわした腕を離し、慧真の方にまわした。慧真は黙って肩を組まれている。
「なにしてんだよ、ほら、財布」
周りにいた茂の取り巻きがニヤニヤしながら、僕に近づいてくる。僕よりも二回りほどデカイやつらに迫られる暑苦しさに足は震え、僕の腰はどんどん後ろへ引けていく。
僕は慧真を見た。
それでも――いくらなんでも、女の子を置いて、財布を置いて、自分が逃げ出すなんて、そんなこと――
「えっと、巻村君?」
突然、慧真が口を開いた。
「つまりキミは、カツアゲをされてるのよね」
「え? いや、その……」
僕の返事を待たず、茂はそこに言葉を被せる。
「そんなんじゃねぇよ。実はこいつ、俺に借金があるんだ。なぁ?」
「……」
黙っている僕のことを見ていた彼女が、ふぅっとため息をついた。そして、信じられないことを口にしたんだ。
「手を放してもらえる? さもないと、痛い目を見ることになるけど」
「あぁん?」
茂はきっと、彼女がなんと言ったか、理解できていなかったんだと思う。
だけど彼女は、茂の返事を待たなかった。
組まれた肩、密着した身体――その間にねじ込ませるように、その華奢な身体を少しひねり、こう、右の拳を腰まで持ってきて――
――ボンッ!!
その音は、彼女の口から発せられた気合だったのか、それとも拳が空を切る音だったのか。
密着した身体の間のわずかな隙間――せいぜい15㎝ほどの、そのわずかな隙間で、慧真の拳が、爆発した。
そして茂は物理的にぶっ飛び――僕は精神的にぶっ飛んだ、というわけ。
何が起こったかわからず、唖然としていたのは僕だけじゃなかった。僕の周り、15㎝の距離でオラついていた他の不良たちは、その瞬間を見ていなかったから余計に、なにが起きたか理解できなかっただろう。
その隙に、慧真が僕の腕を掴んだ。
「逃げるよ!」
その感触と声に僕の意識は引き戻され、彼女に引っ張られるまま駆け出した、というわけ。
* * *
公園を走り抜けて、大きな通りに出たところで僕と慧真はようやく立ち止まった。
はぁっ、はぁっ――
肩で息をしながら、後ろを振り返る。追ってきてはいないみたいだ。
「……ふぅ」
慧真が大きく息を吐き出した。驚くべきことに、彼女はもう呼吸を整えていた。さっきまで肩で息をしていたはずなのに。
「……それじゃぁね」
まだ肩で息をしている僕に背を向け、慧真は立ち去ろうとした。
「ちょ……ちょっと待って……」
僕は必死に声を絞り出し、彼女を引き留める。
「……なに?」
「えと……その……」
荒い息に阻まれて、なかなか質問の言葉が出てこない。幸いなことに、彼女は僕の言葉を待っていてくれた。深呼吸をしてようやく、言葉が声になる。
「さっきの、なに……?」
「寸勁のこと?」
寸勁――またの名をワンインチパンチ。
密着した状態から、爆発的な威力をたたき出す、中国拳法の技術のひとつ。
そんな高度な技を――
「……なんで、篠井さんがそんなの……?」
「……別に。ただの習い事よ」
彼女はぶっきらぼうにそう言って、踵を返した。速足で立ち去る彼女を追いかけることが出来なかったのは、僕の走り込みが足りないのか、それとも僕がヘタレだからか、どっちだっただろう。
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