夢見鳥

青柳朔

夢見鳥


 館の地下、座敷牢にはうつくしい鬼がいる。

 老いることを忘れた、少女の姿をした鬼がいる。



 息も凍る冬の日のことであった。

 その地で繁栄を遂げた、ひとつの一族が滅んだ。

 館が炎に包みこまれ、一族の人間は狂った当主に斬られただとか、跡目争いの末に兄弟で殺し合ったのだとか、様々な噂は流れたが、真実はついぞ分からずじまいである。




 なつめがその北條ほうじょうの館の地下へ足を踏み入れたのは、七つにも満たぬ頃のことであった。

 それから、十三年の時が経つ。燃え盛り今にも滅びゆこうとする館を尻目に、棗はゆっくりと鬼の住処へと降りた。地上へと繋がる小さな格子の窓から炎が見える。冷えた地下にはかすかな熱気だけが漂っていた。

 提灯に火をつけ、座敷牢を照らす。広がる黒い髪と、白い肌が棗の目に映った。ああ、と棗は嘆息する。本当に、この女は変わらずにうつくしいままだ。

 首から下げている紐を手繰り寄せ、その先にある鍵で牢を開ける。少女はぴくりとも動かない。

蝶子ちょうこ

 名を呼びながら、棗は横たわる少女の頬に触れた。ひやりと冷たいそれは、ぬくもりを欠片も宿していない。死んではいない、けれど、生きてもいない。

 そういう世のことわりから外れているのだ、この女は。

 棗は己の腕から滴る血を口に含み、そして少女に口づける。血は命。ぬくもりを宿すもの。そして、この少女の餌。

「蝶子」

 棗がもう一度名を呼ぶと、少女の睫毛がふるりと揺れた。

 ゆっくりと気だるげに開かれた瞼の奥には、血と同じ紅い瞳が潜んでいる。白く冷たい指がするりと伸び、細い腕が棗の首に回された。縋るように起きあがった少女は、血に濡れた唇を棗の喉へと押し付けた。紅く濡れた喉を見つめて、首筋に同じように口づけを落とす。

「どうして」

 少女の唇から声が零れる。

「どうして、またやってきたの」

 首筋に、吐息がかかる。棗は時を経てもうつくしいままの黒髪を見つめて、微苦笑した。どうして、なんて。

「俺は、おまえの餌なのに」

 言い切る前に、首筋に牙を立てられる。命を、熱を、奪われているのだ。少女の冷えた身体が、少しずつぬくもりを取り戻しているのを肌で感じて、棗は目を閉じた。


 北條家のにえの子。棗は、この鬼を飼うためだけに生かされた、餌だった。



 棗は、妾の子であった。

 幼い頃、母に連れられてこの北條の館へとやってきた。その日以来、母の姿を見たことはない。家の者は棗のことを存在しないものとして扱っていたし、棗もそれが当たり前だった。食事が与えられるだけ良いだろうと、子どもながらに思っていた。

 しかし、棗を無視できぬ者もいた。棗の腹違いの兄弟たちだ。

 彼らは大勢で棗を囲んで玩具にした。庭の池に放り込まれることもあったし、泥をぶつける的にされたこともある。

 かの鬼との出会いも、数ある兄弟からの嫌がらせのひとつだった。

「この下には鬼がいるんだってさ! おまえなんて鬼に食われてしまえばいいんだよ!」

 本来ならば厳重に閉ざされているはずの地下牢の戸の鍵を、兄弟は当主の部屋からかすめ取ってきたらしい。灯りもない薄暗い地下に、棗は蹴り落とされた。

 転んだ拍子に、あちこちを傷つけた。手探りで膝に触れてみると、ぬるりと濡れた。かなり血が流れているのかもしれない。

 この場所がどれくらいの広さなのかもわからない。かすかに差し込む外の灯りでは、充分に周囲を確認することもできないのだ。

「…………だ、れ……?」

 かすれた声が暗闇の中に響き、棗はびくりと身体を震わせた。おそるおそる声の方へと目を向けると、紅く光る何かを見た。

 暗闇に閉じ込められた不安と、怪我をしたという恐怖もあり、棗は悲鳴をあげて気を失った。



 目が覚めると、棗は見慣れぬ部屋にいた。

 薄暗く日当たりの悪い、本来の棗の部屋ではない。畳も襖も綺麗な、埃ひとつない清潔な部屋だった。

「お目覚めですか」

 声をかけられて、棗はびくっと肩を震わせた。今まで、館の使用人ですら棗に声をかける者などいなかったのだ。

「あ、の……?」

「お館様がお呼びでございます、どうぞこちらをお召しになってくださいませ」

 そうして差し出されたのは、浅葱色の、上等な着物だった。棗が今まで纏っていたお下がりの、よれよれになったものとは比べ物にもならない。仕立てたばかりのもののように見える。

 使用人は感情を宿さぬ目で棗を見つめている。監視されているようだ、と思いながら、棗はもそもそと着替えることにした。

 朝餉をとる暇もなく、棗は前を歩く使用人のあとを追った。館の中は妙に静かで、しかしそこかしこから視線を浴びせられているような気がして、ひどく居心地が悪い。ぴたりと使用人が止まり「お連れいたしました」と小さく襖の向こうへと告げる。

「入れ」

 低い声で返ってきた返事に、棗の心臓は鷲掴まれたようにきゅっと縮んだ。

 数年ぶりに見える父は、とても大きい。声をかけられた記憶すら、棗にはない。

「おまえは、今後贄としてこの北條のために生きよ。他には何もしてくれるな。地下に住まう、あの鬼へ餌を与えていればそれでいい」

「……おに、ですか」

「おまえも見たであろう、紅い目の、少女の姿をした鬼を。あれは人の血を啜って生きている。……妙なことに、北條の家の、気に入った人間の血しか好まぬ。もう何十年も血を飲まずに眠っていたが、おまえの血の香で目覚めた」

 あの紅く光っていたものは、瞳だったのか。棗はぼんやりと思う。人として扱われず、今度は贄か。

「化け物だが、捨て置くわけにもいかぬ。あれが北條を繁栄させたとも言われているのでな。今までは餌が見つからずに眠っていたが、おまえがあれの餌であったのは僥倖だ。かの者が目覚めている間は、北條もまた栄えるであろう」

 父の目は、子を見る目ではなかった。棗はその後のやりとりをよく覚えていない。ああ、必要とされていなかった空気のような己は、今度は捧げものにされるのだと、それだけを何の抵抗もなく受け入れていた。幼い棗には、父に従い生きていく他に術は無い。



 がちゃり、と錠を外す音が響く。真っ暗だった地下は、蝋燭で照らされ、妙に明るい。棗の首からはこの地下牢へと繋ぐ扉の鍵がぶら下がっていた。棗に与えられた役割を象徴した、首輪のようだ。

「あなたが、私の贄?」

 座敷牢の中で、少女が気だるげに肘掛にもたれていた。長い黒髪が、古びた畳の上に広がっている。

「まだ幼いのね。いくつ?」

「……もうすぐ七つ」

「こんな幼子を餌にするの、今の北條は。随分と芯まで腐ったこと」

 少女は嘲笑を零し、そしてゆるりと手招きする。その誘いに、棗は素直に従った。格子の傍まで歩み寄る。棗は何故か、鬼と呼ばれるこの少女を恐ろしいとは思わなかった。むしろあの父よりも慕わしいとさえ感じる。

「あなたの血の香りで目が覚めたけど、まだ一滴も口にしてない。なぁに、大丈夫よ。干からびるほど吸ったりはしないから。指先をほんの少し傷つけてくれればいい」

 差し出された白い手の上に、棗はそっと自分の手を重ねた。少女は目を細め、その鋭い牙で小さな指先に傷を作る。ぴりっと奔った痛みに、棗は息を呑んだ。ぷっくりと膨れ上がった紅い血に、少女の目はきらりと光る。

 少女の舌が指先を舐める。まるで飴を舐めるみたいに、何度も何度も棗の指先を舐めている。犬みたいだ、と思いながら棗は少女を見つめた。――すると、紅い瞳と目が合う。ふ、と微笑む姿に、どきりと心臓が鳴った。


 ――……犬などではない。犬などでは。


 少女から漂う色香を、幼い棗が理解することはできないが、けれど獣などでは少女を表すのに相応しくないということだけは分かった。

 ぺろりと少女が唇を舐める。気づけば棗の指先につけられた傷跡は、綺麗に消えていた。血も止まっている。

「名は、なんというの」

 棗が消えてしまった傷口を見つめていると、少女は見つめながら問いかけてきた。

「なつめ」

「……なつめ。棗、ね」

 確かめるように棗の名を繰り返している少女を見て、棗は首を傾げた。

「……あなたは?」

 その問いかけが意外だったのか、少女は紅い目を丸くして棗を見た。

「私の、名前? 私は――……」

 何かを探すように紅い瞳が彷徨い、そして思い出したかのように、ひとつの名を呟いた。

「蝶子」

 今にも泣きだしそうに顔を歪めて、少女は、蝶子は笑う。

「私の名は、蝶子よ」

 それは、北條の人間も本人すらも忘れかけていた、鬼の名前だった。



 蝶子という名は、何代も前の北條の当主がつけたものだった。

 腹を空かせていた子どもを拾い、育てた、お人好しであった。当時の北條は名家といえども力はなく、使用人などひとりもいなかった。当主が拾った子は、不思議なことに乳を飲まず、人の血を啜った。既に何人もの子をもっていた情の深い当主はその奇妙な子を捨てることもできず、我が子として育てることにした。子には『蝶子』という名をつけた。

 蝶子は成長しても血以外のものを口にすることはなかった。蝶子が育つにつれ、北條の家は大きくなっていき、豊かになった。蝶子は天からの授かりものなのだろう、と北條の家族は笑った。

 その当主も、その息子も、その孫も、成長を止めた蝶子を受け入れ、血を与えていた。しかしそれも三代まで。孫の子は、蝶子を化け物と罵った。

 死に際に、孫は「すまない」と蝶子に言った。祖父は、あれほどあなたを愛していたのに。あなたはこの家を豊かにしてくれたのに。すまない、と。

「いいの」

 蝶子は孫の老いた手を握り、微笑んだ。

「血を糧とする私は、間違いなく化け物なのでしょう。化け物は化け物らしく、大人しくしているわ。私はもう、あなたたちの血しかいらない。他の人間の血は飲まない。あなたが死んだあと、私もすぐに追うわ」

 長く生きた、と蝶子は呟いた。もう充分だと。

 育ててくれた父と、共に育った兄弟と、育てた孫の血で蝶子は生きた。愛してくれた人達の血で、生かされた。

 しかし、蝶子は死ななかった。長き眠りについたのち、やはり血の香りで目覚めた。それは、兄弟の血と同じ匂い、同じ味だった。

 血を捧げた『贄』を見て、蝶子は「ああ」と呟いた。

 姿形は似ていない。けれど、『同じ』であった。この目の前にいる『贄』は、兄弟が転生し、再びこの世に生を受けた姿なのだろう。なんの因果か、なんの呪いか、また北條に生まれたのだ。

 蝶子は自らに枷をつけたのだ。その枷は、蝶子だけでなく育ての親や兄弟を巻き込んで北條の家に縛り付けた。



 棗が贄となったあの日から、七年が経った。棗はもうじき十四になる。凍える冬がやってきて、棗は白い息を吐き出しながら地下へと降りる。真冬の地下は、たやすく体温を奪っていく。指先の血も、すぐに凍りついてしまうのではないかと思うほどだ。形だけある火鉢は、忍び寄る寒さに対抗するにはあまりに頼りない。

 触れる手は冷たいのに、指先を這う舌は熱い。いつも、いつまで経っても、蝶子は指先から、わずかな血しか求めてこない。

「こんなに少ない量で足りるの?」

「充分よ。血はいのちの水。数滴で私が一日生きるに足るもの」

「……飲まないと、どうなる?」

 棗が問うと、蝶子はくすりと微笑んだ。

「私は死なない。だって私は化け物だもの。しばらくの間血を口にしていなければ、眠り続けるだけ」

 だから、と蝶子の手が牢の隙間から伸びで棗の頬を撫でる。

「数日に一度、ここへ来てくれればいいのよ、私の餌」

「毎日やって来る俺が鬱陶しい?」

「さぁ、どうかしら。退屈はしないけれど、少し騒々しいかもしれないわね」

 棗を見つめる蝶子は、まるで子どもをあやすようにやさしい。

「それに、棗。私を甘やかしてもいいことなんてないわよ。力を蓄えて、いつかあなたの首に噛みつくかもしれない」

「どうして」

 頬を撫でていた指先が、棗の首筋をなぞる。引っかき傷でも作るかのように、爪をたてた。蝶子は穏やかな微笑みを浮かべたまま、いとおしげに棗を見つめる。

「どうして? 簡単なことだわ」

 棗は、蝶子の紅い唇から目が離せなかった。


「あなたをころして、わたしはじゆうになるの」


 微笑みと共に蝶子は吐息を零す。彼女の吐き出す息は、白くならない。彼女自身がぬくもりを宿していないのだ。

「北條に飼われているのよ、私もあなたも。けれどあなたがいなくなれば、私を繋ぐ鎖は消えるも同然」

「自由になりたいの? 蝶子」

 棗の目には、蝶子はこの地下牢に、自ら閉じ込められているように見える。外へ出ようと思えば、出ることができたはずだ。幼い棗を騙せば、扉の鍵は手に入る。格子の扉の鍵も、棗の首からぶら下がっているのだから。

「自由を求めない生き物はいないと思うわ。たとえそれが化け物でも」

「俺がいないと生きていけないのに、俺は邪魔なの?」

「あら、変なことを言うのね。私は死なない。そう言わなかったかしら?」

 覚えているよ、と棗は小さく答える。しかしその目は真っ直ぐに蝶子を見つめ返した。

「次の餌が現れるまで眠りにつく――ねぇ、蝶子。その次が永遠にここへやってこなかったら、それは『死』と同じではないの?」

 棗は賢かった。今まで蝶子が当たり前と思っていた『生』を、たやすく否定する。棗の言葉に、蝶子の瞳が揺れた。そこに宿る色は、恐怖でもなく動揺でもない。

 焦がれている。棗はそう感じた。この鬼は、『終わり』に焦がれているのだと。


 鬼は、蝶になりたかったのだ。

 ふわりふわりと、儚い時を生きる、うつくしい蝶に、なりたかったのだ。



 そうしていくつもの季節が過ぎ、棗も大きくなった。すらりと背の高い、見目の良い青年は、あの日怯えていた幼子とは思えぬほどに凛々しかった。しかし蝶子の姿は、出会った時と変わらぬ、うつくしい少女の姿のままであった。

「蝶子」

 蝋燭に照らされてもなお薄暗い地下へ降りながら、棗は名前を呼ぶ。座敷牢の奥で、もそりと少女が起きあがる。蝶子の周りには書物やお手玉などが転がっていた。棗がこの数年で蝶子に贈ったものだ。なんせそれまで座敷牢の中にはろくなものがなかったので。

「もうすぐ春だね。梅が咲いていたよ」

 棗は紅梅の一枝を差し出しながら、柔く微笑む。

「いらない。梅の香りは嫌いよ」

「じゃあ桜が咲いたら、持ってくる」

「桜も嫌い。花はみんな嫌いなの」

「『蝶』子なのに?」

 くすくすと棗は笑って、梅の枝を弄んだ。

「そうよ。だって私は花の蜜なんかで生きていけないもの」

 細い指が棗の方へと伸ばされる。いつの間にか、棗は蝶子の身長を追い越していた。牢の隙間から伸びてきた腕は、するりと棗を捕らえる。笑みを浮かべた唇の合間から、鋭い牙が見えた。

「……当主がね、後継ぎを誰にするか悩んでいるらしいよ」

「誰が継いでも、腐ったこの家はもう元には戻らないでしょうよ」

 は、と渇いた笑みを浮かべ、蝶子は吐き捨てた。

「……蝶子は知っているんだよね。腐る前の、栄華を極めた北條を」

「……ええ、知っているわ」

 棗の問いに、蝶子は目を細めた。懐かしむような紅い瞳は、どこか切なげに揺れていた。鬼は、失われてしまった愛しいものを、思い出すような、そんな目をしていた。

「あなたも、当主の候補に挙がっているんじゃないの? ただの贄の子だったのに、随分と立派になったものね」

「ありえないよ」

 棗は苦笑しながらも、それがありえぬことではないと知っていた。本妻の子は、あまりにも愚鈍だった。それを当主が憂いているのも、知っている。そして文武ともに秀でた棗に一目置いていることも。

 棗はただ、この鬼を救いたい一心で学び、鍛えたというのに。


「……ねぇ蝶子、自由になりたい?」


 棗の囁く声は、甘くやさしい。それがひどく居心地が悪く、蝶子は眉を顰めた。この男は、こんな表情を、こんな声を、する子であっただろうかと。

「北條の鎖から解かれ、自由に、なりたい?」

「……なつめ?」

 骨ばった手が、蝶子の頬を撫でる。棗は静かに蝶子を見下ろしていた。だいじょうぶだよ、と棗は幼子をあやすように、蝶子に告げる。

「少しだけ、待っていて。俺が蝶子を、自由にするから」

 するりと棗は蝶子から離れる。蝋燭の炎が揺れていた。なにをいっているの、と蝶子はぽつりと吐き出した。

「わたしは、あなたをころして」

「そう、俺を殺して、蝶子は自由になる」

 棗はやわく微笑んだまま、蝶子が繰り返し繰り返し、棗に向けてきた言葉を口にする。

「だから、ごめん」

 棗、と蝶子が呼びとめる前に、棗は地下牢の重い扉を開け、明るい外へと出て行ってしまった。その背中を見つめたまま、蝶子の胸には、言いようのない不安が広がっていった。

 そしてそれきり、毎日続いていた棗の訪れは途絶えた。


 それは、棗が二十歳になる春のことであった。


・  

       

 棗は笑った。館が崩れ、炎に包まれていることなど構いもせずに、ふわりと笑った。

「俺は、おまえの餌なのに」

 凍てついた空気が、頬を撫ぜる。

 蝶子が首に回した手を背へと移すと、ぬるりと熱い液体に触れる。鉄錆の匂いは、座敷牢の中に充満していた。蝶子は棗の背を撫でて、すっかりたくましくなった胸に頬を寄せる。

 ちょうこ、と低い声が甘えるように囁かれる。

「ほんとうは、俺が当主になって、北條を終わらせるつもりだった。けど、そんなことする必要もなかったみたいだ。北條はほろびる」

 遠い地上から、悲鳴が聞こえた。冷えた地下に熱気がじわりと押し寄せてくる。焼け焦げる匂いに、蝶子にも館で何かが起きているということだけは察せられた。

「息子が父を殺して、兄弟も斬って、館に火をつけた。もうすぐ館は崩れ落ちるだろうね。やり返してやったけど、俺も、もうながくないみたいだ」

 だから。

 ねぇ、蝶子。

 甘える声が、蝶子の耳をくすぐる。

「俺をころして」

 祈るように乞う棗に、蝶子は静かに目を閉じた。

「俺を、蝶子の糧にして」

「――――馬鹿な子」

 蝶子は棗の胸に頬を寄せたまま、小さく吐き出した。こんなに大きくなったというのに、この男は今も蝶子に縋る子どものままなのだ。

 ころして、俺をころして。

 毒のように染みてくる甘い誘惑に、蝶子はきつく目を閉じた。耳を塞ぎたかった。けれど棗はなけなしの力で蝶子を強く抱きしめ、声の続く限りに殺してと願う。どうして、と震える声で蝶子は問うた。

「どうして」

 ふ、と棗が微笑む。耳元をかすめる吐息は棗の身体の熱を全て宿しているのではないかというくらいに、熱い。

「俺は、おまえの餌だから。だから、俺は、おまえの為に生きて、死ぬんだ」

 もう立ち上がる力もないだろうに、棗はそれだけはしっかりと答えた。迷いなど何もないと言わんばかりに。それが己の運命なのだと。

「俺を、蝶子の命にして」

 今しがた噛みついた棗の喉からは、血が滲んでいる。流れていく命そのもののように見えて、いとおしくて、仕方なかった。

 蝶子は棗の頭を引き寄せる。力のない身体はすぐに傾いだ。黒く艶やかな棗の髪を撫で、蝶子は首筋へと唇を寄せた。


「あなたをころして、わたしはじゆうになるの」


 それは、幾度となく棗に言い聞かせた言葉。


 馬鹿な子。馬鹿な子だ。

 鬼を恐れて、畏れて、近づかなければよかったものを。鬼に情けなどかけなければよかったものを。愛されないように、慕われないように、言い聞かせていたのに。


 蝶子が棗の首筋へ牙を立てた瞬間、棗はしあわせそうに微笑んだ。





 息も凍る冬の日のことであった。

 その地で繁栄を遂げた、ひとつの一族が滅んだ。

 館が炎に包みこまれ、一族の人間は狂った当主に斬られただとか、跡目争いの末に兄弟で殺し合ったのだとか、様々な噂は流れたが、真実は終ぞ分からずじまいである。



 朽ちた北條の館の、閉ざされた地下深く、少女の姿をした鬼は、眠っている。






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