不浄夜話
@migiwa_emerald
第1話:助手席の写真立て
街の片隅に、息を押し殺すようにひっそりと、私のバイト先であるレンタルビデオショップは建っている。
区画整理に失敗したと
一階が店舗、二階が倉庫兼事務所になっている。
店長曰く、築十年程度の手頃な物件だったとのことだが、到底その言葉を信じる気にはなれない。外壁はところどころ苔生し、日陰の部分には得体の知れない黒ずみが浮かんでいる。何度掃除しても落ちることのない汚れは、むしろ日増しに壁の内側から染み出しているようにも見えた。
店の入り口は日焼けしたポスターで埋め尽くされ、店内の様子は窺い知れない。狭苦しい駐車場を踏み越えた先には滅多に開閉することのない自動ドアが据え付けられ、外界と店内を明確に区切っていた。
店前の路地は狭苦しく、またどういうわけか街路灯の明かりが嫌がらせのように遠ざけられている。おかげで常にこの辺り一帯だけが薄暗く、拭いきれない寒々しさが漂っていた。
店名はない──ないわけはないのだが、少なくとも外観でそれを表示する部分は一つもない。登記上店舗名はあるはずなのだが、私はそれを知らなかったし、知りたいと思ったこともなかった。
会員証も今時珍しい紙製で、学生が作った名刺のように素っ気ない代物だ。店名が書かれていないどころか、住所も電話番号も記載されていない。会員氏名と、何を管理しているのかもわからない会員番号だけが、かすれた文字で印刷されている。つくづくまともに営業する気があるのか怪しい店だ。
いや──怪しい、どころの話ではなく。
まともに営業する気なんて、あの店長にあるはずもない。
名前もない店の店長。
勿論本名ではない。いくら子供の名付けが難読漢字クイズのようになってしまった昨今でも、不浄なんて縁起でもない名前を付ける親はいないだろう。店名と違い、店長の本名は一応知っているのだけど、不浄さんという呼び方に慣れきってしまったせいで、今更本名で呼ぶのも気恥ずかしくなっていた。
そもそも私だってオッキーだのウッチーだの、大学生としては非常に子供っぽい、というか明確に馬鹿にされているあだ名で呼ばれているのだ。不浄さんと呼ぶのは、ささやかな意趣返しでもある。
不浄さんが経営し、私がバイトしているのは、ホラー映画専門のレンタルビデオショップだ。
今時ビデオって──と思うのだけど、DVDだけでなくVHSの商品も取り扱っているので、看板に偽りはない。恐ろしく偏った品揃えの店内は、常人なら決して長居したくない類の空気に充ち満ちている。
店の方針で有線を流したり、流行りのアイドルソングを流したりするのは厳禁なので、大抵の場合稲川淳二の怪談がBGMとして垂れ流しになっていた。悪趣味を通り越して、ここまで徹底するとむしろお笑いだ。
当然真面目な営業努力などしているはずもない。
広告を打ったこともなければ、ネットで宣伝したこともない。
平成のこの時代に、堂々と本業は霊能力者だと言い切って
ともあれ、その資金の一部が店の運転資金に転用されていることだけは確かだ。
宣伝もしない、集客もしないのに、何故そこまでして
あの頃はまだバイトとして勤め始めたばかりで、私も色々と怖い物知らずだったのだ。
「何でこの店を始めたのか──って?」
──何でって言われてもなあ。
もう半年は美容室に行っていないのではないかと思わせるぼさぼさの金髪と、ぞんざいに伸びた無精ひげ。細身の長身だが、あまり男性としての魅力に富んでいるとは言い難い。むしろはっきりと陰気で皮肉っぽい。吊り目気味の険相で、けれど不思議と取っ付きにくさは感じさせない人だ。
何と言うか、煙のような雰囲気の人。
無闇に派手な柄シャツと短パンという、評価に困るファッションに身を包み、ぼんやりした表情の不浄さんは困ったように
明確な理由がないわけではなく、それを説明する語彙を持っていないような口振りだった。
「本当はさ。坊さんになりたかったんだよ、俺は」
──それで、墓地の管理人になりたかったんだ。
「でも、坊さんになるのは難しいし、どうも墓地の管理だけしてりゃいいってわけでもないらしい。それならと思って、この店を始めたんだ」
──身の回りに、人の生き死にが欲しかったんだよ。
死んでる人が、欲しかったんだ──。
そう言って、不浄さんは眼鏡の奥でしぼむ眼球をこすった。
人の死を身近に置いておきたいという感覚も、その言葉の奥に隠された不浄さんの真意も、私には到底理解できるものではなかったけれど。
理解できないものとして、受け入れることはできる。
私がそう思えるようになったのは、まだ彼が霊能力者だと自称しているのを、若干の痛々しさと共に聞き流していた頃のこと。
私が不浄さんの店でバイトを続けていた、ある日のことだ。
大学で所属しているサークルの後輩である雅ちゃんが、奇妙な話を持ち込んできた。
友達とキャンプに行った先、ある山の麓の駐車場で、おかしな車を見たのだという。
もう何十年も前に廃車になったような、古びて錆が浮いた車体。硝子は汚れ、車内の様子を窺うこともできない。二度と動くこともないだろうその車は、いつの間にか駐車場にぽつんと放置されていた。
雅ちゃん達が着いたときには、駐車場には絶対にそんな車はなかったらしい──とはいえ、どれだけボロでも、薄汚れていても、所有者からすれば大切な愛車だ。メンテナンスして大事に乗り続けているのかもしれない。
おかしな車だと思ったのは、その外観のせいではなくて。
友人の一人が、車内に写真立てがある──と言い出したからだった。
記念写真を飾るような、可愛らしいフォトフレームではない。
それこそ遺影を飾るような、
皆が止めるのも聞かず、一人の青年が中を覗き込んでしまったのだという。
途端、彼は意味不明な叫び声を上げたかと思うと、どこかへと駆け去ってしまった。探しても探しても見つからず、携帯にかけても繋がらない。警察に連絡し、捜索願を出そうかという話にまで発展したところで──その青年が、遠く離れた街で発見されたという
もっとも──再会したとき、既にその青年は、全くの別人に変わり果てていたらしいのだけど。
「物凄い臆病っていうか、風の音にも怖がるぐらいになってて……雅ちゃん達にも何か余所余所しくて、距離を取る感じだったみたいですね」
「だった──っていうことは、今は違うのかな」
「今はもう、友達付き合いしてないみたいです。一応同じ大学だから、在学してるのは確認できたみたいですけど。講義には出てきてないみたいですね」
不浄さんと二人、暇と退屈だけは大量の在庫を取り揃えた店内で、時間潰しの雑談に身近な怪談話を交わす。およそ大学生として情けない限りではあるけれど、私もこんな時間がそれなりに気に入っているのだから救えない。
「──それで、そのおかしな車ってのがさ」
──まさか、君を追いかけてきているのかな?
尋ねられて──私は、
私が不浄さんにこの話を持ち込んだのは、まさに彼が言った通りの怪奇現象に悩まされていたからだ。
雅ちゃんの話を聞いて以来、私の住むアパートに、古びて錆の浮いた車が駐車するようになった。
窓硝子は薄汚れ、ほとんど車内を覗き見ることはできない──唯一、助手席側だけが外界へと誘蛾灯のように口を開けている。
その車を見た瞬間、私は言い様のない嫌悪と恐怖に襲われた。
まさに文字通り、命からがら逃げ出して、バイト先であるこの店に飛び込み──そこからは、なるべくアパートに近寄らないように生活している。それこそ部屋は帰って、寝るだけだ。ほとんどの時間は大学か、この店か、まるで関係ない外出先で過ごすようになった。
だがそんな生活には、当然すぐに限界が訪れることになる。真っ先に資金が尽きた。カラオケで粘るにせよ何にせよ、人間は生きているだけで金がかかるのだ。
だから私は不浄さんを頼った。自称でもなんでも構わない、霊能力者だと名乗っているのだから、怪奇現象の一つや二つは解決してくれるはずだという儚い希望に縋ったわけだ。我ながら情けないとは思うけれど、このときは本当に切羽詰まっていたのだから仕方ない。
「何とか……って言われてもなあ。俺は別に、ボランティアじゃないんだけど」
──それに、君のそれは、ちょっと俺も怖いし。
「怖いって……どういうことですか。まさか」
「いや、まさかって言われても。俺だって逃げ出したいぐらいなんだけど。まさかって言いたいのは俺の方だよ」
──何をどうしたら、そんな厄介なことに巻き込まれちゃうのかなあ。
「いや、不浄さん、不浄さんに見捨てられたら、それこそ私はどうしたらいいんですか。巻き込まれた挙げ句に酷い目に遭うとか、絶対嫌ですよ。助けてくださいよ」
「いや俺は確かに霊能力者だけどさ。だからって何でもできるわけじゃないんだよね。神様じゃないんだし……でもバイトは貴重だしなあ」
──どうしようかなあ。
さして真剣な面持ちでもなく悩み。
不浄さんは、不意にレジの締め処理を始めた。
一人か二人客が来れば御の字の店だから、処理自体も単純だし、短時間で済む。閉店業務を終わらせると、淡々とした動作で店の入り口にシャッターを下ろし、通用口の方へ向かって歩いて行った。
取り残されそうになった私が慌てて後を着いていくと、不浄さんは何だかひどく嫌そうな顔で一度振り向いて、やっぱりついて来るよね──とぼそぼそした声で呟く。
ついて行かないと思っていたのか。
ていうか、逃げようとしていたのか。
まがりなりにも自分の部下を見捨てて逃げるとか、人でなし過ぎるだろう。
「緊急事態だったら親でも見捨てるよ。我が身可愛さだ」
「堂々とそういうこと言えるのって、何て言うか、不浄さんの凄いところですよね……」
しかも私は親ですら見捨てられるレベルの事態に巻き込まれているということだろうか──だとすれば、それこそどれだけ悲嘆しても足りないぐらいなのだけど。
「はあ……まあ、仕方ないかなあ。君ぐらいしか、まともなバイトっていないしなあ」
──嫌だけど、行こうか。
言って、不浄さんは薄気味悪い湿気でむせ返る夜へと踏み出した。
慌てて私も後を追う。不浄さんは何やら落とし物を捜すように地面を見渡し、交差点を渡り歩いてはここにもない、あそこにもない、と独り言の残滓を零しながら歩き続けていた。
方向感覚を狂わせる複雑な路地を、まるで慣れ親しんだ道のように歩き回り、交差点に行き当たると何かを探す。何を探しているのか尋ねても、知ったら止めるでしょ、と言うだけで何も答えてはくれなかった。
かくいう私はと言えば、いつあの古びた車が追いかけてくるかと不安でたまらなかった。何度かアパートの前で見かけて、異様な雰囲気はもう嫌という程味わっている──何より恐ろしかったのは、嫌悪と忌避を誘う鉄の塊が、言い様のない磁力のようなものを発していたことだった。
今はまだ怯え、無視し、避けることもできる。
だけどあと何度か目にしてしまったら、きっと私は誘惑の魔手に敗北するだろう。
あの車の助手席、そこにあるはずの写真立てを見てみたいという欲求に。
「……君はさ。その写真立てに、どんな写真が飾られてると思うわけ?」
──いや、そうじゃないか。
「誰の写真だったら、一番絶望するのかな──?」
──変わってしまった彼は、誰の写真を見たのかな──。
不浄さんの呟きが夜に消える。
空には無数のか細い光。押し包む闇は威圧的で粘着質だ。
頬を撫でる風も、足下から伝わる都市の体温も、全てが不愉快な程にうそ寒い。
建ち並ぶ家々は既に明かりを落としたものが多く、中の様子を窺い知ることはできなかったが、私は敢えて住人達の姿を想像しようとは思えなかった。
閉ざされた硝子窓一枚向こう側に、写真立てが飾ってあったら。
私はきっと、どれだけ恐ろしくても、それを見ずにはいられなかったろうから。
「……ああ──やっと見つけた」
不浄さんの声。華やぐでもなく、嬉しさなど欠片もなくて、むしろどこまでも疲れ切った声音。
幾つもの交差点を通り抜けて、夜中の街を歩いた果て。
電信柱に寄り添い、捧げられた献花。
私は小さく悲鳴を上げた。不浄さんが何をするつもりなのか、想像してしまったからだ。
「仕方ないだろ。そういうことなんだから……ああ、良かった。まだ残ってた。こういうのって、すぐに処分されちゃうからさ」
──若い子の感性は凄いよね、つくづく。
くたびれた笑顔で、不浄さんが呟く。
私はそんな彼に何も言うことができず、機械的に足を動かして、住み慣れたアパートを目指した。住み慣れた、けれど帰るのが怖くてたまらない私の部屋。
コンビニを通り過ぎて、公園を突っ切って、坂道を下って。
静まり返った住宅街の真ん中。
古くもなく、新しくもない小さなアパート。
その駐車場に──錆びた車が、停まっていた。
薄汚れた窓硝子。助手席側だけはやけに綺麗に磨かれている。
──そこに、
遺影が、
写真立てが、
──誰の写真だったら絶望するのだろう──
──私は、
──きっと、
──わたしの、
「
不浄さんの──声が、聞こえた。
助手席の扉を開け放ち。
その背中で、私の視界を遮って。
きっと今も飾られているのであろう写真立てに、そっと触れた。
何かを貼り付けて。
そして──また、車から一歩後じさる。
瞬間、何の前触れもなく、錆びた車が動き出した。エンジン音もなく、道路をタイヤがこする音さえ残さず、滑るようにどこかへと消えていく。無灯火のまま、錆と汚れに塗れた車体が、夜の黒に紛れて消えていく。
私は、呆然としていた。
それしかできなかったのだ。
何を言ったら良いのだろう。お礼を言うべきか、それとも不浄さんのしでかしたことを糾弾すべきなのか。
金髪をがしがしと掻きむしって、不浄さんは拗ねたように口を尖らせて言い募ってきた。
「いや、言いたいことはわかるけどね。でも勘弁してよ。時間かけてる余裕もなかったし、これが一番簡単だったんだ──」
──あの写真立てに飾られた誰かを連れて行くだけならね。
「もう、連れて行くことのできない人間の写真を飾ってやればいい──交通事故死した若い子のプリクラとかね」
運が良かったよ。
なかなか見つかるもんじゃないからね──事故現場に行っても。
不浄さんの取り繕うような言葉を、私は半分以上聞き逃していたけれど。
それでも、きっとあの車が私の前に現れることはないのだろうと、それだけは何故か確信していた。不浄さんが、まさにそのあだ名通りの方法で助けてくれたのだということも。
素直にお礼を言うこともできず、かといって責め立てるような真似もできず。
ぼんやり立ち尽くす私を置き去りに、じゃあまた明日よろしくね──と言い残し、不浄さんはさっさと立ち去ってしまった。
助けてくれたのだ。
命の恩人だったのだろうと思う。
だから私は今でも怪しげな店のバイトとして、日に一人か二人、来るかもわからない客のためにレジに立ち続けているのだ。
せめてもの、お礼として。
自称霊能力者の、押しかけ弟子として。
私はまた、バイトに精を出し──
──私はまた、夜を巡る。
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