第一章_3
邸に上がりこんだ岦斎が、勝手知ったるといった風情で
一方、家主である晴明はといえば、自室に入るなり膝をつき、
「晴明、水だ」
我が家のような顔でやってきた岦斎を、晴明は無言で見上げた。
いろいろと言いたいことはあったが、それを並べ立てる気力もなかったので、晴明は黙って椀を受け取った。
額にじっとりとにじんだ
つい先ほど、往来で正体不明の術者と一戦を交えたときには近くにいたのだが、太陰はいま姿も神気も消している。
しかし、気配すら感じられなくとも、十二神将たちは確実に晴明の動向を
それ以上に、彼らが
彼らを式に下して以来、ただ生きているだけで、相当に体力と気力を
十二神将は、神の末席に連なる存在だ。それらを使役下に置くということは、その力を丸ごとその身に受けつづけるということでもあるのだ。
神であれ、
「晴明、
いささか案じる風情の岦斎の言葉に、晴明は冷え冷えと返した。
「何がだ」
「あー、いやー、そのー、……具合が
殺気めいた眼光で
晴明は
「見てわからないか」
わかるとも。
とはさすがに言えず、岦斎は
こうしてじっとしているだけでも、刻一刻と体力が
いまはとにかく、早く休みたかった。
晴明の不調を見て取った岦斎は、少し思案して立ち上がった。
「じゃあ、俺は帰るが……。ちゃんと何か食べろよ、晴明」
晴明は無言で手を
自分の呼吸と
神将たちは常に、人界とは次元の
晴明は陰陽師だが、彼が住むこの世界とは別の世界が存在すると、知識の上で知っていても信じていたわけではない。そもそも、自分が生きているこの世界が本当に現実なのかも、ときには疑っている。
夢は
「晴明、少し横になったら?」
隠形していた十二神将太陰である。
「ひどい顔をしてるわよ。
「……誰のせいだと…!」
「わたしたちを使役に下したのが原因だっていうなら、その通りだね」
あまりにもあっさりと返されたため、晴明は絶句した。そうか、自覚があったのか。
太陰は腰に両手を当てた。
「わたし以外のみんながあんたの前にあんまり出てこないのは、あんたのことを一応
「確かに……ほいほい出てこられては、こちらの身が持たない」
これは正直な気持ちだった。
十二神将は晴明の式神として使役に下った。主従となった彼らの間には、
神将たちはそれを承知している。ゆえに、彼らは極力人界に降りず、動向だけを視ているのだ。しかし、今日のように晴明の身に危険が
いささか
「わたしこういうのうまくないんだけど」
心からの
それが
体の
ここには現れない神将たちの姿を、
十二神将を
「…………」
晴明は脇息にもたれるようにしてぐったりと
派手な音を聞いた太陰が
太陰はひとつ
「晴明、ちょっと、大丈夫、……じゃないか。まったくもう……」
息をつく。すると、その
《限界のようだな》
頷く太陰の前に、幼い
くせのまったくない
「視てたの、
ほぼ黒ずくめのこの少年は、十二神将のひとり、水将玄武である。
「うむ。我もだが、
天一も天后も十二神将である。天一は土将で十代半ば程度の少女、天后は玄武と同じ水将で
水将は通力で作り出した水鏡に、望むものを映し出すことができる。しかし、この世のすべてを映せるわけではなく、天后や玄武の知っている場所やものでなければ映せない。
神将たちは、晴明に負担がかからないよう、その水鏡を用いて彼の動向を視ているのだった。
玄武や太陰もそうだが、十二神将たちの見かけと
「とにかく、運んじゃいましょ。玄武、手伝って」
「うむ」
子どもふたりが
「運ぶのだけ誰かに
茵におろした晴明の上に
「いや。
「そうなのよね」
ふうと
「いまのままじゃ、わたしたち全員を式神として使いこなすのは無理なのよ。約定はかわしたけど、晴明の命に
彼らが誕生してから
玄武は十二神将の中でもっとも通力が弱い。太陰は決して弱くはないが、子どもの形であるため、接しているときの晴明に構えるところがさしてないように見受けられた。
大人の姿をしている者たちに対しては、晴明はとても気を張っている。おそらくそれは無意識なのだろうが、それが
眠る青年の、肉の落ちた頰が痛ましい。
晴明を見下ろしていた玄武が、ぽつりと言った。
「……晴明は…」
頰杖をついている太陰が目を玄武の背に向ける。子どもの形をした
「我らを
思いがけない玄武の言葉に、太陰は息を
「無論、晴明がそうと口にしたわけではない。しかし、そう思っていても、無理はなかろう。もともとこの男は、我ら十二神将を
安倍晴明が、
異国からわたってきたその神を、晴明はからくも従えて、ばけものから姫を救った。
「……まぁ」
玄武の傍らにやってきた太陰が、晴明の
「ちょっとしたお
「だがこの男は、それを
だからこそ玄武は思うのだ。妖の血を引いた己れを疎んじている安倍晴明は、ならばなりゆきのようにして従えるに至った十二神将のことも、その実は疎んじているのではないかと。
しばらく晴明を見下ろしていたふたりは、どちらからともなくため息をついた。こうしていても
眠っているときにそばにいても、あまり意味はない。異界から水鏡をとおして様子を
十二神将たちは晴明を
もっとも、咎めることも面倒だと考えているかもしれないのだが、それについては深く
ふと、
「これは?」
「さっき視てなかったの?」
神将たちは水鏡をとおして晴明の動向を視ている。先ほどの術者との
玄武は
「お前の神気の激しさが過ぎて、水鏡が
太陰は肩をすくめる。
「岦斎が持ってきて晴明に
晴明は
岦斎のいう師匠とは、賀茂忠行のことだ。彼は晴明とともに忠行に師事している。
「忠行が文をよこすなんて
「ああ。わざわざ岦斎に持たせたくらいだ、急ぎの文かもしれないが……」
ふたりの神将は苦しそうに
朝になって目覚めたら、きっと読むだろう。もし本当に急ぎであるなら、岦斎もひとことふたこと言い置いていくはずだ。
夏も終わりに近づいて、
玄武たちにはどうということもないが、人間である晴明は、夜風に当たりすぎるのは毒だろう。
しかし完全に閉めきってしまうと風がまったくとおらなくなり、
「晴明は、
太陰が首をひねったとき、
『この安倍の邸に押し入る命知らずが、あろうものか』
あげられた半蔀の向こうから、花の
玄武と太陰は
これは、妖の気配だ。いや、妖などという生易しいものではない。
十二神将であるはずの玄武は、
こんなものがこれほど近くに
太陰が臨戦態勢に入り、玄武が晴明の
それは、
それをまとい、
黒絹の
まるで、夜闇に
「ここは、我らの主が邸よ。去りなさい」
一方の玄武も血の気の引いた顔だ。
『そこをおどき。わらわは晴明に用がある』
「晴明に近寄るんじゃないわよ!」
『
黒い
『子どもの
「この…っ!」
激高した太陰の全身から神気が
扇が風にはじかれ
『……おもしろい』
冷え冷えと
さすがに不利を
「り……」
そのとき、静かな制止が彼らの間に割って入った。
「……よせ」
太陰と玄武が
「晴明!」
「何をしにきた、
神将たちの顔色が変わる。
姫御前は先ほどと変わらぬ
『晴明よ。お前の忠実な
うっそりと笑みを深くした姫御前が落ちた扇に手をかざすと、ひとりでにふわりと
開いた扇は傷ひとつなく、それで口元を隠した女性は冷たく目を細める。
『大した力もなかろうに、実に小うるさい』
神将たちの
「──────!」
彼らのまとう空気が一変したのを受け、さすがに晴明が口をはさんだ。
「御前、何用だ。神将に
晴明は
「………そういうことなら、お前の相手をしている
袿に包まれた
扇の下で静かに笑う姫御前は、予想外の展開に
『あのような無力な式を傍らに置いて、いったいどのような益がお前にある』
喉の奥でくっと笑い、魔性の女は晴明の耳元でささやく。
『いまのままではお前の命を
白い指が晴明の
晴明はここでようやく身を引いた。彼の表情は
それが、神将たちを
たまらなくなった太陰が地団太を
「ちょっと晴明! そんな得体のしれない女にどうして好きにさせてるのよ!」
姫御前は太陰を一瞥する。小ばかにした色をその瞳に見て取り、太陰の中で何かが音を立てて派手に切れた。
「晴明から
これには玄武が色を失った。
「太陰! ばか者っ!」
姫御前の傍らには、晴明がいるのだ。
「しまっ……!」
姫御前は
ざわざわと
都に棲まう
優雅な手つきで造作もなく風の
『
あてこすられた太陰は、しかし反論の言葉が見つからない。
いささか乱れた衣を直し、姫御前はうっそりと笑った。
『また日を改めるとしよう』
袿の裾をさばいた姫御前は、言葉もなく立ちすくんでいる玄武と怒りに身を震わせている太陰を
花の香が
しばらくふるふると肩を震わせていた太陰は、妻戸と蔀を全開にして
「何よあれは!? それにうっとうしいわよこの残り香!」
苛立ちに任せたまま、太陰は晴明を振り返った。
「晴明! あんた
きゃんきゃんと
そういう問題ではないだろう。
しかし、いま何か言おうものなら確実に
ふと、指先が固いものに
見るとそれは、師忠行からの
何かに読めと
「ちょっと晴明、聞いてるの!? 大体なんなのあの女、どこの
拳を握り締めて、太陰は
「本来の力が使えたら、あんなふうにあしらわれたりしなかったのに……っ!」
安倍晴明は、十二神将を従えた。
しかし、従えただけで、彼はまだ、神将たちの力を完全に引き出すことができていないのだ。
十二神将たちが、生来持っている神通力は、彼らがいま発揮できるものにくらべると格段に強いのである。
使役に下る前ならば、神将たちの力は異界であっても人界であっても、変わらずにふるうことができた。しかし、安倍晴明の使役に下ったいま、それはかなわなくなった。
式神の力は、
十二神将たちが本来の力を取り戻し、発揮するためには、晴明自身が器を広げ、能力に
いま、十二神将たちは、主に合わせるために、
それに対しての不満は、ないと言えばうそになる。しかし、それらを承知の上で十二神将たちは安倍晴明の使役に下ったのだ。
それは、この男に可能性を
生きることに
広げた文を読み進めるごとに剣吞さを増していく晴明の
「晴明。忠行からの文には、なんと?」
賀茂忠行と十二神将たちに、直接の
忠行は晴明と、先ほどまでこの場にいた岦斎の師だ。当代一の
人はみな、完全な善でも悪でもない。陰陽師ともなれば、
忠行はそれらを見ても、人の心の光を信じられる強さを持っている男だと、玄武は感じている。
人間に関わったことはあまりないので、晴明とその周囲を取り巻く人間たちを、玄武は興味深く観察している。それは、玄武だけではなく、ほかの同胞たちも同じであるようだった。
しかし、そこに好意や親しみがあるわけではない。それを持つに至れるほど、人間を理解しているわけではないからだった。
「……予想通り、あまり
「それは
青年の言葉に、玄武が物言いをした。
「まったく嬉しくない、むしろ厄介だと、お前の顔に書いてあるように我には見えるぞ、晴明よ」
文に視線を落としたまま、晴明は軽く目を見開き、深々と
「……まぁ、そういう言い方もできる」
そうして晴明は、自らの口で説明するつもりはないらしく、読み終えた文を玄武に投げた。子どもの
「…………ふざけてるわ…!」
低く唸る太陰に、玄武も激した感情を
「我らをなんだと思っている」
「なんだとも思っていないのさ」
「後宮では、
忠行の
安倍晴明が、
それ以来、十二神将を
その話はいつしか
当代の帝は病弱だ。大后はその帝をいたく
晴明は、そういった大貴族に表立った関わりを持たないようにして生きてきた。
有能な陰陽師は、大貴族に重用される。身分は低くとも、陰陽の術で
いまさら闇に身を浸すことに
晴明が
関わる者は少ないほうがいい。
ただでさえ晴明は、
「……内裏で、十二神将を帝と大后と貴族どもに
玄武の手から文をひったくり、ぐしゃぐしゃと丸めながら太陰がまくしたてる。玄武が冷静に返した。
「この
「いくら
青年を指さして、太陰は
「さっきの女に言ってやりなさい! 自分には
玄武が目をしばたたかせた。
「……それは、いま言うべきことなのか?」
「言っとかなきゃ晴明が忘れそうじゃない!
若菜とは、ばけものに
「……彼女のことは、別に……」
「どうしてあんたって男は……っ!」
若菜の名を聞いた
言葉にしなくても、晴明の心がどこを向いているのか、神将たちは知っている。
「若菜のことはともかく、晴明」
いきり立つ太陰を制しながら玄武が話題を変える。
「我らは
「私は受けるとは言っていないぞ、玄武」
「ならば
晴明は答えない。
この件を命じたのは藤原忠平だと文に記されている。
断ることはたやすいが、そうすれば確実に
晴明の
「晴明」
玄武がなおも言いつのろうとしたとき、門を
「安倍晴明
次いで聞こえたのは、少しかすれたような女の声だった。
「橘の
晴明は
門を開けると、
女はほっとしたように頰をゆるませる。
「ああ、おいでになりましたか。わたくしは橘の邸に仕える者。
橘の邸に、こんな女がいただろうか。しかも、このような夜分に、供もつけずにひとりでここまでやってきたというのは、いささか不自然だ。
晴明の疑念を読んだのか、女は
「これを。信じていただけぬ折には、お見せするように、と……」
それは、以前晴明が橘家の姫若菜に
符を受け取る晴明の
女は
「わたくしは
重ねて
それは、女と同じ名の、もうじき終わる夏に用いる香だった。
【無料試し読み】結城光流『その冥がりに、華の咲く 陰陽師・安倍晴明』 KADOKAWA文芸 @kadokawa_bunko
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