第一章_3

 だいだいからさほどきよのない場所に位置する安倍邸は広く、神将たちを従えるまで晴明はひとりで住んでいた。いまもひとりで住んでいるはずなのだが、ちょくちょくとおとずれるようになった岦斎や、時折姿を見せる神将たちのせいで、以前のような静けさはすっかりなりをひそめたと晴明は感じていた。

 邸に上がりこんだ岦斎が、勝手知ったるといった風情でくりやおもむき、水をついだわんを持ってくる。

 一方、家主である晴明はといえば、自室に入るなり膝をつき、きようそくにもたれてぐったりとうなだれていた。

「晴明、水だ」

 我が家のような顔でやってきた岦斎を、晴明は無言で見上げた。

 いろいろと言いたいことはあったが、それを並べ立てる気力もなかったので、晴明は黙って椀を受け取った。

 じゆうめんで水を口にふくむと、冷たさがのどをうるおし、我知らずふうと息をつく。

 額にじっとりとにじんだあせころもそでぬぐうと、晴明はどこを見るともなしに視線を走らせた。

 つい先ほど、往来で正体不明の術者と一戦を交えたときには近くにいたのだが、太陰はいま姿も神気も消している。

 しかし、気配すら感じられなくとも、十二神将たちは確実に晴明の動向をている。

 それ以上に、彼らが使えきとして従っているのだというあかしを、晴明はその身でいやというほど感じていた。

 彼らを式に下して以来、ただ生きているだけで、相当に体力と気力をけずられるのである。

 十二神将は、神の末席に連なる存在だ。それらを使役下に置くということは、その力を丸ごとその身に受けつづけるということでもあるのだ。

 神であれ、ものであれ、強い力を持つものにはひとはあてられる。十二神将ともなればその通力はけたはずれだ。それもひとりではない、文字通り十二人。人という表現は決して正しくはないが、彼らをひと柱ふた柱と数えるのも何かが違うと思う晴明であった。

「晴明、だいじようなのか」

 いささか案じる風情の岦斎の言葉に、晴明は冷え冷えと返した。

「何がだ」

「あー、いやー、そのー、……具合がずいぶん悪そうだなぁ、と……」

 殺気めいた眼光でかれた岦斎は、いささかおよごしになる。

 晴明はぶつそうにうめいた。

「見てわからないか」

 わかるとも。

 とはさすがに言えず、岦斎はあいまいうなずくと、文台を晴明の近くに移動させた。

 ゆかに置こうとしていた椀をその上にのせ、晴明は再び、額ににじんだ汗を拭う。

 こうしてじっとしているだけでも、刻一刻と体力ががれていく。

 いまはとにかく、早く休みたかった。

 晴明の不調を見て取った岦斎は、少し思案して立ち上がった。

「じゃあ、俺は帰るが……。ちゃんと何か食べろよ、晴明」

 晴明は無言で手をはらう。さっさと帰れという意思表示だ。

 じやけんあつかいには慣れているので、岦斎は気にした風もなく帰っていった。

 だれもいなくなったやしきは、ひどく静かでがらんとしており、くうきよな気配に満ちている。

 自分の呼吸とどうだけを聞いていた晴明は、ごく近くに神気が降りたのに気づいて、たいそうに顔をあげた。

 おんぎようしていた十二神将がけんげんする。

 神将たちは常に、人界とは次元のちがう異界に在るのだ。異界とは人界に重なるように存在しているのだというが、ふたつの界は決して交わりはしない。

 晴明は陰陽師だが、彼が住むこの世界とは別の世界が存在すると、知識の上で知っていても信じていたわけではない。そもそも、自分が生きているこの世界が本当に現実なのかも、ときには疑っている。

 夢はうつつであり現は夢である。ねむっている間に見ている夢が本当に夢なのか。現実だと思っているいまが夢ではないのか。たまにそんな思考にとらわれる。

「晴明、少し横になったら?」

 隠形していた十二神将太陰である。

「ひどい顔をしてるわよ。たおれないうちに休みなさいよ」

「……誰のせいだと…!」

 めつけてくる青年に、太陰はすずしい顔で応じる。

「わたしたちを使役に下したのが原因だっていうなら、その通りだね」

 あまりにもあっさりと返されたため、晴明は絶句した。そうか、自覚があったのか。

 太陰は腰に両手を当てた。

「わたし以外のみんながあんたの前にあんまり出てこないのは、あんたのことを一応おもんぱかっているからよ」

「確かに……ほいほい出てこられては、こちらの身が持たない」

 これは正直な気持ちだった。

 十二神将は晴明の式神として使役に下った。主従となった彼らの間には、ち切れないつながりができたのだ。そして、それが晴明には予想以上の負担となっている。

 神将たちはそれを承知している。ゆえに、彼らは極力人界に降りず、動向だけを視ているのだ。しかし、今日のように晴明の身に危険がせまればその限りではない。

 いささかあらさの増した呼吸をり返す晴明を見かねた太陰は、今朝起きだしたままのしとねを適当に整えた。

「わたしこういうのうまくないんだけど」

 心からの台詞せりふであるらしく、こわに苦いひびきがはらまれているのを感じる。

 それがみようにおかしくて、晴明は喉の奥で小さく笑った。

 体のしんが熱を持っているのか、じっとしていても汗がにじむ。ろうこんぱいのとき、限界をえると冷や汗が出る。あれと同じだ。

 ここには現れない神将たちの姿を、のうに思いえがく。それぞれ個性的なで立ちをしたろうにやくなんによの存在たち。彼らを数えるとき、柱という単位を使う気になれないのは、彼らがじゆんすいな神とはまた異質な存在であるからだ。

 おんみようどうを学び、志す者ならば誰もが知っている。彼らをしきがみとして従えることを悲願としている者は、晴明が考えていた以上に多かった。

 まぶたが重い。瞼だけでなく、うでも体も、すべてが重い。

 十二神将をねらう術者は、今日の男が初めてではない。ああいったしゆうげきがもう何度目になるのか、いい加減めんどうになって考えるのをやめたのはかなり前だ。

「…………」

 晴明は脇息にもたれるようにしてぐったりとくずれ落ちた。晴明を支えきれなかった脇息がかたむき倒れる。

 派手な音を聞いた太陰がり返る。脇息の横に、晴明が力なく横たわっていた。

 太陰はひとつまばたきをした。

「晴明、ちょっと、大丈夫、……じゃないか。まったくもう……」

 息をつく。すると、そのかたわらにいまひとつ神気が降り立った。

《限界のようだな》

 かんだかい声であるのに重々しい響きが太陰の耳に直接響いてきた。

 頷く太陰の前に、幼いふうていの少年が顕現した。六歳程度に見える太陰より少し年長のふうぼうをした彼もまた、両の耳がとがっている。

 くせのまったくないしつこくの短いかみと、黒曜石のようなそうぼう。大きな丸い黒曜のかざりを首に下げ、しやくどういろかたあて、腰とだいたいに必要最低限のよろいをまとっている。袖がなくたけが少し長めの衣は彼の髪と同じような黒。帯だけが白い。

「視てたの、げん

 ほぼ黒ずくめのこの少年は、十二神将のひとり、水将玄武である。

「うむ。我もだが、てんいつてんこうが、晴明の身を案じているのだ」

 天一も天后も十二神将である。天一は土将で十代半ば程度の少女、天后は玄武と同じ水将で二十歳はたち程度に見えるによしようだ。

 水将は通力で作り出した水鏡に、望むものを映し出すことができる。しかし、この世のすべてを映せるわけではなく、天后や玄武の知っている場所やものでなければ映せない。

 神将たちは、晴明に負担がかからないよう、その水鏡を用いて彼の動向を視ているのだった。

 玄武や太陰もそうだが、十二神将たちの見かけとじつねんれいは全く別のものだ。まるで子どものなりをしているが、ふたりとも誕生してから千年単位の時が経過している。正確な年数は神将たち自身にももはやわからない。

「とにかく、運んじゃいましょ。玄武、手伝って」

「うむ」

 子どもふたりがりようわきから晴明の腕の下に体をすべり込ませ、茵までずるずると引きずっていく。神将である彼らには晴明の体重など大したものではないのだが、身の丈が低いためどうしても引きずることになる。

「運ぶのだけ誰かにたのんだほうがよかったかしら?」

 茵におろした晴明の上におおうちぎをかけながら、太陰がまゆを寄せる。玄武がしかつめらしく答えた。

「いや。ほかのものが顕現するのは、かえって晴明の負担となる」

「そうなのよね」

 ふうとたんそくし、倒れたきようそくを起こして、太陰はその上にほおづえをついた。

「いまのままじゃ、わたしたち全員を式神として使いこなすのは無理なのよ。約定はかわしたけど、晴明の命にかかわる場合はどうなるのかしら?」

 彼らが誕生してからいくせいそう。十二神将全員を一度に使役に下した術者は晴明が初めてなのだ。それまでは、四神の名をかんする者たちや、誰かひとりだけが期限つきで使役されることが多かった。

 玄武は十二神将の中でもっとも通力が弱い。太陰は決して弱くはないが、子どもの形であるため、接しているときの晴明に構えるところがさしてないように見受けられた。

 大人の姿をしている者たちに対しては、晴明はとても気を張っている。おそらくそれは無意識なのだろうが、それがろうの増す原因のいつたんであろうとも思われた。

 眠る青年の、肉の落ちた頰が痛ましい。

 晴明を見下ろしていた玄武が、ぽつりと言った。

「……晴明は…」

 頰杖をついている太陰が目を玄武の背に向ける。子どもの形をしたどうほうは、たんたんつぶやいた。

「我らを使えきとしたことを、いているのかもしれんな…」

 思いがけない玄武の言葉に、太陰は息をんで絶句する。

「無論、晴明がそうと口にしたわけではない。しかし、そう思っていても、無理はなかろう。もともとこの男は、我ら十二神将をおのれのために従わせたのではないのだ」

 安倍晴明が、りくじんちよくばんに記された神、十二神将を使役とするに至ったのは、ひと月ほど前に起こったある事件がほつたんだったのだ。

 おそろしいばけものにられたひめがいた。姫の祖父母は、助けてほしいと晴明にこんがんした。しかし、晴明の力だけではそのばけものにはとうていおよばなかった。姫を救う手立てを探した晴明は、やがて式盤に記された神にたどり着いた。

 異国からわたってきたその神を、晴明はからくも従えて、ばけものから姫を救った。

「……まぁ」

 玄武の傍らにやってきた太陰が、晴明のおもちを見つめる。

「ちょっとしたおとぎばなしみたいよね。晴明もあやかしの血を引いてるわけだし」

「だがこの男は、それをうとんじている」

 だからこそ玄武は思うのだ。妖の血を引いた己れを疎んじている安倍晴明は、ならばなりゆきのようにして従えるに至った十二神将のことも、その実は疎んじているのではないかと。

 しばらく晴明を見下ろしていたふたりは、どちらからともなくため息をついた。こうしていてもらちはあかない。

 眠っているときにそばにいても、あまり意味はない。異界から水鏡をとおして様子をていれば、何も問題はないだろう。

 十二神将たちは晴明をあるじとしているので、その身を警護するのは役目のひとつであると考えている。晴明にあだなす者が現れたとき、太陰がけんげんして護衛するのはそれゆえだ。晴明にそうしろと言われたのではなく、彼女は自発的に行動している。そしてそれをとがめられたことはない。

 もっとも、咎めることも面倒だと考えているかもしれないのだが、それについては深くついきゆうするとやぶからへびが出そうだったので、あえてれることはしなかった。

 ふと、づくえにのった白いふみが、何気なく滑らせた玄武の目にとまった。

「これは?」

「さっき視てなかったの?」

 神将たちは水鏡をとおして晴明の動向を視ている。先ほどの術者とのり合いも、当然うかがっていたものと思っていたが。

 玄武はじゆうめんになった。

「お前の神気の激しさが過ぎて、水鏡がくだけてしまったのだ」

 太陰は肩をすくめる。

「岦斎が持ってきて晴明にわたしたのよ。おしようからですって」

 晴明はてい後、中を見もせずに文机にほうり、そのままひざをついて脇息にもたれて荒い息をついていたのだ。

 岦斎のいう師匠とは、賀茂忠行のことだ。彼は晴明とともに忠行に師事している。

「忠行が文をよこすなんてめずらしいわよね」

「ああ。わざわざ岦斎に持たせたくらいだ、急ぎの文かもしれないが……」

 ふたりの神将は苦しそうにねむる青年をそっと見た。さすがに起こす気にはなれない。

 朝になって目覚めたら、きっと読むだろう。もし本当に急ぎであるなら、岦斎もひとことふたこと言い置いていくはずだ。

 夏も終わりに近づいて、じとみをあげたままではいささかすずしすぎる陽気になっている。

 玄武たちにはどうということもないが、人間である晴明は、夜風に当たりすぎるのは毒だろう。

 しかし完全に閉めきってしまうと風がまったくとおらなくなり、湿しつがこもりそうだ。半蔀をあげたままを下げ、ちようを移動させて風をさえぎることに決める。

「晴明は、やしきにいないときでも結構平気でしとみつまを開けっ放しにしてるわよね。ぬすびとたぐいが入り込んだらどうするのかしら」

 太陰が首をひねったとき、すずを転がすようなか細い笑い声がだました。

『この安倍の邸に押し入る命知らずが、あろうものか』

 あげられた半蔀の向こうから、花のがするりと室内に滑り込んでくる。

 玄武と太陰はしゆんに全身をきんちようさせた。

 これは、妖の気配だ。いや、妖などという生易しいものではない。しようのもの。いや、それよりもさらに───。

 十二神将であるはずの玄武は、ちがいなくりつぜんとした。太陰も同様だ。

 こんなものがこれほど近くにせまっていたにもかかわらず、まったく気づかなかったというのはなんとしたことか。いくら気が晴明にいっていたとはいえ、ようの存在を見落とすとは。

 太陰が臨戦態勢に入り、玄武が晴明のまくらもとに立ってじんる。

 すのに出る妻戸が音もなく開き、やみをまとったかげしんにゆうしてきた。

 それは、くらがりだ。夜の暗さとはまったく違う、冥い闇。妖たちのむ冥がりに揺蕩たゆたうものだ。

 それをまとい、ゆうぜんと現れたのは、恐ろしいぼうの女性だった。

 黒絹のかみは身のたけより長く、夜闇に赤い血をたらしたようなこううちぎをまとっている。はだは白く、鼻筋の通ったほそおもてあごの線がくっきりとして、なまめかしいうなじにつづく。切れ長の目はするどく、紅をさしたようなくちびるだけがあかい。

 まるで、夜闇にく大輪のはなのようだった。

「ここは、我らの主が邸よ。去りなさい」

 ぜんと言い放つ太陰だが、青ざめたおもちが、彼女がどれほど緊張しているかをによじつに表している。

 一方の玄武も血の気の引いた顔だ。

 によしようは袿のすそをさばくと、ようえんに笑った。

『そこをおどき。わらわは晴明に用がある』

「晴明に近寄るんじゃないわよ!」

 きばいた太陰を意にかいした風もなく、女性は手にしたおうぎで口元をかくし、のどの奥でくっと笑った。

せいのいいこと…。なれど』

 黒いひとみらいこうにも似たものがけた。

『子どものれ言に興味はない。おどき』

「この…っ!」

 激高した太陰の全身から神気がほとばしった。巻き起こった風にあおられた几帳がたおれ、からびつが押されて移動する。

 扇が風にはじかれう。女性の長い黒髪がひるがえり、白い頰が隠される。そのはざのぞいた紅い唇が、やおらせいぜつに笑った。

『……おもしろい』

 冷え冷えとつむがれたこわに、背筋にい上がるせんりつを玄武は自覚した。たおやかな見てくれとは裏腹に、その身にひそむものは恐ろしいほどじんだいなのだ。

 さすがに不利をさとった玄武は、異界でこの様子を視ているはずの同胞に呼びかけようとした。

「り……」

 そのとき、静かな制止が彼らの間に割って入った。

「……よせ」

 太陰と玄武がり返る。

「晴明!」

 ひじを支えに上体を起こそうとしている晴明は、だるそうな面持ちで女性をいちべつした。

「何をしにきた、ひめぜん

 神将たちの顔色が変わる。あいだがらなのか。

 姫御前は先ほどと変わらぬみを、かたで息をしている青年に向けた。

『晴明よ。お前の忠実なしきがみは、羽虫のようだの』

 うっそりと笑みを深くした姫御前が落ちた扇に手をかざすと、ひとりでにふわりときあがり彼女の手にもどった。

 開いた扇は傷ひとつなく、それで口元を隠した女性は冷たく目を細める。

『大した力もなかろうに、実に小うるさい』

 神将たちのそうぼうれつにきらめく。

「──────!」

 彼らのまとう空気が一変したのを受け、さすがに晴明が口をはさんだ。

「御前、何用だ。神将にけんを売りに来たわけでもあるまい」

 あでやかなころもを引いた姫御前は、神将たちを扇ではら退かせ、晴明のかたわらにすべっていくと彼にしなだれかかった。

 晴明はまゆをひそめた。

「………そういうことなら、お前の相手をしているゆうはない。帰れ」

 袿に包まれたたいを押し退けるでもなく、晴明はしかし言葉で冷たくき放す。

 扇の下で静かに笑う姫御前は、予想外の展開にぜんとして絶句している太陰にちらと視線をくれた。

『あのような無力な式を傍らに置いて、いったいどのような益がお前にある』

 喉の奥でくっと笑い、魔性の女は晴明の耳元でささやく。

『いまのままではお前の命をけずるだけの、やつかい者ではないか。のう、晴明』

 白い指が晴明のほおから顎をついとなぞり、くびすじで下ろす。

 晴明はここでようやく身を引いた。彼の表情はけんのんで、決してかんげいしてはいないということが見て取れる。しかし、それ以上はていこうらしき抵抗をしようとしない。

 それが、神将たちをいらたせる。

 たまらなくなった太陰が地団太をんでわめいた。

「ちょっと晴明! そんな得体のしれない女にどうして好きにさせてるのよ!」

 姫御前は太陰を一瞥する。小ばかにした色をその瞳に見て取り、太陰の中で何かが音を立てて派手に切れた。

「晴明からはなれろーっ!」

 いかりにまかせた風のかたまりを姫御前めがけて振りかぶる。

 これには玄武が色を失った。

「太陰! ばか者っ!」

 さけびに太陰ははっと我に返った。

 姫御前の傍らには、晴明がいるのだ。

「しまっ……!」

 姫御前はゆうに立ち上がり、太陰の放った風を扇で受けとめ、そのままもてあそぶように扇ごとひらめかせた。風の塊はそのまま半蔀の支えをね飛ばしながら屋外に消える。

 ざわざわとこうしているように庭木が鳴った。同時に、庭にひそんで息を殺していた何かの気配がいつせいげていくのを感じる。

 都に棲まうあやかしたちだ。晴明の邸には、彼らが当たり前の顔でうろついている。

 優雅な手つきで造作もなく風のどうを変えた姫御前は、こんしんいちげきを返されてぼうぜんとする太陰に言い放つ。

とうこん、かように見境なく力をふるう使えき流行はやりかえ。これまで使役を持たなんだ晴明も、さぞや退たいくつせぬであろうな』

 あてこすられた太陰は、しかし反論の言葉が見つからない。こぶしにぎめて肩をふるわせながら、くやしさに顔をゆがませて唇をみしめている。

 いささか乱れた衣を直し、姫御前はうっそりと笑った。

『また日を改めるとしよう』

 袿の裾をさばいた姫御前は、言葉もなく立ちすくんでいる玄武と怒りに身を震わせている太陰をしりに、音もなく闇をまとうとすうっとき消えた。

 花の香がただよっている。姫御前の残りだ。

 しばらくふるふると肩を震わせていた太陰は、妻戸と蔀を全開にしてごうした。

「何よあれは!? それにうっとうしいわよこの残り香!」

 とつぷうき込んで部屋の空気を入れえ、残り香をいつそうする。

 苛立ちに任せたまま、太陰は晴明を振り返った。

「晴明! あんたしゆ悪いわよ!」

 きゃんきゃんとえる太陰である。それを見ていた玄武は、思った。

 そういう問題ではないだろう。

 しかし、いま何か言おうものなら確実にほこさきが自分に向けられる。それだけはけたい玄武は、ちんもくつらぬくことに決めた。

 おのれの従える式神からせいを浴びせられている晴明は、あらぬ方に視線を泳がせた。

 ふと、指先が固いものにれる。

 見るとそれは、師忠行からのふみだった。太陰の風でここまで飛ばされてきたようだ。

 何かに読めとかされているような気がして、晴明は息をつくと文を手に取った。

「ちょっと晴明、聞いてるの!? 大体なんなのあの女、どこのしようよっ! 覚えてらっしゃい、次は絶対にたたつぶすっ!」

 拳を握り締めて、太陰はうなった。

「本来の力が使えたら、あんなふうにあしらわれたりしなかったのに……っ!」

 どうほうの唸りに、玄武ははっと胸をつかれた顔で息をむ。そうして彼は、もくぜんと文に目を通している青年を一瞥した。

 安倍晴明は、十二神将を従えた。

 しかし、従えただけで、彼はまだ、神将たちの力を完全に引き出すことができていないのだ。

 十二神将たちが、生来持っている神通力は、彼らがいま発揮できるものにくらべると格段に強いのである。

 使役に下る前ならば、神将たちの力は異界であっても人界であっても、変わらずにふるうことができた。しかし、安倍晴明の使役に下ったいま、それはかなわなくなった。

 式神の力は、あるじうつわに比例する。

 十二神将たちが本来の力を取り戻し、発揮するためには、晴明自身が器を広げ、能力にみがきをかけなければならないのだ。

 いま、十二神将たちは、主に合わせるために、きゆうくつおりの中で通力を弱めふうじるかせをはめられたような状態をいられている。

 それに対しての不満は、ないと言えばうそになる。しかし、それらを承知の上で十二神将たちは安倍晴明の使役に下ったのだ。

 それは、この男に可能性をみいしたからにほかならない。

 生きることにいて、己れのきようもなにもかも、守ることをせず。いつ境界の川をわたることになったとしてもまったく躊躇ためらいがない。そんな男が、彼ら十二神将を命がけで従えたその理由。

 広げた文を読み進めるごとに剣吞さを増していく晴明のおもちに、気づいた玄武はいぶかった。

「晴明。忠行からの文には、なんと?」

 賀茂忠行と十二神将たちに、直接のかかわりはない。しかし、水鏡をとおして晴明の動向をていれば、彼に関わる人間たちの名と顔は自然とおくに刻まれる。

 忠行は晴明と、先ほどまでこの場にいた岦斎の師だ。当代一のおんみようと名高い、老境にさしかかった男である。

 かみひげに白いものがまじり、少ししわのある面立ちは、当代一の陰陽師とは思えないほどおだやかで、もとに刻まれた笑いじわが玄武には印象深い。この人間は、しようの好ましい者であろうと思う。

 人はみな、完全な善でも悪でもない。陰陽師ともなれば、いんも陽もあわせ持ち人の心のやみも光も見ているものだ。

 忠行はそれらを見ても、人の心の光を信じられる強さを持っている男だと、玄武は感じている。

 人間に関わったことはあまりないので、晴明とその周囲を取り巻く人間たちを、玄武は興味深く観察している。それは、玄武だけではなく、ほかの同胞たちも同じであるようだった。

 しかし、そこに好意や親しみがあるわけではない。それを持つに至れるほど、人間を理解しているわけではないからだった。

「……予想通り、あまりうれしくない文だ」

「それはへいではないのか、晴明」

 青年の言葉に、玄武が物言いをした。

「まったく嬉しくない、むしろ厄介だと、お前の顔に書いてあるように我には見えるぞ、晴明よ」

 文に視線を落としたまま、晴明は軽く目を見開き、深々とたんそくした。

「……まぁ、そういう言い方もできる」

 そうして晴明は、自らの口で説明するつもりはないらしく、読み終えた文を玄武に投げた。子どものなりをした神将はそれを拾い上げ、ざっと目を通す。

 となりにやってきていつしよに文をのぞいた太陰の顔に、みるみるうちに険が宿った。

「…………ふざけてるわ…!」

 低く唸る太陰に、玄武も激した感情をかくさず応じる。

「我らをなんだと思っている」

「なんだとも思っていないのさ」

 とつぜん投げられた主の言葉に、神将たちはけんのんに顔をあげた。

 胡坐あぐらひじをつき、手のこうほおをのせて、晴明は気のない様子でたんたんとつづける。

「後宮では、みかどちようを争うこと以外すべてが退屈しのぎだ。それ以上でも以下でもないし、こばまれるなどとはじんも思わない」

 忠行のひつせきは、いつものせいの良さが感じられず、思いあぐねたようならぎがあった。本心ではこのような文は書きたくなかっただろうし、我が身に対するなさもあったのだろう。

 安倍晴明が、りくじんちよくばんに記された神を使役に下したといううわさは、またたく間に広まった。

 それ以来、十二神将をうばい取ろうと画策した術者があとを絶たない。それらをことごとく返りちにしている。

 その話はいつしかだいだいの官をとおして殿てんじようびとたちの耳に入り、やがて内裏の奥、後宮にも届いた。さらには帝や、おおきさきと呼ばれるその生母にも。

 当代の帝は病弱だ。大后はその帝をいたくへんあいしているともっぱらの噂だ。そして大后は、国の最高権力者である藤原氏の、うじの長者の実の妹だ。

 せんていだいあといだ当代は、おんとし二十歳はたち。母藤原やすの兄藤原ただひらは、関白として帝のしつせいになくてはならない権力者だ。

 晴明は、そういった大貴族に表立った関わりを持たないようにして生きてきた。

 有能な陰陽師は、大貴族に重用される。身分は低くとも、陰陽の術でかげからまつりごとえいきようおよぼすこともできるのだ。そこにはなまぐささがつきまとい、政の闇に身をひたすということでもある。

 いまさら闇に身を浸すことにちゆうちよはないが、ただでさえうとんじられているうえに見知らぬ者のうらみやいかりににくしみまで背負いたいとは、さすがに思わない。

 晴明がおんみようりように所属しながら、出世に対してよくで、ともすれば出仕もとどこおりがちであるのは、そういう理由もひとつにはある。

 関わる者は少ないほうがいい。

 ただでさえ晴明は、ぎようの血を引いた半人はんようだ。人界の政に巻き込まれるのはごめんだった。

「……内裏で、十二神将を帝と大后と貴族どもにろうせよ、ですって? 人間の分際で、何様のつもりなの…!?」

 玄武の手から文をひったくり、ぐしゃぐしゃと丸めながら太陰がまくしたてる。玄武が冷静に返した。

「この大和やまとの国において至高の地位についている帝と、その国母だ。人界においては大した地位だろう」

「いくらあまてらすこうえいであろうと人間は人間でしょうが! それに、晴明!」

 青年を指さして、太陰はきばいた。

「さっきの女に言ってやりなさい! 自分にはたちばなひめがいるんだから、二度と姿を見せるなって!」

 玄武が目をしばたたかせた。

「……それは、いま言うべきことなのか?」

「言っとかなきゃ晴明が忘れそうじゃない! わかが知ったらどう思うか! ちょっと聞いてるの、晴明!」

 若菜とは、ばけものにられていた橘家の姫だ。彼女を救うため、晴明は死にものぐるいで十二神将たちを使えきに下した。

 いつしゆんだけ、晴明の表情が動いた。しかし彼は、嘆息しながらかぶりをひとつる。

「……彼女のことは、別に……」

 めずらしく歯切れの悪い晴明の受け答えに、太陰はいらいらと髪をきむしる。

「どうしてあんたって男は……っ!」

 若菜の名を聞いたたん、晴明の表情が無意識にこわった。それは、岦斎に対する怒りや苛立ちや、ふみの内容に見せたけんのんさとは、明らかに異質のものだった。

 言葉にしなくても、晴明の心がどこを向いているのか、神将たちは知っている。

「若菜のことはともかく、晴明」

 いきり立つ太陰を制しながら玄武が話題を変える。

「我らはものになるのはめんこうむる。ほこり高き十二神将を、なんと心得るのか」

「私は受けるとは言っていないぞ、玄武」

「ならばそく、断りの文を書け。文では手ぬるい、明日にでも忠行にじかに断れ」

 晴明は答えない。

 この件を命じたのは藤原忠平だと文に記されている。

 断ることはたやすいが、そうすれば確実にきんじようや藤原一門の怒りを買い、忠行にるいが及ぶ。自分ひとりならば都を追放されようがばつを受けようがどうとでもなるが、忠行を巻き込むことはけたい。

 晴明の為人ひととなりを知っているからこその、こうみようなやり口だ。晴明自身をめるより、彼が関わる者をからったほうがずっと効果的だとかれている。

「晴明」

 玄武がなおも言いつのろうとしたとき、門をたたく音がひびいた。

「安倍晴明殿どのはおられませぬか」

 次いで聞こえたのは、少しかすれたような女の声だった。

「橘のやしきからの使いで参りました。安倍晴明殿、おられましたらどうか…」

 晴明はげんそうにまゆをひそめながら立ち上がる。少しよろめいたのを、見かねた玄武が横から支えた。

 門を開けると、被衣かずきをかぶり長い髪を背中で結んだ、見たこともない美女が立っていた。

 女はほっとしたように頰をゆるませる。

「ああ、おいでになりましたか。わたくしは橘の邸に仕える者。おきなより、急ぎ晴明殿をお連れ申し上げるようにと、申し付けられて参りました」

 橘の邸に、こんな女がいただろうか。しかも、このような夜分に、供もつけずにひとりでここまでやってきたというのは、いささか不自然だ。

 晴明の疑念を読んだのか、女はふところから白いものをそっと取り出し、差し出した。

「これを。信じていただけぬ折には、お見せするように、と……」

 それは、以前晴明が橘家の姫若菜にわたしたおりちがいなかった。

 符を受け取る晴明のおもちが険しさを増す。

 女はえんぜんと笑った。

「わたくしはよう。晴明殿、どうか、ともにおいでくださいませ」

 重ねてこんがんする女から、ふっとこうただよってきた。

 それは、女と同じ名の、もうじき終わる夏に用いる香だった。

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【無料試し読み】結城光流『その冥がりに、華の咲く 陰陽師・安倍晴明』 KADOKAWA文芸 @kadokawa_bunko

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