後書きと謝辞

 万年筆をモチーフに随筆を書こう、そういう考えは昔から持っていた。万年筆は既に骨董品であり、どこまでも酔狂の物品である。それ故にあらゆる文芸、映像、芸術全般において雰囲気を出す小道具に使われ、スーツの胸元に刺さる万年筆はステイタスを示す現代の懐刀だ。どう使われるにしろ、実用される筆記具としては時代遅れと言わざるを得ない。


 万年筆が出現するまでの”筆記”という行為を考えてみてほしい。鉛筆を使うことを除いて、インク壺や墨を筆と別に持ち歩かねばならないことが不便であることは想像に難くない。そもそも万年筆が開発されてからどう使われたかといえば、ボールペン的に使われたのである。筆は持ち運びに不便であるから、金属の入れ物にインクを充填しておいてどこででも書ける便利な道具、それが万年筆だった。

 しかし万年筆にも欠点がある。先ず高価だ。大量生産体制が整った今でも最安モデルがボールペンの10倍近い値段がするのだから、発売当初はもっと高価であったはずである。ボールペンと違ってメンテナンスフリーではないし、インクは度々充填せねばならない。使わなければペン先は乾き使えなくなるし、耐衝撃性はボールペンより圧倒的に劣る。

 筆に代わり発明された便利な道具としての万年筆。万年筆に代わり発明されたより便利な道具としてのボールペン。これは人類が道具を進化させてきた歴史であるはずだが、いったいなぜ筆も万年筆もいまだに使われるのか。随筆を書くうちに不思議に思ったことの一つである。


 台風が襲来した週末、安楽椅子に腰かけ退屈を午睡で紛らわせていた昼下がり。窓の外の樹を見て系統樹を連想し、それを筆記具に当て嵌めて考えてみた。思いつく筆記具を広く列挙する。例えば鉛筆、クーピーにクレヨン、筆に万年筆、液晶に感圧で直接書き込む電子的なペンも該当するだろう。それらを紀元前に使われた粘土板に直接掘り削って書かれた原初の筆記を幹とした筆記具の系統樹。


 ああなるほど、私はそう呟いた。至極当たり前の結論を得て小さく笑ってしまう。それぞれの筆記具は筆記という目的を同じにしても表現できる趣が全く異なるのだ。文字だけにとどまらず、描かれる絵においてもしかり。同じ絵具でも水性か油性かで全く違うし、ボールペン画や鉛筆画も示される質感や雰囲気がガラッと変わる。

例えば古風というタグが付いた万年筆という筆記具で筆記した原稿は、ボールペンで書かれた仕事の資料とは書きあがりが全然違う。完成された作品に関連付けられるタグが違うのだ。やはり勉強するときはシャープペンシルが落ち着くし、絵を練習するには鉛筆に限る。


 世の大多数の人にとってはだから何だという事柄だろう。しかし分岐分類学の系統樹と筆記具を同じ数直線に並べて考えてみるのは私にとって一つの面白い行為である。なぜ後発の優れた規格がその分野を単一支配しないか。この場合なぜ筆や万年筆をボールペンが駆逐しないかという話であるが、これはクローン羊のドリーを連想してみると面白い。ここまで至ると筆記具の垣根を越えて哲学的になる。

 だが現代科学を論じても行き着く果ては哲学であり、文学を論じても行き着く果ては哲学であるからあながち間違ってもいないのだろう。これを万年筆から眺めた筆記具論の一つとして読者に提出したい。


 さて最後になるが、ここまでお付き合い頂いた方に最大の感謝を述べたい。本当にありがたい限りである。特にこの作品は公式からのレビューも頂き、得難い感動も味わった。ひとえに応援やコメント、評価をしていただいた方のお陰だ。

 次回作がどうなるかはわからないが何かしらは書くだろうと思うので、今後ともお付き合いいただけたら幸いである。


紫藤文彦


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万年筆狂イ指南 紫喜 圭 @saito_bat

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