Ⅷ たたかいの後
1か月後、マークはノーザシティの病院から退院した。担当してくれた医者はロングだったが、(たぶんマクベスが怖いので)マークを特別扱いにし、看護師さんにも親切にしてもらって、マークは無事に元気になった。
一か月も病院に居なければならなかったのは、解毒剤を作るのに、それだけ時間が必要だったからだった。解毒剤が必要だったのは、マークだけではなかった。同じくヴィラの毒にやられた宮廷の人々が、足止めとして、作るのに手間暇のかかる解毒剤の作り方を握りしめ、ウォンシティの森の中に散らばって倒れていた。
彼らは足止めにならなかった。マクベスがまとめて壁で囲ってしまって無視したからだ。ベンソンから聞かされて、マクベスが回収に行くまで、そこで無駄に行き倒れていたが、今はマークと同じノーザシティの病院にいた。彼らも一人一人と退院していた。
毒にやられていた人の中では、マークが一番元気だった。蛇の毒は、血と一緒にほとんど流れ出ていたので、ベッドの上に起き上れたし、激しい運動でなければ歩き回ることも、身の回りのことも、おしゃべりも可能だった。入院費は心配するなとマクベスが言ってくれたので、彼は自由にご飯を食べて、寝て、本を読み、蓄積した疲労をいやした。
しかしながら、この1か月は激動の1か月だった。
まず彼は、意識を取り戻すと、医者でも看護師でも通りすがりの患者でもしがみついて頼み、無理やりマクベスの所に連れて行ってもらった。
彼はそこで陣を敷いて、手下を動かし(シンシティとウォンシティの人間が忙しく働き、黒魔の手下も交じっていた)、ウォンシティの黒魔掃討作戦を指揮していた。彼はマクベスにしがみつき、両親の居所を教えて無事を確認できるまで離れなかった。
マクベスは物探しの術を使い、すんなりと両親を探してくれた。両親はノーザシティの方角にいた。マクベスが共鳴音叉で指示を送ると、ノーザシティの市兵が、地下室に閉じ込められていた親方や他の捕まっている人たちを見つけ出し、助けだしてくれた。
両親は無事だったが、やせほそり、衰弱が激しかったので、ノーザシティでは収容しきれず、シンシティに送られてそこで治療を受けることになった。
「せっかく来たのだから、結婚式に参列していくか?銀ぎつねはシロシティにいる。」
マクベスは機嫌よく言った。彼は「具合が悪いから」と乗り気ではないマークをほうきに乗せると、行方不明者の探索を手伝っている銀ぎつねを恫喝しに行った。
銀ぎつねは廃墟の中、順番待ちの列の先頭にいて、物探しの術を使って、行方不明者を探していた。三角法を用いて位置を確認し、共鳴音叉で指示を送ると、その街にいる捜索隊や兵士が探し出してくれるのだ。廃墟の街にも人が戻り始め、家の建て直しも進められていた。
銀ぎつねは疲れ切っているように見えた。いつもにもまして老けていたし、ローブの両袖はマークの手当の時に破いたまま、下に着ている粗いワンピースの白い袖をむき出しにして、人探しの術を使っていた。
「マスター。順調です。死体の方が見つかることは多いのですが、死体でも、ご家族は見つけられたことが嬉しいようです。家族を失った子供や女性なのですが…」
銀ぎつねはマクベスを見ると、数値の書いてあるノートを出して報告を始めた。
「銀ぎつね。お前を娶りに来たぞ。そろそろわしの身の回りの世話に移れ。扇であおぐ係りが、気がきかなくてな。」
銀ぎつねはいぶかしげにマクベスを見つめ返した。その件は9時間もの話し合いの末、「行方不明者の探索が一段落し、また、ウォンシティが完全に掌握されてから」という事ですでに決着を見ていた。また不毛の9時間を過ごしたいのだろうか?
「いやまったく残念だが、この列の奴らは自力で家族を探せばよいだろう。」
列の人々がざわめいた。
「子供を探している親もいるし、親を探してる子供もいるが、本来自分たちで何とかすべき問題であるしな…。」
マークはぎょっとして、列を眺め、銀ぎつねさんを必死で凝視した。何とかしてくれるのは銀ぎつねさんだけだろう。彼女はぽかんとしているが、そういう場合ではない。
「契約もある…」
「銀ぎつねさんしっかり!契約は全部平和になってからとか言ってなかった?肝心なことに関しては自分で決めていいんだって言ってたじゃない。」
マークは思わず口をはさんだ。
「マーク、そこまで言うからには、何か頼めるだけのものをお持ちかな?」
マクベスは心からの笑みをうかべてマークに向き直った。たとえるなら、獲物をくわえて嬉しそうにした狐が浮かべそうな笑みだった。彼が本当に脅したかったのはマークの方だった。
「例えばほうきとか。わしはお前のほうきが気に入っている。渡してくれたら、しばらくの間銀ぎつねの好きにさせてやるぞ。」
「ほうきなら持ってるでしょ。ほらそれ。」
マークはたじろいて言った。あれは本当の両親の唯一の贈り物だ。命が危なくなった時でさえ、手放そうと思わなかったものだ。
「これはお前のとは比較にならん。」
「高級そうに見えるけど。」
「お前のほうきは特別だ。わしはあれが欲しい。あのほうきは魔力になじみやすくなっている。大事にしているな。」
「本当の両親が贈ってくれたんだ。あれがないと、本当の両親に僕だってわからないよ。」
マークは銀ぎつねに向かって言った。銀ぎつねは何も言わずに、成り行きを見ていた。
「それで分かった。大事にして、毎日優しい気持ちで両親のことを考えてたんだろ。
そういうものには魔力が宿る。お前が強く考えていた分、強力になったんだ。…ほら、行方不明者の捜索が終わるまで、銀ぎつねを自由に行動させてやるのだぞ。何人が家族と再会できるか、考えてみろ。」
「なくしてどこにあるか分からない。」
「構わん。お前が所有権をわしに渡すと言えばそれでいいんだ。」
「銀ぎつねさん!」
マークは、銀ぎつねが行方不明者よりマークの大事なものを優先すると言ってくれないかと思って言った。銀ぎつねはじっと考えていたが、やがてマークの耳元に口を近づけた。
「決めるのはあなたです。ですが、私の意見を言ってよければ、マスターはいつかあなたからほうきを取り上げるでしょう。どうせなら高く売りつけなさい。私の自由だけでなく、あなたの望みを言ってみなさい。」
「望みって?」
「ミュゼのあなたたちの家を再建するとか、あなたの教育費とか、お金とか、仕事とかです。あなたの今の家族にとって、大事なものを望んでみなさい。よく考えて。…本当の両親を探したいのなら、私が見つけてあげます。」
マークはよく考えてみた。おかみさんと親方はちゃんと生きていたようだし、病院にも入れてもらえた。家のことは分からないが、親方が何とかするだろう。そうすると望みはない。病院の費用が払えるかどうか心配なだけだ。
「お金。入院の費用が払えて、仕事を探す間、僕らが生活できるだけのお金が欲しい。」
「お前は賢いな。これをやろう。」
マクベスは感心したように笑うと、懐から、青い石のはまった指輪を取り出した。それは、遠征に出る前に、シンシティの王から巻き上げた宝石の最後の一つだった。
「ラピスラズリだ。貴石に過ぎないが、ラピスラズリにしては立派なものだ。売れば一か月くらい楽に暮らせるだろう。入院費用は心配ない。お前は今シンシティの王家付き魔術師の配下にあるから、シンシティ王家が出す。お前の家族も保護される。この件はすでに陛下の了承済みだ。それにこれはシンシティの王妃の宝石箱から出た物だ。シンシティに行って、これをはめて王妃に会って、仕事が欲しいと言ってみろ。指輪を手放すまでは、よくしてくれるはずだ。王妃はこれを取り戻したいだろうからな。指輪の内側を見てみろ。」
マークは青い大きな石の指輪の内側を見た。字がほり込んであるが、外国語らしくて読めない。
「幸運のまじないだ。魔法使いが作った。魔力は切れているが、それでも魔法の品は魅力があるから、高く売れるだろう。もちろん持っていても構わん。」
「持ち主の安全を願うまじないです。由緒正しい魔法使いが作ったのです。他のは、食べ物と交換で、高地の人々に上げてしまいました。」
銀ぎつねが付け加えた。
マークは指輪を見て、何も考えていないらしい銀ぎつねを見て、自分を追い詰めながらにこにこしているマークを見て、自分を注視する列の人々を見た。
(正しいことをしなくちゃ。親方がいたら、こうしろと言うだろう。)
マークは所有権をマクベスに渡すと宣言した。
マクベスはそれを聞くと、行方不明のはずのマークのほうきをマントから出し、空高く舞い上がった。
「持ってた!あいつが持ってた!」
マークは衝撃のあまり呆然とした。
「ひょっとして銀ぎつねさん知ってたの?」
「…そうではないかと思っていました。」
「それなのに言ってくれなかったの?」
「言えなかったのですよ。魔法使いの事情です。マスターに不利なことは言えないのです。」
マークは疲れもあってその場のがれきに腰かけた。銀ぎつねも隣に腰かけた。
「物探しの術に戻れば?みんな待ってるよ。」
「ごめんなさい。マーク。」
マークが聞きたかったのは、まさにその言葉だった。言い訳は聞きたくなかった。マークは答えなかったが、心の中で銀ぎつねを許した。
一方銀ぎつねはもう一つ謝らなければならないことがあった。マークが殺されかけているのに黙って見ていたことだ。それさえなければ、マークも入院しなくて済んだのだ。しかし彼女は気位が高かったので、謝るのが嫌いだった。そこで、今ので二回分謝ったことにした。気が咎めたが、心を込めて謝ったのでよしとした。
「本当のご両親を探しましょうか?」
マークはためらった。死んでいても、そのことが分かってしまうのだろうか?
「今はいい。後でまた来ても、探してくれる? …そうだ。僕、本当の両親をイメージできないけど、それでも見つけられる?」
「今は難しいですが、もうすぐできるようになるかもしれません。私の魔法は進歩しています。」
「僕病院に帰る。ノーザシティの病院にいるんだ。会いに来てほしいけど、銀ぎつねさんは忙しいよね?でも、シンシティまではすぐ行けるんでしょ?僕の両親が元気かどうか、また見てきてくれない?報告とかで行くでしょ?」
銀ぎつねがそれに答える前に、新しいほうきの飛び心地を試し終わったマクベスが舞い降りた。
「マーク、まだいたな。面白いものを見せてやるぞ。」
マークはこの前面白いものを見せてやると言われた時、恐竜が出てきたことを忘れていなかった。
「いいです。ぼくもう病院に帰ります。」
彼は断固拒否したが、その拒否は却下された。
「ティアラを出せ。持っているか?」
マークはティアラを持っていた。意識を取り戻すとすぐに、ロングが責任を持つのが嫌だとばかりにマークに返してくれた。盗まれるといけないので、いつも服の下に身につけていた。
「銀ぎつね。」
マクベスは銀ぎつねにティアラを渡した。銀ぎつねはまったく嬉しそうではなかった。生きる気力さえなくしたように見えた。
「約束だったはずだ。マークは元気になった。」
「僕まだ元気になってないよ。」
マークは何なのかはわからなかったが、銀ぎつねを助けようと思って言った。
「大丈夫です。」
銀ぎつねは助手の人たちに断って、がれきの陰に移動した。行列の人たちは、もう待たされるものと思い、座っておしゃべりをしている。マークとマクベスもついていった。人目もない。
ティアラを持った銀ぎつねが小声で呪文を唱えると、軽いつむじ風が巻き起こり、風が鎮まった時、銀ぎつねは面影はそのままで、老婦人から若いお姉さんに変わっていた。
病院に帰ると、更なる衝撃が待っていた。
「今日からお前に警護を付ける。」
マクベスはマークを送ってくれると、そう言って指をぱちんと鳴らした。
たちまちフルトが現れた。
「『無能』だ。お前の身の安全を守る。」
「この人フルトさんに似てるね。」
「名前を変えた。お前を危険にさらしたからな。」
「…足軽さんは?」
マークはその件についてなるべく触れないでおこうと思って話題を変えた。
「あいつはもう人にやった。」
人というのはあげたりできる存在なのだろうかとマークは大きな疑問を感じたが、それにもなるべく触れないようにしようと思った。どうせ何もできないのだから、深く知りたくない。とにかく生きていたことはおめでとうと、マークはこっそり心の中でカルビンに言った。
「退院まではこいつがお前を守るが、危なくなったら自力で逃げた方が身のためだ。」
「あっ、待って。」
マクベスはきっと忙しくて、もう会えないだろうとマークは考えた。ならば、決めたことを今言っておくのがいいだろう。
「マクベス様が僕を大事にしてくれるのは、配下だから?」
「見合う働きをしたからだ。それに、王女の婚約者でもある。今後もわしの下で使ってやるから、指輪はたぶん売らなくてもいいだろう。お前の両親ともに、城下に住めばいい。」
「僕銀ぎつねさんの配下になりたい。」
マークは言った。そして、フルトをちらりと見た。フルトは以前「魔法使いになるな」と警告してくれた。たぶんあれは、心からの忠告だった。
「魔法使いにはならないよ。でも、魔法使いにも助手がいるでしょ?地図に線を引いて、光がどこに向かったのか調べたり、何か魔法薬を作ったりとか。僕品物の発注とか、掃除とかをするよ。洗濯もできるよ。字も書ける。」
「ふむ。銀ぎつねの配下になるなら、わしの配下になるのと一緒だ。もうすぐ銀ぎつねは妻の一人になるからな。」
それは肯定の返事ではなかった。マークは自分の意向が無視されてマクベスの下に就かされる将来の姿を思い浮かべることができた。
「僕よく考えたんだ。銀ぎつねさんを手伝いたい。」
「男ならもっと大きな視点で物事を見ろ。わしの下に就いてこそ、真に世の中の役に立てるんだ。銀ぎつねはお前を必要としていない。」
マークはマクベスの命令をうけて、マークの手伝いを断る銀ぎつねを思い浮かべることができた。
「なら、銀ぎつねさんがマクベスさんの配下になるまで、銀ぎつねさんの手伝いをする。」
「今はよく休んでろ。」
これも否定だった。マクベスは行ってしまった。
「なんでだめなんだろ?」
「それよりも何でマスターが君をそんなにかわいがるのか、僕は分からない。」
フルトはマクベスが行ってしまうと始めて口をきいた。
「死んだ家族に似てるとか?それとも本当は子孫だとか?…まあとにかく、今は休まないといけないのは確かだね。熱が出てるみたいだ。」
フルトは無理がたたって倒れたマークを抱きとめた。
マークはフルトを従来通りフルトと呼ぶことにした。フルトは気にしていないように見えたし、「ムノー」とアクセントを変えて、病院の人たちに自己紹介をしていたが、「無能」と呼ぶのはあんまりだと彼は思ったのである。呼ばないだけで、「無能」呼ばわりしたのは正しかったのではないかと思えることが時々あった。
彼はマークの警護についているはずなのに、マークの側にいることはほとんどなく、病院内を回って、物探しや占いで人々を喜ばせ、魔力を貯めることを生活の中心においていた。お礼にとお菓子や果物をもらうと、マークの枕元に積み上げ、自分も遠慮なしに食べる。
(銀ぎつねさんなら、僕だけに食べさせるか、他の人にも上げようとするだろう…。)
マークは考えずにはいられなかった。病院内でも、食べ物はたくさんあるとは言えなかった。そして、マークはいつも猛烈にお腹がすいていた。それはマークだけではないはずだった。
しかし彼は一つだけよいことをしてくれた。マークからラピスラズリの指輪を預かると、魔力を込め直してきてくれたのである。
「持ち主の平安を祈る魔法がかかってるよ。長ければ一か月くらい持つだろう。でも、見えないように、袖口を下げた方がいいな。こういう魔法のこもったものは、すごく盗まれるから。」
「ありがとう。魔法の掛け直しって難しくないんだね。」
「難しいよ。」
フルトは得意げに言った。
「構造のすきまを広げるために、指輪の金属を熱くしなくちゃいけない。それも熱すぎると刻んだ呪文が鋳溶かされてしまうしね。でも僕は火の精の力を借りられるから。」
「ありがとう。」
マークは忠告を入れて、指輪の上から包帯を巻くことにした。
「どういたしまして。」
「フルトさんは最初から僕に良くしてくれるね。」
「どういたしまして。だけど魔法使いの好意をあてにするのはよい事じゃないよ。人間とは違う生き物だからね。とりわけマスターを怒らせるのはよくない。今度マスターに何か言われたら、必ず承知するんだ。今は可愛がっているかもしれないけど、その分怒らせるとひどい事になるかもしれない。
マスターは、人間に危害は加えないけれど、それは自分の手は汚さないと言うだけで、人にやらせることはあるんだよ。」
マクベスを怒らせるな、言われた通りにするように。このことをフルトはしょっちゅう言うので、耳にタコができそうだった。何度も言われても、マークはマクベスの配下になる気はさらさらなかった。遠いミュゼに帰って、もう顔を合わせないようにすればマクベスも僕のことは忘れるだろうと思った。一つ心残りなのは、そうすると自動的に銀ぎつねさんからも遠ざかってしまう所だ。
「でもフルトは信用していいんでしょ?それに銀ぎつねさんも。」
「誰も信用してはいけない。僕らが人に親切にするのは、すべて下心があってのことで、魔力を回収するためだ。…いざとなれば僕らは自分の保身を優先する。そして、いざという時がよくあるんだ。魔法使い同士の争いのせいで。巻き込まれて殺されかけても僕は知らないよ。本当は僕の近くにもいないほうがいいんだ。いつだれが襲ってくるか分からないんだ。」
マークは護衛についていろと言われたのにフルトが側を離れてうろついている理由がやっと分かった。遊んでいるだけかと思っていた。
「でも銀ぎつねさんは僕を命がけで助けてくれたよ。」
「彼女は保身を考えなくていいから。『護りの術』がかかっているから、命がけで助けられるんだ。命が危ないところを助けると、得られる魔力も大きいしね。」
マークは銀ぎつねがじゅうたんから落ちそうになっても、マークの方に手を差し伸べたことや、マークがついてくると言った時に反対したこと、マークが危地に陥った時に見せた表情や、何度も真剣に帰れと言ったことを思い出して、あれは下心だけじゃないと思った。
「そうかな?」
「さあ、時間があるんだから、勉強しようか。マスターの下に就くんなら、覚えておかないといけないことがたくさんあるよ。外国語と化学は必須で、鉱物学と薬学は知らないとマスターが言うことが分からない。測量や地図の見方も知っておいた方がいいな。法学も必要だ。契約を交わすときに、穴が分からないから、まともな魔法使いはみんな知っている。でも本がないから、とりあえず薬学から。…ただし何度も言うようだが、魔法使いになれと言われても断固断れよ。僕の弟はなって1年で死んだよ。死亡率が高いんだ。魔法使いは。みんな若死にする。」
フルトは病院のどこかから取ってきたらしい重い薬草の本を広げた。
銀ぎつねは若返って以来、いつも落ち着かなかった。彼女は年寄りの姿が気に入っていた。誰も寄ってこないからだ。しかし若い娘の姿だと、何人かの男性が寄ってくるようになる。「近くにいると危ない」と、いくら言ってもまともに聞いてくれない。どうやら魔法を使える小娘というのは、征服したいという男心をひどくくすぐる存在らしいのだ。年寄りの姿をしてから、そんな心配からは解放されていたのに、またその心配が出てきた。
それに今はもう一つ心配があった。マクベスが自分の所に来るかもしれないという不安だ。話し合いで解決できていたのは、老人の姿だったからで、今は違う。
銀ぎつねは自分の心を落ち着かせるために、花を一輪ガラス瓶に生けた。食べ物に慰めを求めるという方法もあったが、今は食料が不足していたし、もう銀ぎつねには食べ物は必要ない。餓えればその分魔力を消耗しやすい体になってしまうが、もう魔力もそれほど必要ではなかった。
白い雛菊の花を見ていると、自分の心が静謐になっていくのを感じた。死ぬ日まで間がないときに、必要な静謐さだった。どうしても心が焦ってしまうからだ。
不思議なことに、もうすぐこの世ともお別れだというのに、銀ぎつねにはやりたいことも、心残りも何もなかった。愛着のあるものといったら、小鹿姫くらいだが、彼女は姫だし、幼いから、すぐに代わりの家庭教師に慣れて、銀ぎつねの事は忘れるだろう。マークは両親が無事に見つかったから、案じる必要はない。行方不明者の捜索も、ウォンシティが封鎖されてからもう1週間経つし、街に人が戻っているので、がれきの下にいる人も、銀ぎつねが手を貸すまでもなく見つかるだろう。それほど緊急性を要することではなくなってきている。
つまりあとは決心さえすればいいわけだ、と、銀ぎつねは菊の花を見ながら考えた。その決心を、一秒一秒先延ばしにしているのだが、そうやっている内に、マスターが気まぐれを起こして銀ぎつねを呼び出さないとも限らない。
(私ひょっとして死にたくないんだろうか?やり残したことがあるとか?)
銀ぎつねは考えてみたが思い出せない。オオカミ人間の村から受けた恩は返した。領地安堵と免税権を王様からもらっている。銀ぎつねによくしてくれたオオカミ人間がいることはいたが、彼も新しい相手を見つけて生きていくだろう。
(じゃあ単に生きていたいだけか。)
どうもそうらしかった。今すぐ立ち上がって呪文を唱えるべきなのにそうしていない。
銀ぎつねは自分が死なない方法はないかと考えてみたが、犯した罪の大きさを考えると、やはり死ぬ以外に道はなかった。
―銀ぎつね。すぐに来い。
恐れていた呼び出しが来た。銀ぎつねは立ち上がると、円を描いてマクベスの元に飛んだ。
ウォンシティの陣にいると思っていたのに、マクベスは荒野の中の三角の岩の前に1人で立っていた。
「こっちだ。」
三角の岩は開いて、一人がかがめば入れるほどの、マクベスはぴったり立ったまま通れるくらいの小さな穴が開いた。穴の中には急で段の低い階段があり、下にらせん状に下って行った。マクベスが下りていくので、銀ぎつねもついて行った。
「マスター、ここはどこなのでしょう?」
「新しく作った隠し砦だ。」
「何のご用でしょうか?」
「跡継ぎが欲しいと思ってな。」
跡継ぎ?銀ぎつねは首をかしげた。マクベスは自分を後継者にしたいのだろうか?しかし魔法使いは魔力瓶が壊れるか魔力が尽きるまで死ぬことはない。ということは、マクベスは引退するつもりだろうか?
階段はそれほど長くなかった。すぐに大きな部屋に着いた。地下の部屋だ。凍るように冷えていた。荒野の夜は零下になるが、部屋の中も同じくらい寒い。
不思議な所だった。狭いが天井は高く、真中に大きな水盤が置いてあり、氷が浮かんでいた。マクベスは火の精を出して、暖炉に火を入れた。銀ぎつねは薪を見つけて、火を燃え上がらせた。
そうすると水盤の中身が見えた。中には真っ黒になって、あちこち肉の削げ落ちた、小さな人間の死体が入れてあった。
「その体を火の側に持ってきてくれ。」
銀ぎつねは言われた通り袖をまくりあげ、氷水の中に手を入れて子供の死体を抱きかかえた。マクベスが部屋の隅を指すと、そこには布団や大きな包みがいくつも置いてあった。
「布団に寝かせるのですか?」
「そうだ。丁重にな。それはわしのオリジナルの体だ。恐竜の腹の中から出した。」
銀ぎつねは布団を敷いて、小さな体を横たえた。
「この体を回復する間、お前はわしの護衛を務めるのだ。」
「この体を?」
銀ぎつねは死体を見つめ返した。皮膚は全部どろどろであるし、目のようなやわらかい組織は全て融けている。内臓はあるらしいが、体はいびつにひしゃげて、骨は間違いなく折れているだろう。
「マスター。すごく痛いのではありませんか?回復系の魔法使いを探して…。」
「回復系の魔法使いに知り合いがいるのか?」
「いません。」
「わしもいない。魔法使い同士はほとんど交流がないからな。いるかどうかも分からない魔法使いを探し回るより、体に入って魔力で『ヒール(回復)』をする方が早い。」
「マスター。本当にすごく痛いと思います。私が最近死んだときは、2~3分の事なのに全身を剣で突き刺されるようでした。
このお体は眼もなくなっていますし、今は死体が多いです。お気に召すのを一体見つけて…。」
「わしの悲願はな…。」
マクベスは死体の温度を触って確かめながら言った。
「子供を53人作ることだ。それはお前が産む。」
そんな話は聞いていない。銀ぎつねは現実ではないと思いたいあまりに一瞬意識が飛んだ。この人は頭がおかしくなっているのではないか?いったいどんな基準で産む人数を考えているのだろう?最短で53年かかって、しかも産んだ子を育てなくてはならないのだが、一腹100匹の昆虫か何かと間違えているのではないだろうか?
「わしの家族はわしが魔法使いになって、その後も家に住んでいたせいで、家ごと焼き討ちにあって、一族郎党が死んだ。その人数が53人だ。幸い、彼らの血はわしの中にも一部流れている。その日から、死んだ人間を産みなおすことがわしの悲願になった。だからオリジナルの体でなくては意味がない。血が変わってしまうからな。
人間の体に備わっている生殖細胞は数に限りがある。だからわしは、このことを目標にした時に子供の段階で成長を止めた。魔力を強めに体に循環させれば、齢を取るのがゆっくりになる。そうやって、妻ができるまで生殖細胞の無駄遣いをしないようにしたわけだ。
お前もそうしろ。子供を全員産むまでは、若いままでいてもらわなくては困る。」
ああ何てことだ!目的はおよそまともではないが、打つ手は少しも間違いがない!銀ぎつねは悲鳴を上げて裸足で逃げ出したい気持ちを必死で抑え込んだ。もう師弟関係の契約を結んでしまったから、地の涯まで逃げたとしても呼び出しがあったら帰らなければならない。
「もう表面は溶けたようだ。そろそろ始めよう。」
銀ぎつねはショックが大きすぎて止める言葉が出てこなかった。マクベスが死体の中に魔力瓶を移すと、すぐにヒールが始まった。
フルトは毎日マークに勉強を教えた。フルトは他の子供に教えることもいとわなかったので、マークの個室は子供が大勢来て、小さな教室のようになった。もっとも教科は魔法使い仕様で偏っていた。マークも勉強は小学校以来だったので、楽しかった。唯一の不安は将来のことだ。早く両親に会いたいし、早く仕事がどうなったのかまだ掃除夫でいられるのかを確かめたかった。
「ねえ、僕の両親はどうしているかな?」
子供たちが帰って二人になるとマークはよくそう尋ねた。
「シンシティに行く人に頼んでおいたから、安否の連絡くらいはそろそろ来るんじゃないかな?」
「来た?」
「まだ来ない。」
返事もいつも同じだった。マークは待っていられなくなった。
「ねえフルトさん。お願いだから、ちょっと様子を見に行って。フルトさんなら瞬間移動で行って帰って来られるじゃない。」
このところ毎日マークは同じことを頼んだが、返事はいつもNOだった。
「マスターに君の護衛を頼まれているから、離れるわけにいかない。君に何かあったらマスターは僕をひどい目に合わせるよ。」
すでにマークに何かあったために「無能」に改名されてしまったフルトが言うと、とても説得力がある。行きたくない口実ではない。それでもマークはいかに自分が安全かを力説し、毎日のように新しい理屈を考えたが、だめだった。マークの心配は一向に収まらなかった。
ところがある日の夜、フルトから言い出した。
「マーク、シンシティに用事ができた。両親の顔も見てきてあげよう。余裕があったら。詳しい名前と特徴を教えて。」
マークは詳しく説明し、念のために肌身離さず持っている掃除夫の鑑札も預けた。これを見れば、親方とおかみさんもマークが心配していると一目でわかるだろう。
フルトはそれを受け取って、瞬間移動の準備をした。円を描き、マークは他の人が円の中に迷い込まないように見張りを引き受けた。
「でもシンシティに何の用事?」
「銀ぎつねに頼まれた。痛み止めを貼るのと飲むのと、両方欲しいそうだ。でもロングに聞いたら、薬剤は底をついてないって。ほんとかどうか知らないけど。
シンシティにはあるらしい。だから取りに行く。」
「銀ぎつねさん今何しているの?病人の世話?」
「さあ。でもマスターの用事らしい。何か戦いでもやっているのかもしれないな。」
「銀ぎつねさんここに来るの?僕も会える?」
マークはもう一度銀ぎつねを見たいと思って聞いた。この前若返ってから、たびたびあの若い銀ぎつねを思い出すが、記憶があいまいなのだ。もっとよく見ておけばよかったといつも思っていた。
「用意ができたら会いに来ると言ってたな。銀ぎつねがずいぶん好きなんだな。」
その通りだった。今でもマークは銀ぎつねの助手になりたいと思っていた。そのために勉強も熱心に取り組んでいる。今は役に立つことを見せるチャンスだった。
「僕も行きたい。手伝いたい。」
「え?」
「僕が一緒に行けば、護衛の任務を果たせるでしょ。それに、シンシティの方がここよりも安全だし。」
「しかし君の病院はここだよ。」
「戻ってくるよ。」
「外出許可とらないと。今日はもう無理だ。」
「あのさ、フルトさん。瞬間移動は消費魔力が大きいって言ってなかった?」
「やたら魔法に詳しくなったなあ…。」
「ほうきで行って帰ってこれば、僕も行けてフルトさんも護衛の任務を果たせるし、消費魔力も少なくて万々歳じゃない。急ぐの?」
「急ぐらしいが…。ここからシンシティなら、ほうきなら3時間くらいかな。いや、飛ばせば2時間で着く。銀ぎつねには向こうに取りに来てもらえばいいし…でも飛行中襲われたら危なくないか?」
マークはにやっとして包帯で巻いたラピスラズリの指輪を見せた。
「その魔法もどの程度役に立つのか不透明だ。」
「もう試してみた。花瓶を腕の上に落としたら、花瓶がそれたよ。」
「あんまり試すと魔力が早く尽きちゃうぞ。それにあんまり強い魔法じゃないみたいだ。やっぱり護りの術ほどの効果は期待できない。」
マークはすでにフルトが傾きかけているのを感じた。消費魔力が少ないところに惹かれるらしい。あとはマクベスが怖いだけのようだ。
「マクベスさんだって、僕が助手として役に立ったら、喜ぶんじゃない?初仕事で。」
「そうだな。じゃあ、答えられたら。鎮痛剤に使う薬物は?」
「アヘン、チョウセンアサガオ、ダツラ、…ええっとそれから…檳榔子。麻薬にもなる。」
「じゃあ、併用する薬剤を言えるか?」
「当帰、センキュウ…血流を良くするもの。それから、筋弛緩系には人工呼吸がいる。」
「僕も行きたいって、外国語で言ってみて。英語でもフランス語でもいいから。」
「Je voudlais aller, moi aussi. To help ギンギツネ。」
マークは「銀ぎつねを手伝うために僕も行きたい」を、アピールのために二つの言葉で言った。
フルトは眼をみはった。マクベスの眼力はすごい。一週間も教えていないのに。この子の頭は魔法使い向けにできている。しかし魔法使いになってはいけない。そのためにも、助手のままで役に立つことをマスターに見せるのがいいかもしれない。
「温かいコートを持っていたっけ?そう?じゃあ、僕のローブの中に入って。病人は体が冷えるとよくないから。」
フルトはほうきと飲み物を取りに行くと、マークを乗せて窓から飛び立った。
マークにとっては久しぶりの空中飛行だった。フルトは体がなく、ふわふわした銀色の魔力の固まりで、服を膨らませているにすぎず、ギュッと押し込んで形を整えると、マークがローブの中に入ってしかも魔力の固まりがクッションになって支えてくれるという居心地の良い空間ができた。
外は見えないが、ばさばさというローブのはためきが体にぶつかり、足の先に冷たい夜の風があたるのを感じる。シンシティから向かってきた時と違い、悲壮感もない。マークは空中飛行を楽しみ、銀ぎつねにまた会えると思ってひそかに笑った。
「あれっ?今の何だ?」
フルトが言うか言わないかと同時に、若い女性の悲鳴が落ちていく。その声には聞き覚えがあった。
「銀ぎつねさんだ!」
マークはローブの中から出た。
「何だって?」
「今の悲鳴は銀ぎつねさん。」
「もう薬剤を取りに来たのか?事前に連絡してくれてもいいのに。」
まさか二人が空中にいると思わず、瞬間移動と同時に落下していた銀ぎつねは、何とか激突の前に浮遊術で二人の所まで浮かんできた。
「薬はまだ用意出来ていない。」
フルトがとげのある声で言った。妹弟子に命令されている状況が、彼は気に入らなかった。自分は無能呼ばわりされているのに、彼女は名前が無事で、ヴィラを倒した功績も彼女にあるのも気に入らない。護りの術という欲しくてたまらない術を持っているのもいけ好かないし、何よりも嫌なのは、初めて会うと同時に助けられて借りを作ってしまったことだった。総合的に言うと、彼は銀ぎつねが後輩なのに自分の風上に立ちそうな気配が気に食わなかった。
「マスターがマークに病室に帰るように言っています。」
「たったそれだけ?テレパスで十分だ。」
「何で帰らないといけないの?ちょっと薬を調達するのを手伝いたかっただけだよ。明日の朝までには帰れるよ。フルトさんがいるから安全だし。」
銀ぎつねは心持首をかしげて、じっとマークを見つめた。月明かりで深く考えるような目がよく見えた。マークはどきどきした。
「まだ病状がよくなっていないからでしょう。」
「薬を取りに行くのに、置いて行ったら護衛ができない。」
「マスターから外出許可が出ました。私が取りに行きます。」
「最初からそうしてくれ。じゃあ帰るぞ。」
「待って。フルトさん。銀ぎつねさんに鑑札を言付けて。銀ぎつねさん、僕の両親の様子を見てきて。鑑札を渡して、僕はよくなっているって言ってほしいんだ。」
「分かりました。でも、マスターの用事が急ぐようなら、無理かもしれません。」
銀ぎつねは木の鑑札を受け取ると、ローブの内ポケットにしまった。
「それで気が済むのなら。よくなるまで、病院を出てはいけませんよ。蛇毒の患者はノーザシティの病院に集められています。解毒剤もあそこで作っているんです。だから、あの病院を離れないほうがいいんですよ。…少しだけ送って行きます。」
銀ぎつねは断られる前にほうきの一番後ろにまたがった。マークは前と後ろをフルトと銀ぎつねに挟まれる格好になった。
―あなたは正式なマスターの弟子ですよね?
―そうだ。
―契約を交わしている?誓えますか?
―誓う必要あるか?改名までされているのに。200年以上前からの弟子なんだぞ。兄弟子には敬意を払え。
―一応誓ってください。誓ってくださるならお話ししたいことが。
フルトは手を上げて魔力を出した。
―誓う。わしはマクベスマスターの正式な弟子だ。
―なら申します。この子がノーザシティを離れると同時に、マスターが苦しみ始めました。そして、『マークを止めるように』と言って、意識を失ったんです。そんなことってありますか?
―それはおそらく『依代』だ。
―『依代?』
―まったくこれだから若い魔法使いは。一度も見たことがないのか?体を失って魔力瓶だけになると、生きてはいるが、自由に動けない。たまたま近くに来た人間に、取りつくことになる。これが『依代』だ。
死体と違い、相手の命の炎を借りているから、ある一定以上の距離を離れられないんだ。…ああこの子はマスターの依代なのか。だからマスターは、僕にこの子の護衛を任せたんだな?重要任務じゃないか。
マークは二人が意識を集中させたり、ときどき目線を交わすのを見て、テレパスでしゃべっているに違いないと思った。
「何か僕に聞かれるとまずいことしゃべっているの?何?」
銀ぎつねはマークが可哀想でたまらなかった。
(マスターがこの子を戦いに連れて行ったのは単純に離れられなかったからだけだったんだ。それなのにこの子は両親を助けるために、自分が必要なんだと信じて一生懸命だった。そのためにこの子は何度も危ない目にあった。…一番悪いのは、これからもそれが続くことだ。この子がたまたまマクベスの復活を手伝ったばっかりに。)
しかしそうした一切をマークに教えるわけにはいかなかったので、憐れみを込めてマークをしっかりと抱きしめた。マークもそれで別に文句はなかった。
「とにかく戻ろう。マスターの命令だから。」
フルトはほうきの柄を返した。
「薬はお前が取りに行くんだな?銀ぎつね。」
「はい。その前に、あなたのこともマスターに報告いたします。」
『依代』の事をぺらぺらしゃべったことがマクベスの耳に入ると思うと、フルトは若干焦った。
「その必要はないだろう。」
「必要はあります。私には判断ができませんから。」
銀ぎつねは、いくらフルトが口が軽くて無能でも、こうして軽く脅しておけば言いふらすこともあるまいと思った。後はマクベスが自分で判断して命令するだろう。彼女はマークに別れを告げた。
「じゃあね、マーク。あのね…。もしマスターに誘われても、絶対に魔法使いになってはいけませんよ。」
「それ、フルトさんもよく言うよ。」
銀ぎつねはフルトを見直した。マークのことを本当に大切に思っているらしい。
「その通りです。あなたには魔法は必要ない。なくてもちゃんと生きていけます。魔法使いになんてなったら、余計な苦労が増えるばっかりです。」
「魔法が使えたら便利だろうと思うけどな。」
「魔法使いになったら、マクベスの弟子になることになります。あなた、あの人に絶対服従したいですか?私たち二人は、マスターに生殺与奪の権利を与えています。機嫌を損ねたら死ななければならないんです。そうなりたいですか?」
「…なりたくない。でも、銀ぎつねさんの弟子にならなってもいいよ。」
「それもだめです。私はマスターの言うとおりにしないといけないから、私の弟子になってもマスターの弟子になるのと同じなんです。
これを言えるのも、これが最後でしょう。今度会う時には、マスターの正式な弟子になっているでしょうから、たぶんこんなことは言えません。その時私がどれほどあなたを魔法使いになれと言ったとしても、それはマスターに命令されてついている嘘ですからね。今言っていることが本当です。OK?」
「OK.銀ぎつねさん。バイバイ。Au revoir.」
マークは銀ぎつねが空中に円を描いて消えるのを見送った。そして、ため息をついた。帰りは行きよりも気持ちが重かった。
銀ぎつねはマクベスに報告した後、薬を取りにシンシティに向かった。マクベスの痛みは相当なものだった。あれでは体力が消耗する一方で、耐え切れないと、銀ぎつねは見たので、麻酔薬を取りに来たのである。彼女は医学の心得のある魔女だったので、自分の薬剤の蓄えがあった。まだ原材料の段階だから、使い方を知らない城下の医者は、持って行ったりしていないだろう。適当に調合すれば、一時的で安全な、貼り薬を作れるはずだった。あとは深い眠りの術をかければ、マクベスも不要な体力の消耗を避けることができる。
銀ぎつねの勘が「先にマークの両親を探せ」と告げていたので、彼女は城下の病院に降り立って、マークの両親らしき人物を見舞ったが、痩せ衰えてとても無事とは言いかねる状態だった。
(いくら養生したところで、あれでは元通りにはならない。薬の助けがいる。ちょうど今から取りに行く所だから、人参を組み合わせて…でも、城下の医者が私の言う事を聞いてくれるだろうか?)
難しいと彼女は思った。彼女はシンシティではかなり見下されている存在だった。何か頼めば、絶対にそれだけはしてもらえないだろう。薬を言付ければ、下手すればごみ箱に捨てられるかもしれなかった。
彼女は悩みながら、空を飛んで衛兵の詰所を通り越し、直接王女の部屋にくっついている自分の小部屋に入った。そして、麻酔薬と回復薬を使い慣れた椅子、小机、天秤、乳鉢で調合した。これはオオカミ人間の村で、本を片手に覚えた技術だった。後は必要だと思っていた古シーツと古タオルその他荷物を小鍋をくるみ込み、いざ帰ろうとしたところへ、衛兵が剣を構えて飛び込んできた。
「ああやっぱり!明かりがついていたからそうではないかと。あなたが空を飛んで入ってくるところを見ていましたからね。おおい、みんな。銀ぎつねさんだぞ。」
見つかったので、それもあまり敵意はないようなので、銀ぎつねは食べ物と調味料も調達していくことにした。
「宮廷魔術師のマクベス様の言いつけで、荷物を取りに来ました。食べ物の補給もお願いしたいのですが、出納係はどなたなんでしょう?今でも財務課に行けばよろしいんですか?」
「陛下がお呼びです。すぐ来てください!」
それは頼みではなかった。銀ぎつねは5人の衛兵に連れられて、シン王の元に連れて行かれた。
マークは着替えて寝るように言われたが、目が冴えていた。
「フルトさん。」
フルトは中に火の精が入っているランプの明かりで本を読んでいた。
「銀ぎつねさんを助ける方法はないの?」
「助けるって?」
「だから、マクベスさんの弟子をやめさせる方法。僕が代わりに弟子になるって言ったら、マクベスさん、銀ぎつねさんを自由にしてくれるだろうか?」
「師弟契約はそう簡単に破れるものではないし、また、破るべきでもないよ。マスターの保護下にいれば、あの魔女だって安全に暮らせるんだ。」
「でも銀ぎつねさんは安全じゃないか。護りの術で。マクベスさんが銀ぎつねさんと結婚するって言っている。それだけでもやめさせる方法はないの?」
「何だって!」
フルトはマークとは違う意味で驚愕した。
「じゃあ今度からあの魔女の機嫌も取らなくちゃいけないのか!」
フルトも反対してくれるらしいので、マークは喜んだ。
「ほら。やめさせるには、どうしたらいいの?教えて。」
「やめさせる方法はない。マスターがそう言っているんじゃ。マスターの弟子になるなんて、ほのめかすのもだめだよ。そんなことしたら、あれよあれよという間に、弟子になってしまう。…そうか。マスターはそんなにあの魔女を気に入っているのか…。本当に奥さんができるかもしれないな。」
「本当にって?」
「マスターは、気に入った女性がいると、すぐに結婚しようとする。今まで人間の女性に惚れたのは見たことがある。一度なんか、マスターを袖にした女性を人形に変えようとした。―そんなことしたら黒魔になってしまう。弟子達で止めて、人形にしてくれる黒魔を雇ったことがある。」
「…ぼく、それを止めたいんだけど。」
「弟子はマスターを袖にできない。大丈夫だ。」
「9人も奥さんもらうって言ってたよ! 」
「少なくとも殺されにくくはなるという事だ。妻になるんだから。銀ぎつねは女でうらやましい。僕も魔女なら、その手があったな。」
「銀ぎつねさんが可哀想じゃないの?」
「可哀想に思っているように聞こえるかね?」
フルトは珍しいものを見るかのようにマークをしげしげと見て、それから悪い菌が感染するというかのようにとびずさった。
「ひょっとして、銀ぎつねに好意を抱いているのか?」
「うーん。好意っていうか…。」
「なんてこった。人間という奴は。全く利益にならないのに動こうとするんだから。もう寝なさい。明かりも消すよ。」
銀ぎつねは、荷物を後ろに置いて、じゅうたんの間で、シンシティの王と向き合っていた。シン王も銀ぎつねも、一言も口を利かなかった。シン王の方が先に沈黙を破った。
「ご苦労だった。ウォンシティの魔法使いを倒したそうだな。」
「マスターの尽力があってのことです。」
「倒したのはお前だと聞いている。ぜひ直接ねぎらいたかった。」
銀ぎつねはむしろ警戒した。間違いなく企みがある。シン王が銀ぎつねをほめたりねぎらったことなど一度もない。急いでいるので、さっさと要件を言ってもらわなければならなかった。
「まだ治安は回復しきれておりません。私物を取りに参りましたが、これで失礼したく存じます。」
「まあ待ちなさい。マクベスと親しくなったかね?よく仕えているかね?」
「全力でお仕えしております。」
銀ぎつねは皮肉をこめて言った。
「ならば結構…。しかし私に報告がなかったようだが?本来なら、お前からもわしに状況を説明するべきであろう。お前は王宮付きの魔法使いなのだから。」
「私は陛下により、その任を解かれてマスターの配下となりました。それでも、ウォンシティの陣営を通して、私の活動に関する報告はお送りしております。お手元に届いていないでしょうか?」
「いや。見た。しかしわしが知りたいのは、ウォンシティの状況なのだ。」
「マスターが管理しています。」
「それだ。問題は。マクベスが、ウォンシティ統治官の職を要求していることを知っているか?」
「マスターのしていることに口をはさむ権限は私にはありません。…もしもそのことをご希望なのでしたら。最初に申しあげておかなければならないのですが、魔法使いの師弟関係は、絶対服従なのです。」
「現状回復が一番だと、わしは考えている。」
シン王は銀ぎつねの言葉を無視してつづけた。
「ところがマクベスが、この機会に7都市連合国家を作り、わしがその盟主に座るべきだと言った。わしは断った。そのことは知っているか?」
「私はその時寝ておりましたので。しかし、マスターの行動に口をはさむ権利は私には…。」
「黒魔が大勢いて、予断を許さない状況だというから、陣営を設置し、治安確保に当たらせているが、おかげで国庫は火の車だ。どれだけ食料が不足して値上がりしているか知っているか?陳情書はその事ばかりだ。」
銀ぎつねはもう口を挟まず、(彼女は無駄なことはしなかった)シン王が自分で話し終えるのを待った。
「治安が回復すれば、もとのウォンシティの王族を探して、元通り王の座についてもらうべきだろう。なんだったら、小鹿姫をやって有利な同盟関係を結んでもよい。しかし、シンシティの直接統治には、わしは断じてうんとは言わんぞ。国家は王族が治めるのが一番良いのだ。それを、あの小男は、分に過ぎた要求を出してきおる。」
シン王は銀ぎつねの反応を待ったが、銀ぎつねは何も言わなかった。
「何か言う事はないのか?」
「マスターに聞かなければ、私には何も申し上げられません。」
銀ぎつねはこんな権威にあぐらをかいて逃げてばかりいる王様は見捨てて出て行ってしまいたかったが、小鹿姫の運命がこの王様に結び付けられていることを考えると、それができなかった。
「銀ぎつね。お前にやったオオカミ人間の村の永久領土保証書の事だが…。取り消すこともできるのだぞ。」
「綸言汗の如しと申します。陛下の玉璽が信用できなくなるのは、この不安定な状況下では致命的で、陛下の玉座さえ揺るがしかねません。…もちろん、できる限りのことはさせていただきます。ただ、お約束ができないのです。」
銀ぎつねは左右に目を走らせ、黒魔の気配を探った。シン王は本当に銀ぎつねを通してマクベスを説得したいだけだろうか…?この状況下で最も恐れなければならないことは、成功体験だ。何もしないで隠れていただけで勝利を手にしたシン王は味をしめて、魔法使いを他にも雇おうとするに違いない。そしてその魔法使いが、黒魔法使いなら、ウォンシティと同じことがシンシティでも起きてしまう。
銀ぎつねはシン王の強気を恐れた。マクベスをないがしろにし始めている。よくない兆候だった。もうマクベスに代わる他の魔法使いがいるのではないだろうか?
「陛下。」
ここはマクベスのまねだと思って、銀ぎつねは膝をついた。へりくだるだけで、初対面にもかかわらずマクベスは王様から宮廷魔術師の座をせしめた。頭を下げるのは大っ嫌いだが、小鹿姫のために、やるしかなかった。
「シンシティは私の故郷、陛下にも大きなご恩がございます。ここは衷心から申し上げますが…。」
「あー。とりあえずその破れたローブを脱いでくれるか?目障りだ。」
銀ぎつねは袖なしのローブを背後に脱ぎ捨てて、ワンピースだけになった。
「陛下。この国をお治めなのは陛下であり、もしも陛下がやりたくないと思われることがおありでしたら、マスターをお呼びになり、直接理を分けてお聞かせになればそれだけで十分でございます。マスターは野心のない魔法使い。事実彼が宮廷魔法使いであった300年前、王家は安泰でございました。これは稀有な事でございます。
そしてもしも陛下がマクベスを退けようとお考えでしたら、間違いなく殺さねばなりません。それも一度目で必ず成功しなければなりません。なぜなら、退けられたマクベスを生かしておいたら別の国に行き、その国が7都市連合の盟主になるでしょう。そして、もし失敗したら、報復として、マクベスは王冠をかぶる人間を変えるでしょう。魔法使いは自分の信頼が裏切られると必ず報復しなければならないのです。人間と違い、裏切っても噛みつかないと思われたら、居場所はなくなるのです。それはマクベスに限らずどの魔法使いを信任なさる時でも、退ける時にやり返されることを考えておかれなければなりません。
そしてマクベスを倒せるものなどおりません。あの魔法使いは一週間とたたないうちに、7都市連合を壊滅寸前まで追いやったウォンシティの黒魔軍を制圧したのでございます。」
銀ぎつねは言い切ると、王様の顔をうかがった。へりくだり、脅かしもまぜて、忠義心から言うふりをしてみたがどうだろうか?マクベスがいた時に王家が安泰だったかどうかなんて知らないが、たぶんシン王も知らないだろう。そうしながらも、いつまで心にもない嘘をつき続けていられるか、自分でも不安に感じた。特にシン王に恩がある、忠義心があるという所は大嘘だった。何かあれば一番危ないのは小鹿姫だから言っているにすぎなかった。
そうしてシン王の顔をうかがううちに、ざくっという何か恐ろしい音が聞こえ、途端に口の中から血があふれるのを感じた。
(切られた…)
銀ぎつねは胸元を見て、銀の刃が突き通っているのを確認すると、残っている息で呪文を唱え、天井へと逃げた。背後から刺したものは、全身に鉄の鎧を着ていた。だから魔法使いの気配がしなかったのだ。
二の手が来る前に、銀ぎつねは天井からぶら下がり、瞬間移動の陣を描き、かすれ声で呪文を唱えた。銀ぎつねは血を残して消えた。
「陛下。あれは大ウソでございます。心から忠誠をつくし、陛下の意に従い、退けられても反撃など思いも及ばない魔法使いもおります。私は先祖代々ウォン王家に仕えてまいりましたが、王の命令は絶対で、処罰も甘んじて受けてまいりました。」
鉄鎧は膝まづいて熱心に訴えた。しかし王も臣下も銀ぎつねの去った場所を呆然と見上げていた。銀ぎつねが刃の通らない体をしていることは有名だったのだ。一体何が起こったのだろう。この男はそれほど強いのだろうか?
「銀ぎつねを殺せと誰が命じた。これでマクベスを敵に回してしまったではないか?謹慎しておれ!」
シン王は自信を持って命じた。この男は唯々諾々と動いてくれるのを知っていた。
「はい陛下。申し訳ございません。しかし弟子を殺されたぐらいでは魔法使いは動かないものでございます。せいぜい言い争いになるくらいです。それにあれで魔法使いは死にません。」
「ではどうやったら死ぬのだ。」
「強力な毒がございます。先ほどの刃に塗っておきました。」
「なんと。誰がそんなことを命じた!銀ぎつねは生かしておいても邪魔にならない。」
「申し訳ございません。陛下の御身を守ろうと!一度弟子になれば、あの魔女の意思がどうであろうと、師のためにしか働けないのです。」
鉄鎧は這いつくばり、機嫌を損ねたシン王がもう行ってよいと言ってくれるまで土下座をしていた。そして、やっと出られると、自分の手下にしておいた衛兵に、銀ぎつねの荷物を回収させた。
「マッチ、ナイフ、薬?…これは何だ?鏡か?」
鏡のような形をした、銀色の平たくて円い金属が、銀ぎつねのローブの内ポケットに入っていた。呪文も彫りこまれていないし、魔力も感じないが、顔も映らない金属の鏡を後生大事に持ち歩いているところが怪しかった。とりあえず手掛かりは薬だけである。
「銀ぎつねは薬の調合をしていたんだな?」
「はい。」
「マクベスはケガをしているのか?何の薬か分かる者はいるか?」
「城下の医者なら分かるでしょう。薬草取りでも知っているかも。」
「どっちが近い?」
城下の医者の方が近かったので、鉄鎧は医者を呼びにやった。医者は忙しい現場を引き離されて頭に来ていたが、魔法使いには2種類あって、気が弱いのと気が強いのがいる。銀ぎつねは逆らっても大丈夫だが、最初の一言をかけられた瞬間に鉄鎧はマクベスと同じ種類の魔法使いで、逆らってはいけないと思った。
「この薬が何の薬か教えろ。」
鉄鎧はわざわざ持って行く手間を惜しんで、医師の顔に薬の包みをぶつけた。医者はため息を押し殺しながら、薬の中身を調べた。実は彼は薬草は専門外だった。銀ぎつねは薬草の薬を作るが、それが分かるのは町はずれの医師だけだった。ところがその事を教えたとたんに、彼は暴力を受けそうになったので、慌てて知っていることをしゃべった。
「たぶんカイヨー夫妻の薬です。」
「それは誰だ?」
「ウォンシティに彼らと行った少年の両親です。私の病院で治療を受けています。銀ぎつねが見舞いに来て、くれぐれもよろしく頼むと看護師に頼んでいきました。」
「いつだ?」
「ちょっと前です。今日のうちです。」
「よし。そのカイヨー夫妻をここに連れてくるのだ。俺が面倒を見る。その薬は置いて行け。それから、至急その薬草の医者にここに来させるように。」
医者が来るのを待つ間、鉄鎧は木の椅子に腰を下ろし、考えをめぐらせた。シンシティにはただ生きる道を求めてきたのだが、マクベスを殺さなければここに居場所はない。その少年は、それほど気にかけられているのなら、少年の両親も人質として使えるかもしれない。
と、背後にランプを持ったフルトが現れた。鎧のせいで気配にも物音にも気づきにくくなっている男の背後から、火の精を鎧の面当てののぞき穴から忍び込ませ、鉄鎧の舌を焼いて呪文を唱えられなくした。そして鎧男を抱えると、マクベスの元へワープした。
「マスター。帰りました。」
フルトが入ると、マクベスの隠れ砦の地上の出口はすぐに閉じた。砦はマクベスの魔力が張り巡らされ、護られているので、一度扉を閉じると、瞬間移動もマクベスの砦を見つけることはできなかった。
フルトはマクベスのテレパスの指示を受けて、浮遊術で鎧男を暖炉の中に放り込んだ。そしてマクベスのやり方は知っていたので、薪も入れて火をつけた。
マクベスは暖炉を閉じて、鉄鎧男が焼け死ぬに任せた。声が残っていれば「銀ぎつねに毒を盛った。解毒剤の作り方を知っているぞ。」と言う事も出来たが、動物のような泣き声わめき声しか出せなかったので、何も伝わらなかった。
マクベスは体中が痛いので、いらいらしていた。
―銀ぎつねはうまく医者に渡せたか?
「はい。ロング医師には借金の減額の件もちゃんと伝えておきました。」
―お前が側についているように。わしの妻だ。丁重に扱え。
「マスター。マスターの護衛も必要です。私がここに残りましょうか?」
―帰れ。名前はフルトに戻してやる。
「ありがとうございます。」
フルトは優美にお辞儀をすると、階段を跳ねるようにして戻って行った。
マクベスはフルトが出るのを待って、さらに砦を潜らせて、先端しか出ないようにした。ぱっと見にはとがった深緑の岩が突き出しているようにしか見えなかった。シン王が他の魔法使いに色目を使ったことについて、よく対策を考えなければならなかったが、今は痛すぎて何も考え付かなかった。
銀ぎつねは起きるなり心臓に痛みを感じた。そこが刺されたのだから当然だった。ロング医師が縫い合わせたので、彼女の魔力が傷口を回復させ、起き上れるようになったが、毒は体内に残っていたので、銀ぎつねは寒気と吐き気が同時にした。
銀ぎつねは起き上って、病院にいることに気が付くと、壁伝いにナースセンターまで行った。
「痛み止めを頂けないでしょうか?」
看護師たちはすでに手術は終わっているので痛くても我慢するほかないと言ったが、銀ぎつねは聞かなかった。銀ぎつねの姿を見かけたので、病院内をうろつくフルトが側にやってきた。
「何してる?」
「痛み止めが欲しいのです。全身の。できたら貼るタイプのを。できるだけたくさんほしいのです。1週間分くらい。」
フルトはなぜ銀ぎつねがそれを欲しがっているのか分かったので、医者を恫喝して、痛み止めを吐き出させた。
「僕が持って行くよ。」
「いえ。私が行きます。」
「僕の方が兄弟子だ。」
「あなたは場所をご存じないでしょう?」
「お前はこの薬の使い方を知らないだろう。」
「あなたが教えて下さったら知っています。持って行くだけですから。」
フルトが譲った。「一日に一回肩甲骨の間に貼る。2時間たったら取る。子供なら3分の2の量でもよいそうだ。」
銀ぎつねは4枚の麻酔薬を受け取ると、非常口から出てまずはシンシティへと飛び、それからマクベスの元へとワープした。
マクベスは隠れ砦の先端をコツコツと何度も叩く音を聞いた。魔力で完全にくるみこまれている内は瞬間移動のターゲットにもならないし、テレパスも届かない。そして、隠れ砦を開け閉めできるのはマクベスだけだ。
マクベスは針でつついたほどの穴を開けて、テレパスだけは通るようにした。そして、銀ぎつねを入れた。
銀ぎつねがもらってきた麻酔薬を貼ると、マクベスはここ数日で初めて息ができるような気がした。今までが苦しかっただけに、余計に気持ちが軽々とした。
「いい気分だ。…銀ぎつね。もうすぐウォンシティの封鎖は解ける。後は城下町を掃除するだけだ。」
「はい。」
「あんなのは小者にすぎん。『世の中に砂の真砂は尽きるとも世に悪党の種は尽きまじ』ってやつだな。でも約束だから、封鎖が解けたら弟子になってもらうぞ。」
「はい。」
「完全に弟子になったら、妻にするし、そのスピリットリングの作り方も教えてもらう。悪党の魂を利用できたら便利だしな。心配するな。わしは悪党の魂しか使うつもりはない。」
マクベスは銀ぎつねがいつも袖に隠している左手を指差した。たしかに護りの術は左手につけているスピリットリングであったし、幼いころからつけて外したことがなかったので、左の薬指は指輪の形に合わせて変形していた。
銀ぎつねにはこの指を見せてそのことを教えた覚えはなかった。護りの術がスピリットリングによるもので、死者の魂を使役しているのだとはおくびにも出したこともなかったはずであったが、なぜかマクベスは知っていた。しかし銀ぎつねはもう決意を固めていた。だから穏やかに黙っているに止めた。
「はあ。眠くなってきた…。それともう一つ、言っておくことがあるぞ。ウォンシティの姫を娶るかもしれんが、嫉妬はするな。行方不明の姫がいるらしい…。」
「マスター。暖炉を開けていただけますか?」
マクベスは部屋が寒くなるといけないから言うのだろうと思い、暖炉のとびらを開けてやって眠りについた。中から黒焦げの死体が転がり出てきた。鉄鎧が暖炉の奥に押し込まれているのを見ると、自分を刺したあの黒魔術師だろうと銀ぎつねは思った。鉄が熱くなりすぎて、自分で脱いだのだろう。彼女は鎧を出して暖炉を片付け、炭になった体を突き崩して魔力瓶を取り出すと、マクベスの枕元に置いた。
この魔力瓶を適当な体に入れ、適当に拷問を加えて、何の毒を盛ったか聞きだすことはできる、と銀ぎつねは考えた。でもあれは運命の声だったのだ。早くなすべきことをなさねばならないという。悪寒と吐き気は強まる一方で、銀ぎつねは急ぐことにした。暖炉に薪をたくさんくべると、そのなかにシンシティからとってきた錫製の鏡を投げ込んで、熱くなるまで温めた。錫の融点はそれほど高くない。しかも銀ぎつねは魔法がかけられる程度に金属が熱くなればよかったから、暖炉で十分だった。
熱くなるのを待つ間、銀ぎつねはマクベスの眼ざめに備えて香りの高いお茶を淹れ、手紙を書いて、ポットと一緒にマクベスの枕元に置いた。
そして病院から着ていた手術用の簡易服を脱ぎすてると、自分の腕にナイフで陣を刻み、最後の呪文を唱えて、自分の生命力をすべて鏡に閉じ込めた。そして銀ぎつねは死んでしまった。
「マスター…」
マクベスは銀ぎつねの声を聞いたような気がして目が覚めた。強い金色の光も見たような気がした。
銀ぎつねは何か用事で出ているのかいなかったが、お茶が入っていたので(まだ熱かった)マクベスはそれを飲んで、手紙を見つけた。
「親愛なるマスター
お茶には回復の効果のある薬草を混ぜておきました。麻酔薬は一日に一回肩甲骨の間に貼って2時間たったら取ってください。子供の体なら3分の2枚でよいそうです。
マスターには申し訳ないと思いますが、私はスピリットリングの秘密を守らなければなりません。大叔父はそう望んでいるでしょう。弟子になるわけにはいきません。それに私の罪も償わなければなりません。私のつけているスピリットリングは大叔父が私の母を殺して作ったものです。人間達に襲われて、そうするよりほかに私を守る方法がなかったのです。魔法をかけた大叔父はその場で黒魔法使いになって人間達に殺されました。
そうと知りながら、私は実の母の魂を使い続けていました。マスターがよいことをしてくださったので、生きてきた値打ちができました。ヴィラをつかまえると同時に、母の魂は解放しました。マスターのおかげで、魂が消えてなくなってしまう前に解放できたのです。ありがとうございます。
今度は私の魂で同じことをしなければなりません。錫の鏡に物探しの術を刻みました。魂による魔法はより強力になり、持ち主は通常なら呪文の及ばない範囲まで、問えば知ることができるでしょう。
私を解放できる魔法使いはおりません。魔力か魂が尽きるまで、鏡の姿でお役にたつことを望んでおります。 錫」
マクベスは暖炉の前の、裸で倒れている銀ぎつねの手から鏡を取った。「我に尋ねよ」と、フランス語で刻まれていた。
「この鏡の中の魂を元の持ち主に返す方法を知りたい。」
マクベスは尋ねた。
「現在はいない。」
鏡の表面に光の文字が浮かび上がった。
「いつ現れる?」
「将来は分からない。過去には、修道院台地の細工師のアゾート」
それは銀ぎつねの大叔父だった。会ったことのない人物を召喚できない。マクベスはさらに質問を続けたが、無駄骨に終わった。
退院したマークは、フルトに連れて行かれて、じゅうたんに乗って氷の海へ向かった。フルトはたくさん食料をじゅうたんに乗せていたので、遠くても問題なかった。寒くなったらコートも用意されていた。
しかしマークにして見たら、一番に両親に会いたかったのに、いくら抗議しても聞き入れてもらえなかった。
途中ウォンシティでマクベスを乗せたが、彼はすっかり変わっていた。今までの子供の姿よりもずっと齢を取っていた。マークよりも少し上くらいの少年の姿をしていた。憔悴しきっていて、口数も少なかった。マークは初めてマクベスに同情した。それより気になるのは、銀ぎつねが見当たらないことだ。代わりに銀ぎつねと同じくらいの大きさの細長い包みを、マクベスは大事そうにじゅうたんに乗せた。
「銀ぎつねさんは…?」
マークは不安を感じながら何とか銀ぎつねを見つけようとした。
「これになった。」
マクベスはローブのポケットから、赤い紐のついた金属の円い板を取り出した。
マクベスが変えてしまったのかと思い、はっとにらみつけたが、その顔がどこか哀愁を漂わせていたので、マークは説明を待った。
「あと10歳年を取っていたら、違う道を選べたんだろうが…。罪の意識に絶えられなかったんだ。母親と同じ姿で、人の魂を道具として使った年月の償いをするつもりだ。
気持ちは分かるぞ。家族を失った心の傷からは、絶対に立ち直れない。また新しい家族を作るしかないんだ。だから一緒になろうと言ったのにな…。」
マクベスは赤い紐を握って、金属板に話しかけた。
話のほとんどは分からない。しかしマークはマクベスが悪いのではないかと思った。9人の奥さんの一人にすると言うからだ。
「それ何?」
「鏡だ。」
「何でそんなものに!」
「だから本人の希望だ。あいつが自分でこの鏡を作って、自分で呪文をかけて、自分で自分を封じ込めたんだ。前から自分の命を分割することが得意だったからな。
失せ物探しの呪文が刻み込んである。あいつの魔力が尽きない限り、何でも探したいものに答えてくれるだろう。これを使う魔法使いは魔力をたくさん回収できるだろう。」
マクベスは手の中でぐるぐる回る鏡に話しかけた。
「でもさびしくなるな。鏡は人じゃないからな。それより今のうちに、聞きたいことを聞いておけ。こいつもそれを望んでいるだろうからな。」
マクベスは鏡をマークの顔に付きつけた。
青銅鏡のような趣の鏡は、片面は無地で、裏にはびっしりと文字が刻み込んであったが、飾り気はまるでなかった。深みのある銀色で、錫らしかったが、本来の鏡のように物の形を映してはいない。
(失せ物探しという事は、なくしたものを探せるという事かな?)
マークは一番聞きたいことが、真っ先に口をついて出た。
「僕の本当の両親はどこにいるの?」
平らな面はつるつるした黒い膜が張ったが、なにも映さなかった。マクベスは鏡をのぞいて真っ黒の表を見た。
「壊れてる?」
「いや。探し物はこの世にないという事だ。お前の両親はこの世にいないんだ。たぶん一緒にいたらお前まで死なせてしまうから、手放したんだ。育ての親を大事にしろ。」
マクベスは鏡をポケットにしまった。マークはしばらく無言でいてから聞いた。
「それで今からどこへ行くの?」
「もう十分に生きたから、そろそろ眠りにつこうかと思う。」
「どうして?」
「もう十分生きたからだ。」
「銀ぎつねさんが死んだから?」
「それもある。あいつとは人生を共にしようと思っていた。」
「それをこの鏡に言ったら、銀ぎつねさん戻ってこないの?」
「来ない。わしはこいつと氷の中で眠りにつく。もしもフルトが鏡の中に入れた魂を解放する方法を見つけたら、フルトと一緒にお前が起こしに来てくれ。」
「見つからなかったら?」
「永遠にそのままにしておいてくれ。」
「じゃあ、マクベスは死ににいくの?」
「そうだ。」
「何で僕が一緒に行くの?」
「借りがあるから返そうと思う。」
もっと詳しく説明してほしいと思ってフルトを見たが、彼は厳粛な顔で黙っていた。フルトの方は死ぬつもりはないようだ。
「魔法使いって、簡単に死ぬんだね…。」
「そうだ。」
それきりマクベスはコートのエリに顔をうずめ、口を利かなかった。フルトに話しかけようとしたが、彼もマクベスに習ってあまり口を利かなかった。
氷山に到着すると、マクベスは適当なところで氷山に穴を開けさせ、中に入った。
「氷で出入り口を閉じれば、水もないし、中の空間は保てるだろう。氷漬けになったところで大して構わん。」
マクベスは銀ぎつねと思しき包みをまず入れ、顔の所を開いた。やはりそれは銀ぎつねの遺体だった。マークは胸が痛んで仕方なかった。止めようはなかったのだろうか?やはりマクベスが結婚すると言ったのが悪かったのではないかと思われた。
マクベスはいとおしそうに銀ぎつねの顔を撫でると、膝を抱えて自分も隣に座った。
「今からわしを呼び戻してもいい条件を言う。」
マクベスはマークを見た。
「まずはお前が生きていて、わしを迎えに来ることだ。お前が死んだら自動的にわしをよみがえらせるものはいなくなる。だが、魔法使いになって永遠の命を得ようなどとは考えるな。お前には強制できないが、なれば後悔することになるぞ。」
魔法使いになるなと言うのはこれで3人目だった。3人知り合いになった魔法使い全員が魔法使いになるなと言う。
「僕魔法使いになりたいとは思っていないよ。」
「それがいい。わしは両目の視力を失ったから、親がわしを魔法使いにした。第3の目が開いて、物の構造が見えるようになるからな。しかしどんなことが起こるか分かっていたら、寺に入って琵琶弾きになるほうを選んでいた。必ず後悔することになるから、魔法使いにだけはなるな。今の気持ちを変えるなよ。
2つ目の条件は、わしが必要な困難な状況にあるという事だ。そうでなければ起こしてくれるな。また今度のように魔法使いが幅をきかせて、国家が滅亡の危機にあるとか、そういう事でなければな。
そしてその場合は、わしが好きになりそうな女性を必ず用意しておくことだ。わしの好みは頭がよくて、芸事の達者な従順で美しい女性だ。覚えたか?」
マクベスはフルトの方を見て言った。マークは真面目に受け取るのは馬鹿らしいと思ったが、フルトは厳粛にうなずいて、重要なことを忘れないようにメモを取った。
「3つ目の条件は…そうだ。これを満たせれば、いつでも迎えに来ていいぞ。スピリットリングの秘密を得ることだ。スピリットリングの事は知っているな?」
「はい。死者の魂を使役する黒魔術です。」
「正確には、自分の魂を使う分には黒魔術ではなく白魔術に属するようだ。魂の解放の方法が分かれば、銀ぎつねをもとの体に戻せる。そうなったら迎えに来てもよい。分かったな。」
「分かりました。」
フルトはふたたびマスターから解放されることを思って、嬉しさでいっぱいだったが、それを慎重に押し隠して言った。スピリットリングの秘密に近づかなければ自分は永遠に自由なのだ。
「これは命令だ。わしがここにいる間、全力を挙げてこれを調査するように。修道院台地に住んでいた銀ぎつねの大叔父のアゾートが研究していたが、何も資料は残っていないだろう。これが銀ぎつねの持っていたノートだが、文字は全部消えて判読は不可能だ。」
「マスター、その鏡を貸していただけますか?探索に必要です。」
フルトは欲深さを押し隠そうとして、隠しきれていなかった。
「そうだな…。マークに預けよう。」
マークは銀ぎつねの中身をあっさり手放して、空っぽの体だけを側に置いた。
「マーク、忠告しておくが、魔法の品だと分かった瞬間に盗まれる。それに一度でも使ったら癖になるぞ。だから、絶対に使うな。一度も使わないのが一番だ。そうすれば誰も盗りに来ない。マーク、わしを呼び戻すことがあるかもしれないと思うなら、この鏡をなくすなよ。フルト、マークと鏡を守れ。ただし魔法使いにはするな。
さあ、穴を閉じる。」
マクベスは氷の穴を閉じた。氷山はただの氷山に戻り、どこに穴があったのか、見分けはつかなくなった。じゅうたんでまた海を越して、近くの町まで帰り、熱いシチューをマスター不在を喜ぶフルトにごちそうしてもらって、シンシティへ両親へ会いに行った。
それきりマークはマクベスのうわさを聞くことはなかった。
ほうきを持った掃除夫とよく似た名前の魔法使い 白居ミク @shiroi_miku
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます