第7話

「おう、透か」

「まだ起きてるかよ」

 透の兄、宏の家はそこから自転車で十五分ほどだった。「もう一時過ぎてるじゃん」

「さっき帰ってきたばっかだよ」

「電車あんの?」

「いいから入れよ」

 小さな部屋だった。それに似つかわしい小さな玄関がある。スニーカーの箱が三つほど、その玄関には重ねられていた。「また喧嘩してるのか?」

「ああ」

 靴を脱ぎ透は兄の家に上がる。もうこの家には透用の歯ブラシも用意してあった。

「そうか」と、宏は納得するかのような声を漏らす。「お前、明日も学校だろ? こんな遅くまで何してたんだよ。てか、何? 手に持ってるの?」

「ああ、これ? 忘れ物」

「女物じゃん。何だよ、兄を差し置いて女遊びか」

「やめろよ、人助けしたんだよ」

 からかう兄から隠すように優子が透の自転車の籠に忘れて行ったハンドバックを彼は脇に挟んだ。宏は丁度、シャワーを浴び終えたばかりなのか髪は濡れ、肩にはハンドタオルを掛けていた。

「人助けねぇ。まあ、聞かないでおくよ」

「ほんとだよ」

「意地になるなって」

 廊下と狭いキッチンをすり抜けてリビングに行く。テレビの前にゲーム機があるが透は兄がそれを起動している様をほとんど見たことがなかった。ソファには透用のシーツが掛けてある。

「俺は先に寝るよ」

 それから宏はリビングの隣の寝室に入ると明かりを消して襖を閉めた。「おやすみ」

「おやすみ」と、透。

 彼は兄が居なくなると隠すように脇に挟んでいたハンドバッグを眺めてそこに残ったエロスの残像を読み取ろうとする。だがたかがハンドバッグである。そんなものあるはずがない。彼はそれをソファに置くとシャワーを浴びに洗面所へ行く。


   


 先に宏が使っていた為、まだ湯気が残る浴室で透は熱い湯を身体に浴びせる。興奮と孤独を忘れるように四十二度の放物線を描く湯は彼の身体に当たると弾けて飛び散り、最後は落下して排水口に流れていく。

 透は瞼を閉じる。忘れたい声と映像がその闇の中に浮かぶ。半狂乱になって叫ぶ母親の声と、自分の胸で確かに泣いていた下着姿の女の姿。深夜の「ただいま」すら気づかれない希薄な存在だという自分を認められない悔しさと、酔っ払っていたとはいえ自分を必要としてくれた女の姿。

 香りと感触はまだ鮮明に思い出せる。声もあの唇も心地も同じだった。誰に見られている訳でもない。未遂で終わったセックスを追いかけるように高校三年生の若者が自分の男性器を右手で慰めるのを留まる理由はもうなかった。

 きっと自分は愛されていないのだろう。孤独に走り出す思考を打ち消すように、透は熱いシャワーを浴びながら、心をまだ見ぬ優子の裸体で埋め尽くす。淫らな声とポージングを演出し、思い通りの色と大きさの乳輪と乳首を白い肌の乳房に描いた。その間にも彼は懸命にそして射精しないよう慎重に自分の勃起した男性器をしごき続ける。もちろんそこまでやって下半身の想像を疎かにするわけにもいかない。縮れた陰毛を股間の小さな丘の上に生やして、自分を受け入れるために悩ましげに両脚を広げる優子を彼は湯気の中の蜃気楼に映した。汐らしく泣いていたあの声はそのまま喘ぎ声に体よく流用されて透の妄想に罪の上塗りをする。意のままに優子を動かし続けて、架空の味を堪能すると勃起した男性器の亀頭は真っ赤に染まり、妖しく透の身体に手足を絡ませ胸を押し付けてくる空想上の優子と共に、彼は射精をしてしまう。

 手と浴室の壁は透の精液が付着した。次第についさっき出逢った女を自分の肴にした罪悪感が快感の余韻を上回っていく。

 彼はシャワーで手と壁の精液と共にその罪悪感も洗い流してしまおうと試みる。だがまだ残り火がぱちぱちと脈打つ勃起したままの男性器の存在が彼を人間から動物のオスであることを証明し、どんなに自分の白濁とした精液を排水口に追いやったとしても、罪悪感を短時間で消すことは出来ない。

 キスの余韻がまだ彼の心を締め付けて離さないように、淫らだった空想上の優子はこれから何度も透の夜に登場することになる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

to be or not to be 砂川りようこ @sagawaryouko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ