第一章_2

 晴明の住む邸は、西にしのとういん大路とつちかど大路のつじに面している。ここ平安にせんされて以来、先祖代々伝わる邸だ。

 身分に対してしきが大層広く、晴明はこの邸を少々持て余している。

 敷地を囲むついべいと、固くざされた門が見えた。家族はいない。父は存命だが、晴明がげんぷくした折にの地にいおりを結んでひとり移り住んだ。

 ていの門が視界に入ると、晴明は足を止めてふうとたいそうに息をついた。

 額にじっとりとあせがにじんでいる。

 大内裏から安倍邸まで、さほどきよがあるわけではない。大した労もなく行き来できる程度のものだ。

 しかし晴明は、ひと月ほど前からずっと、大内裏陰陽寮への出仕だけでかなり体力をしようもうするようになっていた。

 原因はわかっているのだが、それを改善するにはまだ至っていないのだ。

 額の汗を手のこうぬぐい、晴明は再び足を進めようとした。

 ふいに、その足がぴたりと止まった。

「─────」

 進めかけていた足を、すっと引く。そのまま三歩ばかりあと退ずさり、けんのんな表情で地面をにらんだ。

 晴明を囲むようにして、ふわりと風が立った。彼のまとう直衣のうしたもとが風をはらむ。晴明はそれを、少しうつとうしそうにしてはらった。

「──……」

 口を開きかけた晴明は、後方から近づいてくる足音を聞きとめた。

「おおーい、せいめーい」

 その声を聞くなり、晴明は舌打ちした。

 先ほどとはふんの変わった、しかしはるかに剣吞さを増したまなしで、駆けてくる相手をく。

 瞬く間に追いついてきたのは、ひとりの青年だ。

「やー、やっと追いついた」

「何の用だ、りゆうさい

 冷たく問われ、えのきの岦斎はめんらったように目をしばたたかせた。

「なんだ、いやげんが悪いなぁ。自覚はないかもしれないが、この辺にとてつもなく深いしわができているぞ、晴明」

 己れのけんを示す岦斎を横目に、晴明はかたしに背後をかえりみる。

 彼の様子に気づいた岦斎は、げんそうに首をかたむけた。

「……なんだ?」

 晴明の足元より、三尺ほど進んだ位置だ。

 そこはちょうど、西洞院大路と土御門大路の辻の、中心にあたるしよだった。

 それまでのほほんとしていた岦斎の表情がすっと引きまる。

「晴明……」

 晴明がやおら片手をあげて岦斎を制した。

 右手で組んだとういんの切っ先を口元にえ、晴明は静かに呼吸を整える。

「──オン、アビラウンキャン、シャラクタン…!」

 彼の放つ真言が空気をふるわせる。生じた波動が同心円をえがくようにして四方に広がっていき、霊力の波に洗われた辻の中心は、土中からあわのようなものをぼこりとき上げた。

しよう…!」

 岦斎が息をむ。晴明は指を組みえ両手でいくつかの印を立てつづけに結ぶ。

「ナウマクサンマンダ、センダマカロシャダソワタヤウン、タラタカン、マン」

 ぼこぼこと音を立てていたしよが、うなばらに生じるうずのようにすりばち状にしずんでいく。その中心に、瘴気のかたまりが黒く重くうごめいて、ふたつのまなこがぎょろりと現れた。

 晴明をとらえたいつついの眼は、ぞろぞろと渦をい上がってくる。瘴気は闇色の無数のうろこに転じていき、見る見るうちにそれは一じようはあろうかというだいじやに成った。

 しゅうしゅうと舌を出すへびの口から、瘴気がき出されただよう。

 晴明はそれを冷然と見据え、さらなるじゆもんつむごうと口を開きかけた。が。

「……っ」

 ふいに、晴明が息をめ、体をくの字に折り曲げた。きんこうくずしてよろけた晴明を、おどろいた岦斎があわてて支える。

「晴明、どうした!?」

 色を失う岦斎の手をいらたしそうにして払いのけ、晴明は体勢を立て直し顔をあげる。

 そのしゆんかん、生じたわずかなすきをつき、大蛇があぎとを開いて飛びかかってきた。

 かっと吐き出された瘴気の塊が叩きつけられ、息が詰まり呪文がれる。

「…っ、しま…っ!」

 眼前にせまった大蛇の遥か後方。大路のりようはしに整然と植えられたやなぎが。そのかげに、ほくそむ男が見えた。

 男のくちびるが動く。紡いでいるのは呪文だ。ならばこの大蛇は、あの男の使えきする式か。

 瞬時にさとった晴明だが、胸の奥がきりりと痛んで一瞬動きを止める。

 それが命取りだ。

「晴明!」

 ばたばたと手を動かして瘴気をり払っていた岦斎がさけぶ。

 大蛇を使役する術者が、えつゆがんだ顔でわらった。

 せつ

 巻き起こったとつぷうが、いままさに晴明ののどくびらいつこうとしていた大蛇をからり、ね飛ばした。

 同時に、ほのかなすずの音色にも似たひびきが生じた。すずやかな風が晴明と岦斎を取り囲む。

 術者は目をき、撥ね飛ばされた大蛇のもとけ寄っていく。そして、晴明の眼前に現れたかげぎようし、息を吞んだ。

 大蛇を退け、晴明たちを囲む風にはらまれているのは、まぎれもない神気だ。

 術者は震える指で、神気を放つ影をさした。

「……じゅ…」

 わなわなと震える唇から、疑念ときようがくいろどられた言葉がこぼれ落ちる。

「十二…神将…!?」

 指さされた相手は、据わった目でげんそうに返した。

「そうよ。何か文句、ある?」

「……っ!」

 術者は絶句した。

 晴明は呼吸を整えながら額ににじむ汗を拭い、つぶやいた。

「無理もない…」

 小さなその声を聞きとがめたのか、神将が勢いよく振り返る。頭の真ん中で分けて両耳の上でった長いかみが、風をはらんで大きくひるがえった。

「ちょっと晴明、いまの言葉、どういうことよ!」

 はっきりとしたかんだかい声が、やみいてぴんと響く。風をまとった幼い少女がふわりと宙にき上がると、晴明の目線とおのれの目線が合う位置で静止した。

 晴明のようなおんみようどうを学ぶ者が使用するせんのひとつに、りくじんちよくばんというものがある。大陸から伝えられた占具だ。それには十干や十二支、十二将、二十八宿などが記されており、中でも十二将──十二神将は、陰陽の術を使する者たちにとって特別な意味を持つ。

 十二神将は、力ある者ならばしようかんし、使役することのできる存在なのである。歴史の中で、十二神将何名かを使役したという記録は幾つか存在しているが、すべてを式に下した陰陽師はいなかった。

 これまでは。

 晴明は、いま己れが使役する神将をいちべつした。

 そのなりは、六歳程度のふうていをした幼い少女だ。しかし彼女は、陰陽道の占具である六壬式盤にその名を記された存在。

 れっきとした十二神将のひとりなのである。

「わたしが十二神将に見えないとでも!?」

 きゃんきゃんとえるように詰め寄ってくる彼女に、術者がわめいた。

だまされないぞ! 安倍晴明、真の十二神将を出せ!」

「失礼な!」

 風をまとって振り返った少女は、にわかに右手をかかげた。

「わたしはちがいなく十二神将たいいんよ!」

 掲げたみぎうでに風が渦を巻き、それが生み出したたつまきを術者めがけて振りかぶる。

 晴明の横で、岦斎は目を剝いた。いくらなんでもあの竜巻をらわされたら術者は無傷ではいられまい。

「おい、太陰!」

「はあっ!」

 放たれた竜巻は術者の足元に落とされ、蠢いていた大蛇をじんふんさいした。

 太陰はくるりと後ろを向き、宙に浮いたままおうちになった。

「何か文句ある?」

 彼女を止めようとのばした手をそのままに、岦斎はまばたきをした。

「…………ありません」

 ふんとばかりにうでを組む太陰は、そのまま晴明を顧みた。

「あの程度のやからおくれを取るなんて、だらしがないにもほどがあるわ。何をやってるのよ、晴明」

 無言の晴明の横で、岦斎がじゆうめんを作る。

「おいおい、ちょっと待て。理由ならお前たちが一番よくわかってるだろう? いちいちあげつらうようなことを言うのは、感心しないなぁ」

 長い栗色の髪をふたつに分けて、両耳の上のところで結わえている太陰は、体の線に沿った異国風ので立ちをしている。腰に巻いた一枚布が風をはらんでかろやかに翻り、左足首に小さな鈴がついたそうしよく品をつけている。大蛇がおそいかかってきたとき晴明と岦斎が聞いた鈴の音は、これが立てたものだ。大きな目は勝気な光に満ちている。

 その様相は人間とほとんど変わらないが、ひとつだけ大きなちがいがある。耳の形だ。十二神将たちは、耳の上部がとがっているのだ。

「わかってるわよ。でも、ないじゃないの、わたしはそれがくやしいのよ」

 本気でそう思っているのだろう、太陰の燃え上がるひとみは秋にきようと同じ色だ。

 彼らのまとうしようが異国風であるのは、彼らが大陸からわたってきた存在だからなのだろうと晴明は考えている。

「安倍晴明は、わたしたち十二神将のあるじだわ。なら、主としての実力とかんろくがあってしかるべきなのに、この為体ていたらくはなんなのよ」

 晴明は苛立ちの混じった息を吐いた。

 太陰の言は、ごくもっともだ。

 神々の末席に名を連ねる十二神将を、安倍晴明は従えた。ひと月ほど前の話だ。

 その事実は、陰陽道にかかわる者たちの間に、瞬く間に広まった。以来、彼の周囲はさわがしくなった。十二神将を彼からうばい、名をあげようとする術者が、折あるごとにいどんでくるようになったのだ。

「……安倍晴明…!」

 うめき声に視線を向ければ、竜巻のしようげきで立ったつちぼこりを全身に浴びた術者が、まなこをぎらぎらとさせながら結印していた。

「式など使わず、最初からこうしていれば良かった! 貴様の命もろとも十二神将を我が手に!」

 太陰の表情が険しさに彩られる。

 前に出ようとした神将のかたを、岦斎がつかんで引きもどした。

「ちょっと岦斎、放しなさいよ」

 こうを受けた岦斎は首を振る。

「いやいや。あっちより、あの辺でざわざわしてるやつらをはらうのを手伝ってくれよ」

 見れば、つじに群がってくる大きな影が、少しずつ数を増している。だいじやの放ったしようとなって呼び寄せてしまったのだ。

 それに、と、岦斎の目が晴明の背を示した。それを追った太陰は、主の背に立ちのぼれいの波動を認めた。

 安倍晴明は結印し、術者をひたと見据えた。

「──この術はきようあくを断却し、しようふつじよす…!」

 術者は目をみはった。

 細波さざなみが立つようにして、地面が小刻みにふるえる。そして、金色にかがやぼうせいが晴明を中心にえがかれ、大きく広がっていく。

 そこに立ち昇るじんだいな霊力をはだで感じ、術者はとてつもないきようを初めて感じた。

「こんな…!」

 それ以上声が出ない。

 ほとばしる霊力よりも、地表に刻まれた五芒星よりも。

 氷のように冷たいそうぼうが、おそろしい。

 これが、安倍晴明。

「───ばんきようふく!」

 じゆもんとともに、五芒星に満ちていた霊力がすべて術者に向けられる。

 悲鳴を上げた術者は、最後の力をしぼって結界を築いた。

 術と結界がげきとつし、ばくはつ的な衝撃が起こる。

 太陰の目がけんのんにきらめき、彼女と岦斎を囲んだ風がうずくと、衝撃を跳ね返す。

 霊気のざんが消えるころには、術者はとうに姿を消していた。

 冷めた目で辺りを見回した晴明は、ふいによろめいた。

 なんとかひざを折ることだけはかいしたが、重い呼吸をり返す。

 一方の岦斎は、太陰とともに、群がっていたあやかしたちが退散したかどうかを確かめていた。

「うーん、晴明の奴、やっぱり調子が悪そうだなぁ」

 心から案じているぜいの岦斎に、太陰が肩をすくめる。

「仕方ないわ。こんなの、わたしたちをしきがみにしたときからわかりきってたことじゃない」

 宙に浮き、自分より高い位置にある岦斎と目線を合わせて、太陰は言った。

「あんただっておんみようなんだから、あわよくばって思ってるんじゃないの」

 少しだけするどさを帯びた神将の語気に、岦斎はしようする。

「いやー、俺は晴明ほど才能ないからなぁ」

 額を押さえて息をついている晴明を振り返り、岦斎はな口調で言った。

「十二神将は、俺には荷が重い。あいつを見ていて、それを心底痛感した」

 神の末席に連なる十二神将は、なまなかな者にはとうていあつかえない。

 しかし。

「……」

 づかりの岦斎に、晴明はれいたんに言った。

「それで、何の用だ、岦斎」

「あ? あー、そうだった」

 直衣のうしの合わせに入れていた書状をいて、晴明に差し出す。

 あかりひとつないくらやみに、白い料紙がみように浮き立っているように見えて、晴明はふと、言葉にしがたい予感を覚えた。

「お前に渡してくれとしようたのまれて……」

 岦斎を太陰がさえぎる。

「そんなのあとにして、とにかくやしきに入りなさいよ」

 宙にかんで腕を組んだ彼女が、安倍ていの門を示す。晴明と岦斎は、だまってそれに応じた。

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