Ⅶ 砂上の楼閣

 ヴィラは次の避難場所にすでに移動していた。城から連れてきた親衛隊の黒魔法使い達も一緒だった。彼らには全員、瞬間移動術その他を教えてあるので、ヴィラの移動についてくることができた。

「遠征隊たちはまだ帰ってきていないの?」

 彼女はいらいらしてテレパス担当の護衛に尋ねた。定期的に四方にテレパスを送らせて状況を把握するために、任務を空けてある護衛である。

「城の兵隊は今の所30人を過ぎたくらいです。」

「追手は?人間の罠にはまった?」

「大規模な閉鎖術で囲まれているようで、状況が把握できないようです。」

「人間達に助けてくれと叫ばせなさい。」

「相手の魔法使いの所在地が確認できません。どちらの方角に向かって叫べばよいのか分からないと言っています。突然真っ暗になり、…」

「言い訳は聞きたくない。」

「はい。」

「あなたたちは言われたことをするだけなの?そんなの無能者よ。無能者は殺すしかないわ。」

「はい。」

 護衛たちは、他の状況ならいざ知らず、この状況で殺される可能性は薄いことは分かっていたので、それほど恐れなかった。追手に追いかけられている今、戦力を無駄に減らすわけがないのだ。

「とにかく、そこにいる黒魔に、閉鎖の囲みを破って白魔を見つけ出すように言いなさい。そして、人間達が毒を飲んでいて、解毒剤を作らなければ死ぬという事をとにかく教えなさい。知っていれば白魔が助けないわけはない。アアッ!」

「王妃様」「王妃様」「ヴィラ様」護衛たちはすぐさま我勝ちに手を差し伸べたが、異常は見つからない。重い不治の病だといいなと誰もが考えた。

「物探しの術よ!光線が見えただけよ。すぐに移動する。」

 ヴィラはすぐに移動すると言いながら、護衛を見渡して、人数を数えた。

「6人。3人は残れ。命がけで追手を足止めせよ。」

「アイアイサ。」

 6人全員が足をかちりと鳴らして敬礼した。

「待て。ここではない。まずは王子様の所に向かう。王子と冠や王装束は一緒に行動しているだろうな?」

「輿と一緒にごく軽装の装束を一着は持ち歩いているはずです。」

「よろしい。着いたら私は移動する。3人は残れ。白魔が攻撃して来たら一人ずつ人間を殺しなさい。王子は最後に。では、王子の所へ。」

 7人の黒魔は一斉に瞬間移動した。


「瞬間移動しなくて正解だ。」

 梢の陰から皇子の輿の方をのぞき見てマクベスは言った。

「あいつら、網の罠を張っている。下手に瞬間移動したら、真中に飛び込むところだった。」

 ヴィラの姿は見えないが、罠の真ん中にある輿の中にいるのかもしれないし、いないのかもしれない。

「瞬間移動か。それとも見られる危険を冒して物探しでヴィラの居場所を突き止めるか…。聞いてるのか?お前がわしを連れてきたんだぞ。」

 銀ぎつねは太い枝にまたがってひたすら睡眠をとっていたが、うなずきとも見える頭の動かし方をした。

「誰か出てきた。」

 マクベスは続けた。「王族だな。何を企んでる?王族なんかほっとくぞ。」

 王装束を付けた王族らしい若者が、罠の真ん中でのんびりと空を見上げている。

「どんな罠があるか分からない。魔法を使ったらすぐに居場所がばれて戦いが始まる。倒さないと追ってくるから倒すまで戦わなければならない。戦ってる暇なんかない…。銀ぎつね。何か知恵を出せ。」

 銀ぎつねはもごもごと意味のない返事をした。

「足止めにお前を置いていくか…?いや、むしろ…。」

 マクベスは落ち葉をかきのけると、手近な棒を見つくろった。

「銀ぎつね。このあたりの落ち葉を掃除しろ。陣を描く。」

 銀ぎつねは下りる代わりに、寝床にしていた枝から落ちた。寝たままポケットを探り、棗の実を全部口の中に入れて、何とか目を覚ますと、マクベスが陣を描くのを手伝った。この機会に魔法陣を盗みたいが、目がしょぼしょぼして陣の呪文が読めない。

 マクベスは長い外国語の呪文を唱えた。これも聞いて覚えたいのに、頭がぼんやりして、子守唄にしか聞こえない。

「…召喚!足軽!」

 魔力が爆発して、同心円状のさざ波が広がった。と同時に、輿の近くにいる黒魔達がこちらに向かってくる。召喚陣の中央には足軽と名付けられたカルビンがいた。

 すすの入った小さな椀を持ち、手にすすを付けて、しゃがみ込んで何かをしようとしている最中だった。手の先にマークの顔があると思えば、ちょうど良い高さだった。彼は銀ぎつねの姿を認めると、とたんに顔をしかめた。

「あっ、銀ぎつねさん。困りますよ。マークを真っ白にしたのあんたですか?目立ってしょうがない。」

「お前に命令する。あそこに王族がいるから、黒魔と戦って助け出せ。」

 王族と聞いてカルビンがふっと指差した方向を見たところ、飛んでくる黒魔と鉢合わせした。

「一体なんで!」

 百戦錬磨の近衛兵も思わず叫んで振り返ると、マクベスと銀ぎつねはすでに瞬間移動して理不尽にもいなくなっていた。敵に向き直って防御を固めると、攻撃の手のすきまから、たしかにウォンシティの王子が見える。

 近衛兵の本能がまだ残っていた。彼は敵の手をかいくぐると、保身より先に王子の元へと飛び出して行った。黒魔の体は本体さえ攻撃されなければ死ぬことはないのだ。彼は体を斜めにして体の中心に埋め込まれた魔力瓶を守り、頭を下げて、あとは発破術で腕を吹っ飛ばされようが足が一本足になろうと構わないことにした。片手さえあれば、王子の逃げる時間を稼げるのだ。

 置いてきぼりにされた護衛たちはカルビンを追う前に顔を寄せ合って相談した。マクベスたちの消え方が早すぎて、瞬間移動の目的地にできるほどよく視界におさめることができなかった。つまりあの仲間らしい黒魔を生きたままとらえて、目的人物をイメージさせるしかない。

 すなわちそれはカルビンの弱みである王子の奪い合いをして、延々闘い続けることを意味した。



 たどり着いた先では、まだヴィラは罠を張っている最中だった。3人の護衛は人数が減ったせいで、まだ網を張りきれていなかった。ほうきマクベスは銀ぎつねをすくい上げ、網のすきまをくぐらせて脱出させると、爆弾代わりにヴィラに投げつけた。

「命がけでそいつにつかまれ!」

 しかしヴィラは銀ぎつねが円の範囲内に入る前に円を描いて消えていた。

「くそっ。」

 思わずマクベスは舌打ちした。3人の黒魔にかかずり合っているうちに、ヴィラに防御を固められてしまう。大勢の兵隊を呼ばれたら、もう到底手が出せなくなる。

 炎の龍を出して一網打尽にしようとしたが、ヴィラの護衛は甘くなかった。3人とも逃した。

「マスター。先に行ってください!」

 銀ぎつねが叫んだ。マクベスがほうきのまま急上昇すると、銀ぎつねは倒れたまま陣を描いて呪文を唱えた。ドーム型の岩がせり上がり、護衛ごと銀ぎつねを包んだ。

 銀ぎつねに任せて先を急ぐという手もあったが、マクベスは行かなかった。

(もうすぐ出てくる。こいつらは全員瞬間移動が使えるんだからな。)

 マクベスは上空で目を光らせた。ドームの中では、ドスンドスンという不穏な地響きがする。銀ぎつねがやられているのではなく、攻撃しているのだと思いたい。

 望まなかったが、戦うしかない。しかもそう簡単にいなせる相手ではない。焦りからマクベスは髪の毛が逆立ちそうだった。

 ここで待っていたら、ヴィラに準備の時間を与えてしまう。大勢の兵隊の中に入られたら手の出しようがない。そのうえ、足軽を呼び出したので、マークを無防備な状態で残してしまっている。

 誰にも言わないし、用心して独り言でさえ言わないように気を付けているのだが、彼の命はマークの命の炎に間借りしていた。体に関しては、マークのほうきに間借りしていた。いまや人間ではなく彼の本体はほうきだった。マークが死ねば彼も死んでしまうし、マークから一定以上の距離をとったら、実体を保てずに消えてしまう。だから本当なら、ヴィラが国外へ逃亡するだけで、マクベスは追うことができずに負けが決定になるのだ。

 それはつまり、兵隊を大量の魔力を使って呼び寄せるのではなく、自分の方が兵隊の中へ行こうという気をヴィラが起こしたら、その瞬間に彼は負けるという事だった。

(あの女が何か思いつく前に攻撃しなければならんのに…。弟子さえいたらここを任せて先に行けるのだが…。)

 そう考えた瞬間に、首だけの弟子が一人残っていることを、彼は思い出した。



 ヴィラは夏宮殿の小さなあずまやにいて、子供たちを何人か周りで遊ばせながら、共鳴音叉でシンシティの司令部を呼び出していた。

「副司令官のシュペーマンです。ヴィラさま。」

「状況はどうなっている。ウーズはどうしたの?」

「今ご報告申し上げようと思っていたところでした。ヴィラさま。ウーズ司令官は殺されました。」

「何ですって?」

「部下を殺そうとして、逆に殺されたのです。不届き者はすぐにとらえたのですが、数が多くて、時間がかかりました。すでに銃殺にしたものも…」

「それはいい。30分以内に全兵を送り返せと命じてあるのよ。それはどうなっているの?」

「瞬間移動ができる者がおらず…。」

 すぐに瞬間移動のできるものを送り込んで仕事を続けさせたいところだが、直近の護衛は全員追手を食い止めるのにおいてきてしまって、誰も戻っていない。今は自分しかいない。ごく少数の身近な者にだけ、呪文を出し惜しみしてきたことがここに来て裏目に出た。

 ヴィラは彫刻のしてある白い柱と、平和な木漏れ日を浴びながらきれいに刈り込まれた緑の芝生の上で遊ぶ子供たちを眺めた。逆に自分が兵士たちのいる野営地へ行くという手もあるのだが、むさくるしい仮設テントで我慢する気がしなかった。いつも周りが美しくなければ、彼女は我慢できなかった。

 ヴィラはなぜかジーガンのことを思い出した。頼りになるのは彼だけだったという気がする。

(今彼が隣にいれば、無理にでも私を兵隊のいる野営地に連れて行ってくれただろうし、そうでなければ、必要な時間を稼いでくれただろう。)

 でもジーガンはいない。ヴィラは孤独だった。そう思うと、初めて彼の死に心が痛み、ヴィラはぽろぽろと涙をこぼした。

「…ただ今怪鳥たちを総動員してそちらへ向かっているところでございます。」

「誰がそのようなことを命じた?」

 ヴィラはさらに厳しい言葉をつぐのをやめて息をのんだ。物探しの光線が腕に当たった。すぐに消えたが、間違いなくもうすぐ追手がこちらに来るのだ。

「もうよい。全力で来なさい。1時間以内に着けなければ、逃亡したとみなします。一分経つごとに一人を殺す。」

 ヴィラは立ち上がると、子供たちを呼び集めた。

 子供たちは大人の態度を見て、ヴィラが恐れ多い偉い人物だという事を知っていたので、こわごわと集まってきた。中には逆に後ずさりしている者もいる。

 子供が安心できるように、ヴィラは細くて高い声で歌を歌った。

「春の小川は さらさら行くよ♪…」

 子供たちは少し安心して、ヴィラの近くに寄ってきた。ヴィラは立ち上がると、あずまやを出て平地の広がる芝生に出た。

「…すがたやさしく いろうつくしく…」

 子供の中には思い切ってヴィラの手を取るものも出た。ヴィラがその手をしっかり握り返してやると、子供たちは自然とみんな手をつなぎ、ヴィラの手につながって、一本の長いロープのようについてきた。子供達は背が高く、きれいな格好をしたヴィラを純真に信じていた。

 ヴィラは微笑みながら空いた手で、黒い魔力で大きな盃を出した。

 魔力の質にこだわってきただけあって、美しい、黒曜石の結晶でできたようなきらめく大盃が現れた。

「さあ子供たち、お菓子が出ますよ。」

ヴィラは言った。子供たちは不思議さに魅せられて、思い思いに盃の中をのぞきこんだ。盃はとても大きくて、5人の子供がふちにつかまって中をのぞきこめるくらいの大きさがあった。

「中をのぞいてごらん。もっともっともっと…。」

 子供たち全員の頭が盃の上にかかったと思うと、ヴィラは言った。

「目をつぶってごらん。」

 全員が目をつぶったと思ったヴィラは、発破術で一人一人の首を落とした。

 首がゴロンと盃の中に落ち、血が盃の中を満たしていく。

 ヴィラは血がこぼれないように子供の襟首をつかんで内側に入れ、さらに二人の首を落とした。

 最後の一人は、何かが落ちる音と流れる音を聞き、お菓子が出たかと思い、薄目を開けた。しかし真っ赤で生臭い汚い液体がたまっていくのが見えるだけだ。ジュースにしても少しもおいしそうではない。

 変だと思って盗み見ると、ヴィラが子供の首を落として冷静に血がたまっていくのを見ているところだった。

「わああーーー!」

 男の子は声を限りに叫ぶと後ろを向いて森の方に逃げ出した、が、すぐにヴィラの浮遊術につかまってしまって、空中へと巻き上げられた。

「助けてーー! たーすーけーてー!」

 男の子は母屋の方へ向かって叫んだ。引き取ってくれた親切なおじさんとおばさんがそこにいるのだ。声が聞こえたら助けに来てくれるはずだったが、誰も出てこない。

「たーすーけーてー!おーじーさーんー!」

 男の子はあきらめずに叫び続けた。おじさん夫婦には聞こえていたのだが、出ていくには助けるすべがない。かといって、逃げ出すには子供を殺された怒りが強すぎる。それで、彼らは目を光らせながら、生き残った子供が何とか偶然逃げ出さないものかと、物陰からまばたきもせずに子供を見つめていた。

(「血の池地獄」を作るには、この血の量では少し足りない。でもこの子を生かしておけば、人質として使えるし…。誰か出てこないものかしら。誰か助けに出てきたら、そいつの血を使うんだけど。)

 ヴィラは子供の叫びがよく母屋へ届くように、男の子の口を母屋の方へ向けたが、誰も出てこなかった。

(仕方ないわ。人質は諦めましょう。)

 ヴィラは子供の首を盃の上にかざして発破術の陣を切ろうとした。

 そのヴィラに向けて、隕石のように銀ぎつねが降ってきて、ヴィラに激突した。

「死んでも離すな!」

さっきも聞いた声がさっきも聞いた指示を飛ばしているのが聞こえる。銀ぎつねは疲労と地面に激突したショックで、半分石化して離れた場所に倒れていた。浮遊術の陣は解けてしまっていた。はっとしてヴィラは盃を見たが、大盃は倒れて、大切な血が地面にこぼれている。子供は盃にぶつかって落ちて、血まみれになって泣いている。

「血の池地獄!」

 ヴィラは急いで陣を切り、残った血だけで呪われた血の陣を発動させた。

 沸騰した黒い血が、毒ガスのように吹き出して、あたりを包んだ。

 マクベスは訳の分からない赤い霧が吹き出した途端、浮遊術の陣を二つ切って子供と銀ぎつねを空中に引き上げた。

 赤い霧に関しては、こんな術は見たことがない。銀ぎつねにも知恵を絞らせたいが、赤い霧にやられたのか、元からなのか、ほぼ死人状態で、弾丸の弾代わりに使うくらいしか使い道がない。ヴィラに逃げられることに関しては、両手とも陣を切っているために魔法が使えない。

 マクベスは口笛を吹いて、火の精を呼び出し、急降下させた。彼は目よりも構造で見るので、赤い霧に包まれていてもヴィラがどこにいるのか正確に分かった。しかし、瞬間移動で逃げられては困るので、わざと少し離れた場所に火の精を食いつかせた。が、赤い霧に入った途端に火の精はかききえた。

(あの赤い霧は魔法を無効化するのか?)

 赤い霧はどんどん広がって行き、人の住むらしい家にまで広がって行ったが、赤い霧が近づくと、急いで開けられていた窓がパタンパタンと閉められた。人がいるらしい。

―フルト!

 彼はもう一人の弟子に向かってテレパスを送った。

―マスター。恐竜は着かなかったでしょうか?マークは無事です。ですが、この真っ白なのを何とかしていただきたいのですが…。目立って追い立てられてます。

 街中にまだ黒魔が残っていて、しかもどんどん増えています。

―恐竜は着いた。今昼寝してる。今すぐに来い。マークとティアラを持って来い。ヴィラを追い詰めたが、ティアラの力がいる。

―あの…。少し時間がかかります。今少なくとも3人の黒魔から隠れておりまして、飛び出したら間違いなくもっと大勢に追いかけられます。しかもマークが真っ白で目立ってしょうがないんです。

―うるさい。何とかして来い!破門にするぞ!

 フルトはむしろ破門にしてもらえたら嬉しいと思った。何百年かのくびきから解き放たれる時が来たようだ。

―お前の魔力瓶を壊すからな。

 フルトは何百年か生きてはいたが、まだ死ぬ覚悟はできていなかった。

―マスター。何とかしてみます。ただ、少し時間がかかるかも知れなくて…。

―マークが無事でなかったら意味がないぞ。無事につれて来い。遅れたら承知せん。

―はあ。何とか…。

 マクベスは通信を切ると近くの夏宮殿の屋根に下りた。浮遊術を2つも使っていたら陣が切れない。赤い霧は舐めるように地面を這い上り、夏宮殿を押し包んでいる。屋根に届くまで、しばらく時間があるだろう。

マクベスはその時間を使って何とか考えをまとめようとしてあぐらをかき、赤い霧を見つめた。あの赤い霧は正体不明である。火の精が消えてしまったから、白魔の魔力を消してしまうことは想像がつくが、他にもあるかもしれない。この霧はひどくたちが悪い。近くにいるだけで、立ち上ってくる瘴気で息が苦しかった。彼は撤退を考えていた。

(知る術がない。こっちの捨て駒はすべて使い切った。命を張ることはないし、もしマークが着かなければここは退却したほうがいいな…。)

 戦争が長引いて人々が苦しむのは、まあマクベスの知ったことではない。退却して体勢を立て直し、軍を整えて弟子も集め、長期戦で構えればよい。ウォンシティに兵隊が集まったタイミングを狙ってウォンシティを封じれば、ヴィラの兵力は大きく削がれる。そのうえ、王家に食い込んだメリットもすべて失う。王家と国家そのものが消えてなくなるのだから。

しかし退却には問題はいくつかあった。1つ:ヴィラを殺してよいという許可を得るために、氷山宮殿のラッコがヴィラの悪事を証言した。ここでヴィラを逃したら、報復としてひどい殺し方をされるだろう。2つ:マークに両親を助けると約束したが、ヴィラが生きていると救出に手間取るだろう。しばらくの間ヴィラと角突き合いをしなければならなくなって余裕がない。それに、目的を果たしたマークが、マクベスと離れると言い出されても実体を保てなくなって非常に困る。3つ:これが一番問題であるが、銀ぎつねが承知しそうもない。彼女とは「一か月以内に事態を収拾する。敵方の主要な魔法使いをすべて殺すか拘束する。」と契約を交わしてある。これは戦略的撤退である。ヴィラは権力の中枢にいてこそこれだけ大きな事が出来たのであって、一人きりだとただの黒魔山賊集団の頭だ。力を削いでいくのは難しい事ではない。しかし彼女は理解しそうもない。そうすると銀ぎつねを弟子にする機会を失うことになる。彼女は離れてしまうだろう。弟子にしたら歌舞音曲を習わせる心づもりまでしているのだ。失うわけにいかなかった。

 彼ら全員を納得させる言い訳を考えださねばなるまい。

 その横で屋根に近い窓がこっそりと開けられ、斧を持った女性と男性が出てきた。男性が屋根に這い上り、女性が上がるのを手伝った。そして気が付いた男の子にしーっという合図を送った。マクベスは気が付いていたが男の子を勝手につれて行ってもらって構わなかったので、少年が逃げるのに任せてほうっておいた。足手まといが減って助かる。

「待て。家の中に入らないほうがいいぞ。」

 マクベスは横目で見て言った。

「あの赤い霧に囲まれる。家の中だと逃げ場がないぞ。何かじゅうたんのようなものはないか?タペストリーとか。大勢を浮かべて運べるんだがな。」

 しかし魔法使いに気付かれたことを知った管理人たちは子供を連れて大急ぎで窓から家に入ってしまった。

(殺されるだろう。)

 マクベスはそれきり忘れることにしたが、銀ぎつねはくわっと眼を開き、這って窓に取りつき、閉じないようにした。

―出てきてください!中にいると危ない!

 しゃべる気力のない彼女はテレパスを送ったが、かえって管理人一家が走って逃げるという結果を生んだ。

―マスター!この家にはヴィラの魔力が通してあります。中の人は閉じ込められてしまう!

 ろくに動けない彼女はマクベスに助けを求めたが、マクベスに無視された。

 管理人一家も逃げた方がよいと思っていた。彼らは二つの階段をぱたぱたと下りて、手持ちのお金をすべて身につけると、裏口のドアを開けた。

 すでにそこは赤い霧で充満していた。屋敷全体が囲まれていた。管理人は「魔法使いの発生させたものの中には絶対入らない」と固く決意している程度に魔法使いのことを知っていた。ので、すぐにドアを閉め、別の階段をとって、ヴィラではない魔法使い達のいる屋根から離れた屋根に上ろうとした。しかし赤い霧は人間の気配を感じ取って勢いづき、ドアのすきまから入ってきた。一番後ろを走っていたのは、斧を持った管理人の妻だった。彼女は太い腕で斧を振り回し、赤い霧を攻撃した。霧であったので、切り裂かれることはなく、ただ逃げ遅れるという結果を生んだだけだった。

「助けて!助けて!体が抜けない!」

 彼女は声を限りに叫んだ。夫は振り返り、抜けないと教えられると、赤い霧に触らないように急いで子供を引き寄せて妻を置いて足の限りに逃げた。最後にちらりと目を合わせたが、それだけしか余裕がない。悲しむのも今は無理だった。きっと後で好きなだけ泣けるだろう。

「助けて!引っ張って!あなた!あなた!」

 妻は体を赤い霧にのみこまれながら肺が破れるほど夫を呼んだ。声は空っぽの廊下に響き渡った。すると、シュッという風切り音が隣でした。彼女はこれが位の高い魔法使いが現れる時の音だと知っていた。

 ヴィラかと思い、自分は死ぬのだと彼女は思った。せめて斧で一撃を食らわせるか、それとも観念したほうが楽に死ねるのかという悩みに責め苛まれながら、怖いものを見ずにはいられない人間の本能で、管理人の妻は音のした方をじりじりと見た。

 うつぶせに倒れている魔法使いだった。屋根の上にいた死に体の魔女だ。

 彼女はほっとしてため息をついた。死んでいる魔法使いはさしあたって怖くはない。

何で現れたか不明だが、ヴィラの食べ残しを漁るつもりかもしれない。とにかく管理人の妻は体を抜こうと頑張った。いっそのこと持っている斧で捕まっている手足を切り落とすことも考えたが、もう赤い霧は胴体まで侵食していて、考えるのが遅すぎた。死ぬのは時間の問題だった。

 その時、死に体の魔女から銀のとろりとしたものが伸びあがった。それが管理人の妻の手足を包むと、湯気が立ち上り、赤い霧は消えて、自由になれた。

―私を背負って連れて行って。動けないの。

 テレパスが頭の中で響いた。

 なんだかわからなかったが、この魔女が赤い霧に対抗する手段を持っていて、自分の味方だという事を、管理人の妻は一瞬で理解した。そして斧を投げ出すと、大きな体に老女の軽い体を担ぎあげ、全力で階段を駆け上がった。

 2階のてっぺんで、彼女は夫と一人だけ生き残った子供に再会した。彼らは窓が開かず、立ち往生していた。

「お前…!」

 夫は驚きと喜びと、本当に妻なのか、魔法使いが化けてるんじゃないのか?その背負っている魔法使いは怪しいぞ、という疑いのこもった声を出した。

「どいて!この魔女が開けてくれる!」

 妻は決然と動かない魔女を窓に突きつけると、再びとろりとした銀色の白魔力が、ヴィラの黒魔力を中和した。水晶でできた窓の掛け金が動いて、3人は口も利かずに全力で屋根に駆け上がった。妻はもちろん、便利な魔女の死体(に見える)を忘れずに屋根に上げて、夫に引き上げてもらった。

 マクベスは銀ぎつねが人間を助けに行ったことにいら立っていたが、追いかける前に、屋根に姿が現れたので、ほっとした。しかしその安堵はすぐに怒りに変わった。彼はすぐに撤退を決意した。ここにいるのは危なすぎる。赤い霧は伸びあがって、人間達と銀ぎつねのいる場所を包み込もうとしていた。

 瞬間移動―近すぎて無意味だ。炎で風を起こすー炎の精は失ってしまった。召喚術を不完全に使って衝撃波を起こすー複雑な陣を描いている暇がない。魔力のロスも大きい。そんな大技をまた使ったら、もう魔力がほとんど残らない。とっておき「金の龍」「銀の龍」―近くに人間がいる。銀ぎつねはもちろん無事だろうが、人間を殺してしまったら、魔力瓶が汚染されてマクベスが無事では済まない。霧というのが厄介なのだ。普通の呪文では一時的に散るだけだ。

(ならば本丸を攻撃だ。)

 マクベスは赤い霧を見つめているうちに、構造の変化から、ヴィラの位置を特定していた。そこで呪文を自己最高新記録のう速さで唱えて10本の細い金の龍を出現させると、ヴィラの近辺に細い矢のように順番に放った。

 赤い霧の凶悪な能力をもってしても、細長く、硬いうろこで固められた金の龍は途中でかき消されることなく、ヴィラの美しく結った髪を焦がす程度の威力を残していた。

 ヴィラはすぐに自分を覆う赤い霧を分厚くした。それから再び人間を襲いにかかった。その間に、マクベスは屋根を走って銀ぎつねの下にたどり着いていた。管理人一家は、二人がかりで大砲のように銀ぎつねを持ち上げ、今にも赤い霧に銀ぎつねがふれそうなほど赤い霧に近づけていた。明るくて見えづらかったが、銀ぎつねの光がかなり弱まり、魔力が残り少ないのをマクベスは見て取った。

「どけ!それはわしの部下だ。」

 マクベスが魔法使いの衣装を着ていたので、管理人は渋る妻を促して、武器・銀ぎつねを引き渡させた。マクベスは銀ぎつねを両足の間に置くと、魔法の糸を出して、すぐに自分の周りに円を描いた。あと何秒あるか分からない。

「瞬間移動する気だ!自分たちだけで逃げる気だ!」

 管理人はその動作の意味にすぐに気がついて、家族全員が武器・銀ぎつねにしがみついてひっぱった。マクベスは足に力を込めて、銀ぎつねを守り、陣を描いた。

「人間がこの輪の中に入ると死ぬぞ。すぐにそこから出ろ。」

 管理人と妻は引っ込んだが、子供は聞き訳はよくなかった。彼はマクベスにしがみついて、哀願する眼でマクベスの顔を見つめた。子供の目から涙があふれた。

 マクベスはため息をついた。知ってやっているのではないだろうが、子供がしがみついている限り、マクベスは瞬間移動ができない。子供を殺すことになるからだ。こんなに足場の悪いところで、子供を突き放すこともできない。やはり殺すことになりかねないからだ。浮遊術で遠くに飛ばすという手もあるが、一人に対して使うのなら、全員に対して使うのも同じだった。

 マクベスは周りを見回し、魔力を通せそうで、大きなもの―理想的にはペルシャじゅうたんーが何もないことを再確認した。一番大きいものは、管理人の妻だ。

「ならば全員その女につかまれ!」

 マクベスは管理人の妻に浮遊術をかけると、銀ぎつねをつかんで大きな肩に飛び乗った。そして、他の二人の人間がつかまっているか確認しないで、この新しい乗り物を森の奥へと発進させた。背中に赤い霧が迫ったが、銀ぎつねが銀のオオカミを出して攻撃すると銀ぎつねのオオカミとともに空中で消滅した。

マクベスは舌打ちをした。こんな無駄遣いをしていたら、今すぐ戻っても命はないかもしれない。そこで、銀ぎつねには最初復活した時に魔力の借りがあったことを思い出した。まだ返していない。ならば魔力を貸してやってもいいだろう。

マクベスは赤い霧から十分距離を取ると、土の上に降りて、銀ぎつねに魔力を注ぎ込んだ。銀ぎつねの光は少し強まったが、思った以上の速さで薄らいで行く。体力の消耗が激しすぎて、魔力がすぐに使われてしまうようだ。

気が付くと子供はまだマクベスのローブに取りついていた。

「どけ。術の邪魔だ。」

「こっちへ来なさい。」

管理人一家は、マクベスたちから離れまいと決意していた。森の奥にでも逃げてくれればいいものを、子供を呼び寄せただけで、まだそこにいる。子供も許可が出ればいつでもマクベスに取りつけるように身構えていた。一度うまく行ったので、またしがみつくつもりである。

 マクベスは銀ぎつねの折り紙を取り出した。最後の一枚だ。これを使うと、残りは王の部屋に残した一枚を取りに帰るしかなくなる。ウォンシティの封鎖に、この黒魔を探知する折り紙は欠かせない。しかしマクベスには、ずっと隣にいて逆らわない銀ぎつねの方が大事だった。願わくば美人で芸事に才能があるとよいが、この点は本人の努力次第で何とかなるところもあるので、大丈夫だろう。

「銀ぎつね。これを解放しろ。」

 銀ぎつねはテレパスでぐずぐず言った。

「うるさい。テレパスを使うな。すぐに解放しろ。契約を切るぞ。」

―マスター!恐竜を今すぐ起こしてください。マークと近くまで来ているんですが、黒魔に追われて追い込まれています。恐竜を起こして下さったら、それをおとりにします!

 突然フルトからテレパスが入った。マクベスはフルトが弟子の中で一番弱虫で使えなかったことを思い出した。だからこそ生き残っていたともいえるが。

―銀ぎつね。わしはマークを助けに行く。お前は“眼”を解放してすぐにシンシティに戻れ。今頃攻め込まれているかもしれんぞ。

 マクベスは一歩下がると、円を描き、管理人一家をにらみつけた。

「こどもをしっかり捕まえていろ。今度飛びついたら、命はないぞ。」

 管理人夫婦はその目つきを見誤らず、しっかりと子供をつかまえて飛びつかないようにした。マクベスは消えた。

 残るのはおばあさんの魔女だけだ。管理人一家は魔女の方を向いて、次の出方を待ち受けた。銀ぎつねは折り紙を招きよせ、口の中で解放の呪文を唱えた。銀ぎつねは一か月若返った。

(マクベスの言うとおりだった。)銀ぎつねは起き上りながら実感した。(頭が働く。これなら逃げきれるかもしれない。)

「この先に道はあるんですか?森の奥まで続いてる?ではダッシュして。全力で逃げましょう。」


 その頃ヴィラは赤い霧の中で赤い霧から見えるすべての光景を見ていた。彼女も撤退しようかどうしようか迷っていた。

 問題は赤い霧の発生時間が限られていることだ。子供に大盃をひっくり返されたせいで、あと十分くらいしかない。管理人一家の血を狙って時間を引き延ばそうとしたが、白い魔女に阻止された。あのマクベスの弟子は攻撃しても効かないし、一度つかまえたのに逃げ出したし、避けたい相手だった。

(城にはまだ不十分だけれど兵隊が集まっている。だけどここで仕留めなければ長引く…。ここまでめちゃくちゃにしてくれた者たちをただで返せるものか!)

 怒りのままに術を使い続けたが、マクベスがどこかに消えて、不安に駆られた。

(悪だくみをしているのかもしれない。やはりここは帰るべきだろう。下等兵ばかりだが、ここは…)

 その時に銀ぎつねが若返りの術を使った。ヴィラは銀ぎつねが金属片を持って呪文を唱えると同時に、確かに少し若返ったのを赤い霧の中から見た。

(あれは!報告にあったシンシティの見張りの術!若さを封じ込めてあるのか!)

 ヴィラは何もかも忘れた。マクベスとの争いも、自分の蝕んだ国が危ういという事も。若返りの術を知っている魔法使いがすぐ手の届くところにいる!

 彼女は守りに使っている赤い霧を最小限にして、全力で銀ぎつねを追った。赤い霧だけではスピードが足りないので、長いローブとハイヒールを脱ぎ捨て、ひらひらしたドレス姿になると、敵を殺すために緑美しい森の中をはだしで駆けて行った。


 そのころマークは生首フルトと城下町でみつけたほうきを両脇に抱えて、森の茂みの中に潜んでいた。フルトは体をなくしていた。あの銀の体を出していると、気配がするのだと言うので、マークは「じゃあ僕が運ぶから生首に戻って!」と言ったのだ。

 言ったのだったが、マークはこの生首を重荷に感じ始めていた。拷問の記憶がまだぬけていないフルトは、がちがち歯を鳴らして、見つかりそうだった。蜘蛛が頭を横切っただけで悲鳴を上げる。マークはとっくの昔に蜘蛛の巣だらけで目の前が見えないくらいだった。

茂みの中には蜘蛛の巣がたくさんあるんだという事をマークはつくづく思い知っていた。彼はフルトの口に自分の手首をかませて、声が出せないようにした。フルトは軽くマークの手首を噛みしめた。そうするとフルトのあごの震えが、マークにも伝わってくる。

 もう片側には頼りになるほうきがしっかりと握られている。掃除用具入れで見つけたほうきだが、フルトとマークをここまで運んできてくれた。マークはどちらかと言うとフルトよりほうきに感謝したい気持ちがした。自分のほうきではないが、やはり両親が見守って手助けしてくれているのではないかという、そんな気がした。フルトがいないともちろん空は飛ばないのだが。

 フルトは震えているだけではなく、ちゃんとマクベスに救援のテレパスを送っていた。近くでティラノサウルスが寝ているから、あれを起こしてもらえれば囲みを抜けられるだろうと考えていた。ただ、その時まで無事でいられるか、不安で不安でたまらないだけだった。マークが手首をそっと口の中に入れた時に、フルトはその意味を理解して、早速噛んだ。噛むと震え少し落ち着いて、頭が働き始めた。

(恐竜が間に合わなかったら? この子を守らなきゃならないぞ。いざとなったら、僕をおとりにしてでも…。)

 捕まった時に受ける拷問のことを考えると、フルトは震えあがった。

(二人とも助かるんだ。どんな術なら逃げられる?どんな術なら…。そうだ。『森を焼こう。』)

 血迷ったフルトは考えた。

(人間が巻き込まれて僕が黒魔になったとしても、二人とも助かるじゃないか。そうだ。いざとなったらそうしよう。)

 フルトがひどい形相で考えているのをマークは気楽な表情(不安げではあるが)、およそ捕まったらどうなるか想像もしていないあどけない表情でながめている。フルトは無理に微笑を浮かべると、テレパスでマークを励ました。

―大丈夫だ。さっきマスターに恐竜を動かしてくれと頼んだから、恐竜をおとりにして逃げられるよ。必ず逃げ切れる。大丈夫だ。心配しなくてもいいぞ。僕がついてる。

 マークはそれほど心配していなかった。

(じゃあ銀ぎつねさんが来てくれるかもしれない!)マークの心はぱっと明るくなった。(マクベスは大きな敵を倒すのに忙しいよ。きっと銀ぎつねさんが来てくれるだろう。それなら一緒に逃げられる。)

 マークは嬉しかった。マクベスは頼りになるかもしれないが、会うたびに恐竜を発生させたり、心に負担が大きすぎる。銀ぎつねさんは頼りにならないかもしれないが、いつも真剣にマークを守ろうとしてくれる。逃げ切れるだろうと理由はないがなぜかマークは信じた。

 そのときしゅっという音がして、マクベスが現れた。

 マークは喜びを表現するのに少し手間取った。

 

 走って逃げる作戦が使えないことが銀ぎつねにはすぐにわかった。小さな子供がいるし、おかみさんは太っていて、早くは走れない。銀ぎつねは何度も振り返ったが、赤い霧はスピードが速まっているような気がした。最初からそう感じていたが、やはり人間が狙いのようだ。魔力の消費量が多い魔法に違いない。だから、逃げ続けていれば相手の魔力はいずれ切れるのだ。しかしそれだけの時間が稼げない。

(マスターの言うとおりだった。助けられない。やっぱり今からでも私だけ逃げようか。)

銀ぎつねは考えた。しかし大人はともかく、子供は見捨てられない。子供が見捨てられないなら、やはりその両親も生かしておかなければならない。結局全員見捨てられないことになる。子供だけなら、連れて逃げるのはできそうなのに。

「この子供は、あなた方の子供でしょうか?」

 銀ぎつねは一応確認してみた。そうでなかったら、大人は見捨てて、子供だけをかかえて飛んで逃げるつもりである。

「そうだよ。」銀ぎつねはがっかりした。

「あんた、さっきみたいに私を浮かべておくれ。」

 管理人の妻はきつい声音で言った。すでに息が上がっている。子供だけではなく、太っている妻も、もう走れなくなりそうだった。

「浮遊術はできないのです。魔力が途中で切れるわ。」

 さっき魔力の中和などという非効率なやり方をしたせいで、銀ぎつねの魔力は大きく減っていた。時間稼ぎのためだけに、無駄に使えなかった。

「じゃあ、さっきの銀色のとろっとしたのをだして、あれに投げつけておくれ。けん制するんだ。」

「それをできるだけの魔力が残っていません。」

「じゃあ、瞬間移動を!」

「魔法使い以外が使えば体がバラバラになって死にます。」

「何だったらできるんだい!」

 管理人の妻は怒りだした。黙っている残りの人間たちも怒っていた。このように銀ぎつねに怒りだすのは彼らだけではない。銀ぎつねは人間に怒られるのに慣れていた。銀ぎつねが防壁を張って魔法使いから守っているシンシティでさえ、魔法使いなのに餓えても助けてくれない、隣国が攻め込まれても反撃してくれないというので、銀ぎつねはひどく冷たい仕打ちを受けていた。銀ぎつねが歩けばレンガや石が飛んでくる。それよりなにより銀ぎつねが辛いのは、陰口と蔑むような視線だった。

 それに比べたら、彼らの態度は、まだ優しいと言わざるを得ない。

(何か方法。考えて考えて!)

 銀ぎつねの視線は自然と地面に向いた。魔力を消費しないとなると、地面の下に隠れるのが一番簡単で魔力も使わなくて済む。ウォンシティの地盤にはすべて魔力を通してある。しかし、何かが銀ぎつねに「その手を使うな」と強く警告していた。

(やはり浮遊術を使おう。斜めに飛んで上空に逃げれば、振り切れるかもしれない。もちろん、ヴィラも空を飛ぶ可能性も考慮に入れなければならない。魔力を通しやすい乗りもの…。木を使おう。)

 銀ぎつねは生きている木に魔力を通すのに慣れていた。木の水分に波のように魔力を送り込むのがコツである。消費魔力も少ないし、全員が乗れば逃げ切れる。形を変えれば霧を防ぐ盾にもなる。ほうきの太いのだと思えばよい。幸い森の中だから、木は選べる。

(細い木を選ぼう。地盤を動かせば抜けるだろう。)

 時間がかかるのを見越して、銀ぎつねは浮遊術で飛び上がり、管理人一家に一声かけてから先に行こうとした。

 ところが、ヴィラは銀ぎつねを逃すまいとしていたので、飛び上がったのを見て、ひとりで逃げるに違いないと思った。そして、津波のように赤い霧を一行に覆いかぶせた。

 選択肢が他にない。銀ぎつねは地面に大穴を開けて、管理人一家と自分を地面に閉じ込めた。



 マクベスとフルト、マークの三人は、街の城壁の外で、息を潜めていた。真っ白で目立つマークの色は、見るなりマクベスが解除し、追手も彼がなぎ払った。フルトはおびえるあまり、森を焼こう焼こうとするので、マクベスに鉄拳制裁をくらい、今は生首に戻ってマークに抱えられていた。マクベスは上空をしきりと気にして、しかしそれ以上何もしなかった。「声を立てるな動くな見つかるな。」これが彼の指令だったので、マークも生首フルトもそれに従っていた。

 マークは特に緊張はしていなかったが、朝からろくに食べていないので、力が入らなかった。生首を抱えて逃げ隠れしているのも、空腹を悪化させている気がした。そこで、靴下の中に隠していたビーフジャーキーを取り出して、4つに割り、全員に回した。そして、残りのかけらを銀ぎつね用にまた靴下の中に戻した。

(銀ぎつねさんはどこにいるんだろう。まだ僕の両親は見つけてもらえないのか?)

 彼はずっとその事を聞きたかったが、声を出せないでいた。

 不意にマクベスが片手を上げて、下に沈めた。「伏せ」の合図のようだ。フルトの首を抱えて地面に寝そべると、上空をばさばさと黒魔が飛んで行くのが聞こえた。見えなくても、2回も襲われているマークには、あれが怪鳥の羽音だとはっきり聞き分けられた。

「フルト。この近くに黒魔の気配を感じるか?」

「はい。大勢います。」

「街の外のことだ。近隣の町から何か感じるか?」

「遠すぎて。…しかし、気配は薄いようです。城壁の中の方が多いです。」

 マクベスはあごに手を当てて考え込んだ。

(ヴィラは女だ。女は自分の身を一番に守りたがる。主力はもう全部集めたと思っていいだろう。そしてさっき瞬間移動できないやつが飛んできた。数は多めだ。そろそろ封じるか。それとももう少し待った方がいいのか?)

 このあたりは運任せだった。しばらく待ったら付近にまた散ってしまうかもしれないし、逆にもっと集まってくるかもしれない。しかし、このカードを使わないという手だけはなかった。そうでなければ銀ぎつねが命を危険にさらすほど魔力を消費した意味がなくなる。不意打ちで敵が足並みを乱している今日こそが絶好の使い時だ。

(正確な状況が知りたいが、魔力地図はシンシティだし、“眼”を持った銀ぎつねはどこかで寄り道してる。ここは運を天に任せて決めるか。)

 マクベスは空を見上げた。雲一つなくよく晴れている。これは天が自分を祝福している勝ち戦の前兆と、マクベスは受け取った。しかしもう一つ背中を押す決め手が欲しいところだ。マクベスは意地の悪い策を練った。彼はそれが得意だった。

 そして、壁に手を当てた。いよいよ術をかけようとして、彼は生きているか分からないが手駒がもう一人いることを思い出した。

―足軽。今どこにいる?

 カルビンは交戦中だった。正確に言えば、ヴィラの精鋭の護衛3人からなぶり殺しにあっている最中だった。しかし彼は、どんなに痛めつけられても、背中の後ろにかばう皇太子を、置いて逃げようとは思わなかった。そして、彼は知らなかったのだが、皇太子をかばっているので、護衛たちはうっかり皇太子を傷つけることを恐れて、カルビンにとどめをさせないでいた。皇太子を殺せば、ヴィラが怒る可能性があったからだ。

 さらに言うなら、ヴィラが追われている時は駆けつけたくないという事情もあった。運が良ければ駆けつけたころ、ヴィラは殺されているかもしれない。殺されていなくても、「皇太子を傷つける恐れがあったので」と言えば、遅れた言い訳は立つ。

 そんな理由から、カルビンはまだ生きていた。

―おお。まだ生きてるな。もうすぐ真っ暗になるから、その間に逃げろ。わしらは城壁の外にいる。正門は開けておく。おそらく出られないだろうが、できるだけ大勢の黒魔を殺せ。人間は殺すな。

 カルビンはテレパスを聞くことはできたが、自分から送ることはできなかった。しかし自分の命が助かるかもしれないことは理解できた。それで十分だった。


 10秒後、城壁がせり上がり、町全体が暗闇に覆われた。日食が起こったのようだったが、実際には都市国家をまるまる一つ、石の屋根が覆っていくのだった。そして、日食と違い、待っていても明るくなることはなかった。



 銀ぎつねは穴倉に管理人一家三人と一緒に閉じ込められた。入った瞬間からそれが間違いだということが分かった。外の様子が全く分からない。

「まっくらだ。」

「あんた、魔法使いなら火を起こせないの?」

 管理人一家はぼそぼそとつぶやいたが、銀ぎつねの耳には入らなかった。管理人がしゅっとマッチを擦って、穴倉を明るくした。そして、自分たちが、井戸のような深い竪穴の中にいて、壁は土ではなく石だという事を見て取った。

「すぐに消してください。空気がなくなる!」

「分かったよ。」管理人はマッチを落として踏みつけた。「ところでここからどうするんだい?」

「今考えています。」

「早く逃げた方がいい事だけは確かだ。ヴィラは残酷だからな。逃げ道はないのか?」

「あります。」

 銀ぎつねは石壁に手を当てると、横穴が現れた。

「必要なら、城壁の外まで続けさせることもできます。」

 管理人はうなずいた。お金はすべて持ってきた。服や食べ物は持ってこられなかったが、逃げることに異存はなかった。

「ただ…。」

「ただ?」

「正直に言います。私は戦闘の経験が少なくて、これが本当に良い手なのか分からないのです。何かさっきからずっと不安を感じていて、他に手があるならお聞きします。」

「逃げよう。」

 管理人はすぐに決断を下した。彼は先ほどからこの魔女の戦闘能力に疑問を抱いていたが、本人が言っているので確信に変わった。この魔女はまるで頼れない。

「城壁の外まで続けられるって?」

「何キロも続くトンネルを行くことになりますが…。」

 銀ぎつねは手を当てて、さらにトンネルを城壁の外まで伸ばした。しかし、念のため出口は塞いでおいた。

「外にもきっと黒魔がいます。安全とは言えませんが、」

「ここよりも安全だ。」

 管理人は子供を先に通そうとして、銀ぎつねに止められた。

「武器を持った人が一番先に行ってください!銀のナイフはありますか?」

 管理人は奥さんを先に通して、ベルトに挟んだ銀のナイフを太った妻に渡した。実際賢明な判断だった。管理人は男ではあったが、妻の半分くらいの幅しかなかった。

 三人ともここから一刻も早く発ち去りたいことは一致していた。妻、子供、夫の順に入ろうとして、夫は立ち止まった。

「あんたは来ないのか?」

 銀ぎつねは答えようとして突然恐怖の叫び声を上げた。管理人はそれ以上ぐずぐずせずにすぐに自分もトンネルにはい進んで気が付いた。

「ここは空気が薄いぞ。息が苦しい。」

 銀ぎつねはトンネルの空気だけで十分足りると思い込んでいたが、二人の人間が狭い空間を通った後では、二酸化炭素濃度が危険なほど上がっていた。

 しかし銀ぎつねからの返事はなかった。振り向いてみると、入ってきた入り口の穴もふさがっていた。理由は不明だが、とにかく窒息する前に進むしかないことは確かだった。


 銀ぎつねは自分が魔力で支配しているはずの竪穴の入り口が開けられ、赤い霧で埋め尽くされた外界の景色が見えることに気が付いた。穴からはヴィラの顔がのぞき、にたりと笑うと、黒くて薄い服を脱ぎ捨て、その顔はぬめぬめ光るうろこに覆われて行き、目は瞬きのない蛇の大きな目に変わっていった。

(魔力の中和!しまった。逆にも使えるんだった!)

 銀ぎつねが手探りで魔力を探ると、上の方はすでに黒魔力に侵食され、ただ足元の岩壁だけが銀ぎつねの魔力のまま残されていた。

 銀ぎつねは必死で人間の入っていったトンネルを閉じると、急場ごしらえだった狭いトンネルの大きさを広げて、走って逃げられる高さにして、出口の穴も開けっ放しにした。出口で黒魔に襲われるかもしれないが、そこまで守りきれない。とにかく自力でヴィラから遠くへ逃げてもらうしかない。

 次は自分だった。銀ぎつねは残っている自分の足場をさらに深くして、地の底へと沈んでいった。これで時間が稼げるが、ウォンシティの地盤は薄くて、せいぜい50メートルほどしかない。

 ヴィラが蛇の姿で驚くほど素早く動くことを、銀ぎつねは覚えていたので、残りの自分の領域で岩の天井をこしらえ、ヴィラをブロックしようとした。これが間違いだった。最初から自分用に横穴を作り、急いで逃げるべきだったのに、その機会を銀ぎつねは失った。ちょうどその時、マクベスが地盤に通した銀ぎつねの魔力を使って、ウォンシティを封じたのである。地下の地盤全体が構造を変えていくのを銀ぎつねは感じた。

こんな時にトンネルは開けられない。マクベスの術の邪魔をすることになるからだ。落ち着いた頃に開けるしかなかった。

(人間用のトンネルは大丈夫だろう。少しゆがむかもしれないけど、構造は安定しているはずだ。)

 銀ぎつねは祈るように天井を見上げた。

(保って。どうか保って。)

 足で瞬間移動用の円を描いたが、今の銀ぎつねの魔力では、一回分の瞬間移動も怪しいぐらいだった。これほど敵の魔力に囲まれていたら、その瞬間移動もうまく発動しないかもしれない。そうなったら、無駄に魔力を消耗することになり、死に体でヴィラにつかまることになってしまう。

少しでも光が差し込んだら、それでも一か八かで瞬間移動を試すつもりだった。それまでに少しでも時間を稼げれば、それだけ管理人一家は遠くまで逃げられるのだ。それまでにマクベスの術が終われば、横穴を開けて逃げられる。

すぐに破られるだろうと思っていたのに、驚いたことに天井はそのままだった。

 ヴィラは二度も獲物を逃すような愚か者ではなかった。十分に魔力を底まで浸透させ、銀ぎつねが完全にヴィラの魔力に囲まれるまで、天井を破らなかった。天井が破られると同時に、銀ぎつねは蛇にのみこまれていた。



 マクベスは街を封じ終えると、ドーム型の石屋根の上に飛んで行った。そこに出口を一つ開けておいたのだ。完全にふさぐと、中で人間が死んだときに、魔力が汚染されてしまうし、逃れてくる黒魔を仕留めるのに、ちょうど良い逃がし穴になっていた。

 穴はもう一つあり、それが城壁の正門だった。一人が通れるくらいの穴が開いており、ここにはフルトとマークが陣取っていた。

 フルトは城壁の正門の真ん前に、大きな落とし穴を開けて、そこに魔力で色を変えた毛布をかぶせて分からなくした。

「黒魔ならここに落ちるし、人間なら術をかけて助ける。これで取り逃しがあっても大丈夫だ。」

 フルトはマークに説明した。マクベスに厳しく命じられていたのだ。①出てくる黒魔は必ず仕留めろ。②出てくる人間は必ず助けろ。③マークを守れ。

 ③についてはもやもやしていた。マスターがそこまで大事にする人間とは、何者だろう?王族だろうか?しかしそこまで大事にするのなら連れてこなければよさそうなものだ。この子から回収する魔力がクリスタルみたいにきれいで強力なんだろうか…?

 とにかく、どんな攻撃があるか分かったものではなかったので、彼は、マークの服も城壁の色に変えて隠れさせた。

 その時、マクベスの大音量のテレパスが街全体に響いた。

―ウォンシティの諸君に次ぐ!この街は完全に包囲された。黒魔が全員消滅するまで、この包囲は解かれない。

 ただしこれから言うものを持ってきた者は通してやる。「黒魔の魔力瓶」か、「無傷の人間」だ。魔力瓶は空でも構わん。ヴィラの魔力瓶を持ってきた者は、無条件で通すぞ。奴の魔力瓶は左耳の下にある。

 さあ、早い者勝ちだ。包囲が長引くほど、手に入れられる魔力は少なくなるぞ。早く抜けるのが賢いやり方だ。

 繰り返す。ヴィラの魔力瓶は左耳の下だ。

 その後、声の方角を見つめていたウォンシティの全員の目に、全然飛ぶようにはできていないティラノサウルスが、吊り上げられて足掻きながらのたのたと屋根の穴に消えていくのが見えた。

 天井の穴を通れば、ティラノサウルスと戦わなければならないのは明らかだった。もう一方の正門にも、それなりの罠があるとみて間違いない。

 たしかに賢いのは、魔力瓶か人間を用意することだった。



 銀ぎつねはなすすべもなく蛇にのみこまれ、のどのあたりでじたばたしている時にマクベスの宣伝を聞いた。

―左耳の下! しかも私はおあつらえ向きにヴィラの体の中にいる!

 銀ぎつねはじたばたをやめて、左耳の下を突き刺す銀の武器を探した。

 ヴィラにも宣伝は聞こえていた。彼女は銀ぎつねを飲み込もうとはしていなかった。そんなことをすればまた腹の中を攻撃されて、以前の二の舞になる。そうではなくて、太いとぐろでじわじわ締め上げてやるつもりで、銀ぎつね用に長い胴体をくるくると巻いているところだった。銀ぎつねはあごの骨でがっちりはさみ、身動きをとれなくしていたが、マクベスの放送を聞いてすぐに吐き出した。魔力瓶のありかを知られたのに、口の中に入れておけるわけがなかった。

 しっぽで叩き潰してやりたかったが、長年生きて何度も脱皮を繰り返し、太く長い大蛇になったのはよいが、巻いた尻尾をまたほどくのは少し時間がかかる。

 ヴィラは顔を傷つけるのは嫌だったが、ハンマーのような頭で連続して銀ぎつねを攻撃した。銀ぎつねはすでに自分に浮遊術をかけていて、かろうじてよけた。しかし逃げるつもりはない。ここで仕留めるのだ。たとえ死ぬことになっても。

―左耳の下…。

 ただ武器を持っていない。

 銀ぎつねは浮遊術のまま、すべるように森の芝の上を移動した。ヴィラは追った。赤い霧はすでに消滅して、風にちりぢりに飛ばされていて使えなかった。もともと血の量も少なかったのだ。

 銀ぎつねは地面に手を突くと、すぐに驚くほどの速さで縦穴を開けて、そこに潜った。ヴィラは逃げられる前に穴の中に顔を突っ込んだ。

 と同時に、穴の口が閉じて、ヴィラの首は胴体から切り離された。いくら固いうろこを持つ大蛇だといっても、所詮は鋭くとがった石の刃に対抗できるほど固くはなかった。

 そうはいっても死んだわけではない。

(罠にはまった。しまった。急いでいたせいで…!)

 ヴィラは蛇の目で銀ぎつねをにらんだ。

 蛇の頭が膝の上に落ちてくる前に、銀ぎつねはマークの側へと行く瞬間移動の呪文を唱えていた。



 マークは、言われた通り、小さな穴のくぼみに隠れていたが、聞き慣れた瞬間移動の風切り音とともに、巨大な蛇の頭と、その下敷きになった銀ぎつねが現れた。

 マークは一瞬のうちに、「銀ぎつねが大蛇と戦って、首を取って逃げてきた」という事を理解し、駆け寄った。

 彼は、本能に従って、大蛇の牙ではなく、切れた首の方から近づいて、足で転がした。大蛇の頭は、逆さまに地面に転がったが、黄色い不気味な目が、大きなうろこの頭が、マークをにらみつけていた。マークはさらに本能に従って、銀ぎつねを引きずって、隠れ場所に連れて行こうとした。それから介抱するのだ。

 彼は、銀ぎつねの両肩に手を入れて、自分の体重で後ろに下がるようにしながら、銀ぎつねを引きずろうとして、ついその顔を見た。

 生きているようには見えなかった。ぴたりと止まって、命の抜けた抜け殻のようだった。

「銀ぎつねさん! 銀ぎつねさん!」

 彼は思わずその場で銀ぎつねの顔をたたいて呼びかけた。しかし、叩くほどに死んでいることがはっきり分かった。顔のうなだれ方が、命があるとは思われなかった。

 マークはミュゼを出てから、一度もあきらめたことはなかったが、この時初めて絶望した。銀ぎつねがいなくなったら、自分はこれからどうすればよいのか?波乱の末に手にしかかっていた希望だけに、失った衝撃が大きすぎた。

 マークはがっくり膝をついて、泣きだした。涙がぽろぽろとこぼれて、動けなかった。

 と、銀ぎつねの上半身が持ち上がって、斜めになったまま空中で停止した。そうするかしないかくらいのときに、パンパンパンと弾ける音がして、銀ぎつねの体ががくがくと揺れて、服からは煙が立ち上った。そっと注意深く外をのぞくと、マクベスとフルトが、黒い服を着た黒っぽい女の人と、戦っているところだった。二人が炎で攻撃し、女の人がそこらじゅうに破裂音をさせている。

 マークが急いで顔を引っ込めると、マークの顔があった場所が弾けて、再び銀ぎつねの袖口から煙が立ち上った。

「マーク!隠れてろ!殺されるぞ!」

 マクベスが叫んだ。

「マクベスが魔女と戦っている。」→「マークが巻き添えを食って危なくなった。」→「マクベスは銀ぎつねさんを浮遊術で持ち上げて、マークの盾にした」→「銀ぎつねさんは生き返ったわけではない。」

 マークは理解した。涙をぬぐうと、とにかく浮かんでいる銀ぎつねを隠れ場所まで引っ張った。死んだのは変わりがないにしても、せめて死体を傷つけたくなかった。

 銀ぎつねと自分を、隠れ場所に落ち着かせると、マークは物事をいい方に考えるために、銀ぎつねにとっておいたビーフジャーキーを、靴下の中から取り出して涙ながらに噛みしめた。少なくとも、このビーフジャーキーは自分が食べてもよくなったのだ。

「マスター!この顔は僕のオリジナルの顔で…!」

 同様に盾にされたフルトが抗議した。体を失ったのに、顔にまで弾の跡がついてしまったのだ。

「黙れ。もっと火を出せ。」

 マクベスは額にしわを寄せながら指示を飛ばした。

 銀ぎつねは命がけでやったことなのだろうが、彼は2回も召喚術を使った後で、ほとんど魔力が残っていなかった。金の龍も銀の龍もたくさんは出せない。最悪のタイミングで、敵の大将と渡り合わなければならなくなったのだ。チャンスでもあるが、逆に殺される可能性だってあった。

 できたら撤退したかったが、マークを残していくわけにもいかず、今はヴィラの方に逃げさせようと火攻めにして努力していたのだが、ヴィラは何が何でも銀ぎつねにしがみついているつもりだったので、撤退のそぶりもまるでなかった。銀ぎつねの方もヴィラを逃すまいとしてくらいついていたので、この二人は離れようがなかった。

 フルトはダメでもともとで、火の精を呼ぶ口笛を吹いてみたが、驚くことに5体の火の精が集まってきた。すぐ近くで話を聞いていたマークが、すぐにマッチを5本擦ったのだ。

「もっといる?」

 マークが叫んだ。

「十分だよ。」

 フルトは答えると、自分の魔力を食べさせ5匹の火の精を太らせ、マクベスに差し出した。

「マスター、お使いください。」

「足止めしてろ。」

 フルトはおっかなびっくり火の精を総動員してヴィラを取り囲んだ。呪文も陣も使う余裕を与えないためだったが、戦闘経験があまりないので、やっていることに自信がない。

 その間にマクベスは正門の所に駆け付けると、一番門の近くにいて戦いをのぞいていた年若い黒魔法使いを、浮遊術で引っ張り出して、魔力瓶に杖を突き刺し、その黒魔を殺した。

「誰かヴィラを倒すのに協力したい奴はいるか?一時的な契約関係を結んでくれたものには、この魔力を提供する。ヴィラを倒したものには、ヴィラの魔力を全部やる。」

 人手がいる。手下がいる。マクベスは切実にそう思った。手足になってくれる人材がいれば、ここで倒すのも可能だった。黒魔法使いを殺して魔力を補充するより、そちらの方が必要だった。

(足軽がここにいればよかったんだが…。ここいらにいる黒魔法使いは、ほぼ全員ヴィラを攻撃できない契約を結んでしまっているに違いない。)

 待っても名乗り出る者がなかったので、マクベスは持っていた魔力瓶を燃やし、どうしようか迷いながら正門から成り行きを見守っていた黒魔を3人ほど浮遊術で一本釣りにした。

「無傷の人間か、他の黒魔の魔力瓶を持っているのか?」

一応確認のうえ、彼は全員を殺して魔力を補充した。


 その時、マークは隠れ場所に潜んで、ときどきマクベスやフルトの方をのぞいていた。フルトは黒い魔女を炎で包んでいるし、マクベスは必死で何やら黒魔法使いを殺している。相変わらず残酷だった。

 マークはのぞくのをやめて銀ぎつねを見やった。もしかしたら生き返るかもしれないと思い、そっと頭を撫でてみた。耳元で呼びかけてみたが、銀ぎつねは生き返らなかった。

 マークは息をついて、ビーフジャーキーを強く噛んだ。

 しゅっと音がして、近くに魔法使いが来たと、マークは悟った。

 彼はその方角を見る前に、壁に黒い手で押しつけられていた。

「銀ぎつね…。今からこの子供を殺すよ…。」

 シューシューと音を立てながら、ヴィラは言った。マークは口を押さえつけられていて、「守れ」呪文を唱えることができなかった。フルトの方を見やると、まだ炎で黒い魔女を攻撃している。攻撃してるのは偽物か何かで、こちらが本物だろう。入れ替わったのだ。フルトもあまり役に立たないことが分かった。

(さっき『守れ』と唱えておけばよかった…。)

 マークは後悔した。銀ぎつねさんが戦っているのならともかく、マクベスとフルトだと、積極的に助けたい気持ちにならなかったのだ。その思いやりのなさが間違っていたことはよく分かった。

 ヴィラは銀ぎつねをよく見てみた。さっき子供を身を挺して救ったので、魔力の回復があったはずだが、生き返るほどではなかったようだ。一度死んでから生き返ると、死んだ間に腐敗していた体のせいで、全身が耐え切れないほど傷み、甲羅を経た魔法使いでも、どこか力むはずだったが、表情は変化が一切なかった。

 念のため子供を殺すことを伝えてみたが、気配がない。

 ヴィラは銀ぎつねは死んで動かないものと判断し、マークに向き直った。口の中だけを本性に戻し、長い毒蛇の牙を出すと、首筋の血管に注意深くつきさし、湧き上がる血を盃に受けた。死んでしまうと心臓が動くのをやめて血が出てこなくなるので、血管以外は傷つけなかった。

(これで血の池の陣を発動させ、他の魔法使いは骨抜きにし、逃げよう。この魔女さえ連れて行けば、ウォンシティなど捨てていい。瞬間移動を防ぐために、鉄の多い岩穴のようなところに行かなければならないだろうな。)

 ヴィラは横目で、マクベスがこちらに気が付いたことを知った。思ったよりも早かった。もしかしたらこの少年と何かつながりがあるのかもしれないが、白魔法使いの魔力の奥義は、ヴィラには分からないことも多かった。

(とにかく、すぐに血の池地獄を発動させよう。)

 ヴィラは血を受けながら長い呪文を唱え、陣を描いた。

 その時、銀ぎつねがとびあがり、壁に手を付け、陣を描き、「フェルム」呪文を唱える、この3つを1秒でやってのけた。

 ヴィラの頭は両手をぱちんと合わせるように、城壁でたいらにつぶされた。

 マークは無事だった。ヴィラは背が高い女性だったが、マークはまだ背が低かったので、ちょうど頭一つ分くらいの差があった。その差の部分だけを、城壁はつぶしていた。




 銀ぎつねは素早く行動した。

 マクベスが駆け付けた時には、片袖を破いてマークの血を止め、もう片袖を燃やしているところだった。この炎で、傷口を焼くつもりである。

「どけ。」

 マクベスは銀ぎつねを押しのけ、血の出具合を見たが、すぐに銀ぎつねに場所を返した。

「医者が必要だ。」

「医者は遠くに送りました。」

「フルト、医者を連れて来い!」

「ロングという名前でした。イメージできます。」

「『アプレほうき!』ロングなら知っている。」

 マクベスはほうきをフルトに投げ渡すと、光の道筋を見せた。

「今すぐ行け。必ず医者を連れて、10分以内に帰ってこい。間に合わなかったらこの子は死ぬ。」

「血は止めておきます。でももう出すぎているのではないかと心配です。…マスター、ここを押さえていただけますか?」

「蛇の毒にやられているんじゃないのか?」

「だったら私には助けようがありません。」

 サルの顔をした魔法使いと、その手下たちが現れた。サル顔は重々しく言った。

「私は解毒剤の作り方を知っている。」

 銀ぎつねは城壁に片手をついた。

 マクベスはぶつぶつ言いながらナイフを取り出した。

「まったく次から次へと…何者だ!」

「ベンソンと言う。ウォンシティの…」

「銀ぎつね。囲め。」

 言われるまでもなく、銀ぎつねは自分とマークを城壁で囲み、マクベスは好きなだけ戦えるようにその壁の外に出していた。

「違う!あいつらを囲むんだ。」

 すでに銀ぎつねは卵の殻に閉じこもるように城壁の内側に閉じこもっていた。そしてマクベスは卵の外にいた。魔力が少なかったにもかかわらず、自分一人で何とかしなければならなかった。

「闘いに来たのか?」

 うんざりしながらマクベスは聞いた。

「違う。ヴィラの魔力瓶を譲り受けに来た。」

「ヴィラの魔力瓶は壊した。」

「まだ壊れてはいない。肉体から離れただけだ。その証拠に、魔力瓶の気配を頼りにここに来た。取引がしたい。」

―銀ぎつね。ヴィラの魔力瓶はまだ壊れていない。回収しろ。壊すな。取引に使う。

 マクベスは指示を送った。


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