二千年後にもう一度

明神響希

二千年後にもう一度

地球は青かったらしい。海が黒く濁り、大地は枯れ、乾いた風が吹く度砂埃が舞う今では考えられない。ボクは退廃した世界で、先生と一緒に暮らしている。先生はボクを守ってくれて、物知りで、沢山の事を知っていた。『君はもっと沢山のことを知るべきだ』と、先生は語った。

「イト、収集に行こう」

お湯に薄い味がついたスープと、固くなったパンを食べた後に先生は言う。ボクは頷き、煤に塗れた手袋を嵌めた。

収集、というのは壊れた機械のパーツを集めること。先生はそれで何かを作っている。詳しいことはまだ教えてくれない。持ち手が凹んだペンチと先の潰れたドライバーを使い分解し、終わったらリュクに詰める。

「イト、そろそろ帰ろう」

頷き、いつもの場所へ帰る。帰った後は朝食と同じようなものを口にする。食事が終われば、師匠はランプに明かりを灯してボクを呼んだ。

「イト、勉強しよう」

はい、と頷き先生の元へ行く。軋む椅子に座り、不安定なテーブルを挟み対面する。先生はゆっくり語り出した。


「地上にいて上を見上げた時、そこに見えるのが空。本来の空はこのように薄い青をしている」

先生は空いた茶碗に何かを絞り出し、ボクに見せる。

「これは絵の具。絵を描く時色を付ける為に用いられた」

鼻の奥を抉るような不快なにおいがします。機械と似た感じの。

「この絵の具の主成分は油だからな。良い感覚だ。さて次に。空の色が青、といっても様々な色に変化する。それは太陽が関係している」

タイヨウ?

「太陽は地球と同じ天体だ。形状はほぼ完全な球体。大きさは地球の109倍で、距離は一億五千万キロメートル。自ら光を放ち、かつてはこの地球を照らし、熱を与えた」

......?

「想像しろと言われても難しいだろう。かつて、太陽はそこにあることが当たり前だった。当たり前過ぎて誰も気付かないほどに」

太陽はどうなったんですか?

「恐らく、まだ存在しているだろう。この厚いガスと灰色の雲の向こうに」

ボクはそれを見ることは出来ますか?

「今は出来ないだろうね。今の世界でガスを浄化させることは不可能。過去を変えない限りは」

過去を変えることはできるんですか?

「成功した人間はまだいない。もし出来るとしたら未来の人間だけだ」

先生にもできないんですか?

「あぁ。さて、話を戻そうか。太陽は光を発している。光は7色に分解できる。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」

茶碗が7色の絵の具により彩られていく。

「赤は一番遠くまで光が届く。紫は一番距離が短い」

太陽は何色なんですか?

「地球から見る太陽は白色だ。しかし、太陽は様々な色が重なってできている」

元の茶碗みたいにですか?

「いや、もっと均一な白だ」

均一?

「光は目に見える波長だ。白は波長が均一に混ざり合い、反射してできている。茶碗はもう汚れが染み付いていて白とは言えないな」

ほかに白色のものはありますか?

「白は汚れやすい色だ。今の世界にはないだろうな。あぁ、そろそろ油が切れる。寝ようか」

はい、先生。


先生は火を消し布団に入る。先生は端に寄り隙間を見せるとボクに手招きした。

「おいで、イト」

招かれるまま隙間に身体を沈める。薄い布団が先生との距離を埋める。

「大きくなったな」

腕が静かにボクを包み、先生との距離が0になる。柔らかい感触に顔を埋め、先生の体温を感じた。

「くすぐったいぞ」

先生は柔らかい。ボクと違って。抱きしめられると安心する。心臓より上、喉仏より下に温かい風が流れ込む。この世界に吹く風じゃない、呼吸のような湿り気を帯びた風が。先生の衣服を握り、ゆっくり忍び寄ってくる眠気に目を閉じる。

「おやすみ、イト」

おやすみなさい、先生。


食事をした。収集をした。勉強をした。何回も何回も同じことを繰り返す。その中、先生は語り出す。

「タイムマシンというものがある」

タイムマシン?

「タイムマシンとは過去や未来を行き来する架空の機械だ」

架空、ですか?

「あぁ。しかし理論は完成している。必要なのは、それを実行できるだけのエネルギーだ」

エネルギー?

「物理的な仕事に換算できる量、力の総称だ。例えば、このランプの中にある火は熱、光エネルギーを持っている。熱エネルギーは水を沸かすことができ、光エネルギーは辺りを照らすことができる」

太陽みたいですね。

「そうだ。太陽は熱、光エネルギーを持っている。いい感覚だよ、イト」

先生の指がボクの髪を乱す。その心地よさに目を閉じれば、微かな笑い声の後に眠ろう、声を掛けられた。


先生、訊きたいことがあります。

「なんだい?」

先生はどうしてそんな物知りなんですか?

「勉強したんだ」

ボクがいつも先生としていることですか?

「あぁ、そうだ。私が持っている知識をいつか全部君にあげよう。そのためには、文字を覚えなければな」

文字?

「文字とは言語を書き表すための記号だ。様々な種類の文字が生まれ、滅び、継がれてきた。私が教えることのできるのは1つの文字しかない。最初はひらがなからだ」

こうしてボクは文字を学んだ。


先生、訊きたいことがあります。

「なんだい?」

先生の胸は柔らかいのに、ボクの胸が固いままです。何でですか?

「それは......この本を読んでくれ」

こうしてボクは性別というものを学んだ。


先生、訊きたいことがあります。

「なんだい?」

先生と一緒にいると、胸が暖かくなります。これはなんですか?

「それは安心、というものだ。そうだな、そろそろ良い時期だ。君に良いものをあげよう」

そうして先生は僕にたくさんの物語をくれた。ボクはたくさんの感情を学び経験を得た。


先生、訊きたいことがあります。

「なんだい?」

先生は小さくなりましたか?

「違う。君が大きくなったんだ」

先生を守れるようになりました?

「......いや、まだまだだ」

そう言う先生の顔は少し悲しそうで、とても嬉しそうだった。


先生、訊きたいことがあります。この言葉に、先生は何でも答えてくれた。先生はたくさんのことをボクに教えてくれた。食事、収集、勉強、睡眠。そのサイクルを幾度となく繰り返した果て、先生はいつものように語り出した。

「イト、そろそろタイムマシンが完成しそうだよ」

タイムマシン、ですか?

「そうだ」

タイムマシンで何処に向かうんですか?

「二千年前だ」

二千年前には何があるんですか?

「太陽がある。鮮やかな緑が、色とりどりの花がある。青い海が、空がある」

ボクが見たことないものですね。

「あぁ、私も久しく見ていない」

先生の口角が上がる。ボクより小さくなった先生の柔らかな黄金色の中に白髪が混じっていた。

「着いてこい、イト」

はい、先生。


ボクらが集めたパーツは、ボクのより少し大きな機械になっていた。

「さぁ、乗って、イト」

重い金属の扉が開く。茶碗に彩りを付けた絵の具と同じにおいがする。言い表せない不安と不快感が喉仏の下を渦巻く。ボクの不安を感じたのか、先生がボクの身体を包み込む。ボクより細い折れそうな腕で。

「大丈夫だ。心配しなくても良い」

先生、訊きたいことがあります。

「なんだい?」

ボクは先生を守れるようになりましたか?

「あぁ」

ボクは先生の役に立ちましたか?

「あぁ」

ボクはちゃんと学べましたか?

「あぁ」

ボクがまだ知らないことがありますか?

「たくさんある」

それは先生も知らないことですか?

「あぁ」

次からは一緒に学べますか?

「......あぁ。さぁ、乗り心地は良くないだろうが、少しの辛抱だ」

先生はボクの背中を押し、扉の中へボクを押し込んだ。

「さようなら、イト」

不快な油が鼻の奥を刺激する。言葉に反応して振り向こうとするボクを扉が阻む。


先生?

「すまないね、騙すような真似をして」

ドアノブを捻ってもびくともしない。固い金属の向こう、先生の声だけが聞こえる。

「タイムマシンは外にスイッチがあるんだ。私が押そう」

待ってください。

「成功率は心許ないが、君なら大丈夫だろう」

なら、先生は?

「このタイムマシンは1人用だ」

なら、ボクじゃなくて先生が乗れば良い

「私は老いすぎてしまった」

まってください。

「どうか生きてくれ」

先生がいないのに、ですか?

「君はもう大丈夫だ」

いやだ。

「さようなら」


いやだ。嫌だ。

貴女を守りたい。まだ傍にいたい。まだ何も返せていない。まだ知りたいことがたくさんある。

先生、先生!



「波長の長い光は遠くまで届く。時間を距離に置き換え、2000年前まで移動するためには太陽レベルのエネルギーが必要だ」

機械が稼働する。鼻の奥を不快な感覚が刺激する。目の奥に熱が篭もり、視界が鮮明さを奪っていく。

「太陽は色んな色が重なり、乱反射して白色に見えている。イトに白を見せるのは、初めてになるね」

乾ききった空気の中、口から零れる覚束無い嗚咽のみが湿潤を得る。

「約束、守れなくてすまないね」

ドアに硝子を使わなくて良かった。こんな表情、イトには見せれない。

「さようなら、私の愛しい子」

身勝手な私を、どうか赦しておくれ。

「愛してる」

彼の名前の由来を零し、反動へ目を閉ざす。大きくなったイトの姿が瞼の裏にこびり付いて離れない。瞼さえも超える大きな白が空気を大きく振動し、爆音を轟かせた。

最期に瞼越しに見えたのは赤い光だった。



刺すような明るさ。瞼越しにも感じるそれに、いても立ってもいられず目を開ける。

青。

上を見上げると、青が見えた。

「地上にいて上を見上げた時、そこに見えるのが空」

鉛色ではない、茶碗の中の絵の具より澄んだ青。タイムマシンの中で見た白色に目を閉じる。

「太陽は恒星であり、自ら光を放つ。かつてはこの地球を照らし、熱を与えた」

皮膚を通し伝わる温度。それは先生との抱擁で感じたものだった。

先生。

守れなかった小さな背中と細い腕。優しい声に、穏やかな眼差し。愛しい者を失った悲しみを、鋭い光が突きつける。


遠い、遠い、青。

遠い、遠い、太陽。

遠い、遠い、未来。

先生を救える二千年後を、ボクはいつまでも探し続ける。

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