しゃぼん玉を吹く女
しゃくさんしん
しゃぼん玉を吹く女
一
部屋は、詩織の吐く息で、酒のにおいがした。
「だってなあ、こんなに酔うてるねんもん。ほんで、詩織、女やねんもん。なにされてもなんもできひん」
子どもが言い訳するような、あどけない弾力のこもった声である。男に辱められたというのに、まるで自分の罪を忘れようとする口調だ。
実際、詩織に限っては、犯されるのではなく、犯させるのかもしれない。
彼女は、髪を耳にかける仕草にも、無防備な媚態がある。いくら男に弄ばれてもなお、また他の男の腕にもたれかかるのだから、被害者というより共犯者なのかもしれない。
汚された夜を話す時はきまって、罪から逃れる口ぶりなのは、詩織も心のどこかで自らの罪に気づいているからであろう。
黙ったままの僕に、詩織は壁に背をあずけて、独り言のように話し続ける。
「キスだけやったらええよって言うてるのに、なんで殴ってまで、したいんやろ。子どももできん詩織としてなにが面白いんやろか。一人でしてんのと、なんも変わらへんやん。あんなん、一人ですんのに使われたようなもんやわ。人形みたいなもんやわ」
投げやりに吐き出される詩織の言葉は、しかし瑞々しい力を感じさせた。
自らの惨めさを語りながらその痛みが、荒廃した悦びとなっているようだ。
「あんたはどう思うん」
詩織は唐突に、ベッドに横になる僕に問いかけた。
「男の人やったら、そんなんでも、ええのん?」
「どうやろ。少なくとも、僕に聞くことじゃない」
詩織の近くにいながら、彼女を犯さぬ男は、僕ただ一人である。
詩織は納得したように、
「まあ、それもそっか」
と、小さく笑った。
「色んな人おるもんやなあ。あんたみたいになんもせえへんかったり、今日の人なんて、もう髪の毛も少ないおじいちゃんやのに、赤ちゃんみたいにずっと胸に頭埋めてて、怖かったわあ」
そう言いながら、二十歳という歳には幼げな詩織の大きな円い目が、妖しく濡れて輝きはじめるのを、僕は見た。
自分の上を今宵通り過ぎていった老人が身体のなかによみがえり、痛みがじんわり疼くのだろうか。
「口のなかに詩織の胸ふくんでなあ。子どもできひんねやから、お乳なんか出えへんよって、皮肉のつもりで笑ったらな、『子どもができんから、母乳のかわりに、若い女の露が出るんやないか』って」
詩織は、紅色の小さな唇を舐めて、下唇を軽く噛んだ。いつもの、泣き出す前の癖である。唇が唾液で鈍く光る。
「詩織、なにしてるんやろ、思ってな。若さとか、大事なもん、吸われてるような気いしてな……」
詩織の血の通わぬような白い頬を、一粒の涙が音もなく流れた。涙に音がないのは当然だが、心に静かに響く涙だった。涙の粒は、目元の化粧が溶けて薄らと黒い。それは唇の傍を過ぎて顎を伝い、ほっそりした首にまで流れた。黒い血管が浮かぶようであった。
きっと、かなしみの涙ではないのだろう。
むしろ愉悦の涙だろう。
苦悶の声をもらしながら生命の凱歌に恍惚とする詩織の矛盾を、僕はとがめることなく、ただただ眺めた。
男たちの欲望のなかに裸体をさらすことでしか、金も食い物も、自らの心さえも掴めぬ惨めさは美しかった。矛盾をついて、その美しい歪みを正すことは、したくなかった。
無垢な顔をして男に身をあずけるという人形じみた媚態が詩織を共犯者にするならば、彼女の痛みに掌を添えず傍観する僕の心の動きも、共犯といえるのだろうか。
二
詩織は育ちながら歪んだというより、歪んで生まれついたようであった。
一棟の長屋の隣家に生まれ育った同い年の僕と詩織は、二人とも父がなく母もほとんど家にいないこともあって、いつからとなく兄妹のように近かったが、しかし詩織は幼い時から僕に対してさえ女であった。
僕たちが小学生であった時、詩織の母が娼婦だという噂がたった。
子どもじみた噂はすぐに広まりその過程で台風のように強まり、やがて詩織への嘲笑となった。
ある日、詩織と学校からの帰路を歩いていると、同級生の少年たちが数人遠く後ろについてきて、叫ぶように大きな声で言葉を投げてきた。
「おい、お前、母ちゃんが股開いた金で飯食うとんのか」
「きったないなあ、身体のなかから腐るぞ、お前」
「おい、なんか変な臭いせえへんか」
「おう、するする。あいつからやで。売女の血が流れとるんやもん、息も汗も腐って変な臭いするはずや」
「バイタ? なにそれ?」
「あいつのお母さんみたいな、汚い人のこと、バイタて言うんやて。お父さんが言うてた」
「バイタ、バイタ、バイタ、バイタ」
少年たちは合唱するように、口をそろえ節をつけて繰り返した。
僕はどうしていいのか分からず、そっと隣の詩織の顔を盗み見た。いつもと変わらぬ無表情で、なにを考えているのか分からない、というよりなにも考えていなさそうな、澄んだ虚無であった。
少年たちの声を無視して歩き、二人で僕の家に入った。
それがその頃の僕たちの日常だった。どうせ後から二人で遊ぶのだから、一緒に一つの家にあがる。詩織の家でも良かったが、そちらは乱雑に散らかって足の踏み場がなくそれに加えて虫が壁を這っていてどうしても落ち着けない。それで僕たちは、まるで本当の兄妹のように、毎日僕の家へ帰るのだった。
少年たちは僕の家の前で同じ言葉を繰り返したが、僕たちがなんの反応も見せないと分かって白けたのか、少しして声は消えた。
僕は詩織にジュースを注いだグラスを渡して、自分はペットボトルから直接ジュースを飲み、それから、じっと黙り込んでしまった。
なにをどう言ってやれば良いのか、まるで分からなかった。
息苦しい静寂は、詩織の声で破れた。
「なあ。聞いて。詩織のママな、いっつも、男の人と寝てんねん」
僕は、はっとして詩織を見た。
詩織もまた、こちらを見つめていた。
黒い湖のような、深遠なかなしみを湛えた瞳と、眼差しが絡み合った。
僕はすぐに視線を逸らした。常ならぬ危うい誘惑を感じた。殺人者に抱かれても逆らわぬような哀れな無心の面持ちが、目を逸らしても脳裏に焼き付いていた。
詩織の母は娼婦であろうと、信じる気持ちが起こった。
詩織もやがてそうなるだろうとさえ思った。
不意に、詩織の手が、僕の手に触れた。微睡みのようにぬるい掌だった。僕は、肌に滲むその生々しい温度に、本能的に彼女の手を振り払った。すぐに、ああやってしまった、と後悔に襲われた。詩織の顔が見れなかった。それきり、詩織はなにも言わなかった。
今にして思えばあの詩織の姿は、男の手によって堕ちる運命の、幼い開花であった。
詩織は成長するにつれて甘い匂いを濃くして、絶えず男を惹きつけ弄ばれ踏み躙られるようになり、今では行きずりの男たちに飯を与えられ身体を明け渡している。
厳密な語義において娼婦かはさておき、心の意味で娼婦である。
そしてそれは、幼き日からそうであろう。
三
薄闇が広がる夕方、アルバイトから帰ると、ちょうど詩織の姿があった。
くたびれた長屋の連なりの、詩織が母親と住む家の前に、黒い軽自動車が停まっている。助手席から詩織が降り、運転席からは作業服を着て頭にタオルを巻いた若い男が降りる。
詩織は、僕に気づくと頬を綻ばせ、小さく手を振った。袖の広い半袖のシャツから伸びる、細く白い腕が暗がりに仄めく。
「バイトやったん?」
「うん」
僕は頷いて、詩織はどこに行っていたのか、聞こうとしてやめた。
続けてなにか言おうとする詩織の奥に、男の鬱陶しがるような視線がこちらに流れているのが見えた。
僕はすぐ、詩織の言葉を遮るように、
「じゃ、また」
とだけ短く呟いて、自転車を停めて家に入った。
部屋で煙草をくゆらせていると、隣から扉の開閉する音と揺れが伝わってくる。忙しない足音が玄関の方から来て薄い壁を挟んですぐそこに止まる。
低い囁きが曖昧に響き、それからしばらく、息が詰まるような静寂がひしめく。
凝然として耳を澄ます。
詩織の震える声が、耳から流れ込み全身を鋭く煮えたぎらせる。溶岩のような昂ぶった暗流が胸に荒れ狂う。
壁にそっと耳を添える。すぐそこに詩織が横たわっているように、細やかな息遣いまでが滲んでくる。喜悦の息と声に、すすり泣きが溶け混じっている。
僕と詩織とを隔てているものはなんだろう。僕とあの作業服の男とを分けるものはなんだろう。
拳を振るい古びた壁を破れば、僕は詩織をこの腕に抱けるのだろうか。考えるまでもない。
僕のすべての、臆病な薄情さのせいだろう。
愛され得るほどには愛せず、憎まれ得るほどに憎むこともできない。
胸に広がる、枯れた静けさが淋しかった。
しかしすぐに、空虚な魂こそ美を映す鏡なのだろうかとも、思い巡った。
自分を慰めるための思いつきだと、自らの思考の流れに嫌気がさしたが、しかしこの思いつき自体はいくらか真実ではないか。
詩織を犯す者の、快感に曇った目に、詩織の美しさは見えないだろう。
憂鬱が、心に柔らかく沁み込んだ。
胸に揺らめくのは、絶望には違いなかったが、甘い味がした。
僕は、壁に背をもたれさせて詩織の息の弾みに耳を澄ましながら、咥えた煙草の煙に彼女の白い肌の幻を描いた。
四
朝、出かけようと外に出ると、長屋の前の道に寝間着姿の詩織がしゃがみこんでいた。
僕が家から出て来たのにも気づいていないのか、振り返りもしない。
「なにしてんの」
後ろ手に扉を閉めながら声をかけると、詩織は驚いたようにぴくりと肩を揺らして、こちらを振り向いた。
「びっくりしたあ。おはよう」
詩織は、疲弊の滲む静かな微笑みを浮かべた。白みつつある空の淡い光が、傷ましく乾いた長い黒髪の乱れに優しく漂っている。
詩織の小さな手に、なにかが握られているのが、目についた。
「なに、それ」
僕が歩み寄りながら聞くと、詩織は華やぐように頬を綻ばせて、
「しゃぼん玉。昨日来た人がな、お土産やって言うて、買ってきてくれてん」
「へえ、懐かしいな、こんなん。久々に見た」
「なあ。そういえば昔、めっちゃ小っちゃい時、二人で三丁目の駄菓子屋さんまで買いに行って、大池公園でやらへんかったっけ?」
「僕もちょうどそれを思い出してた」
そう答えると、連想の偶然の一致に、詩織は声をあげず笑った。はにかみのように見えた。思いがけない清らかさに、僕は胸を打たれた。
クマの顔のプリントされた薄桃色の寝間着のせいか、ふと見せた恥じらいのせいか、いつにも増して詩織が子どもじみて見えた。しゃぼん玉を買い与えられて無邪気に喜んでいるせいもあるかもしれない。
しかし、昨夜も夜通し、詩織の声はあった。
昨夜訪れた男は、しゃぼん玉を与えるほどに詩織を幼く見ながら、汚したということになる。
僕は、小さくなってしゃがむ詩織のその姿を、目のなかに愛撫した。
不意に、涙が浮かんだ。男たちがこの小さな身体に群がっていることが信じられなかった。しかし僕の涙もまた、一種の感涙であった。詩織の哀れさに情をうつし自分のかなしみのように胸を痛めるのではなく、咲いては枯れる花を見るかのように鑑賞するに過ぎなかった。
詩織が、しゃぼん玉を、ふうっと吹く。
しゃぼん玉が、朝の空へふわふわと浮かんでいく。透徹のなかに朝陽を抱いて七色に染まりながら、穏やかな風に揺られてたよりなく、虚しいような水色の空へ流れていく。
僕は、しゃぼん玉を見る詩織に、視線を移した。
詩織は、細い首をいっぱいに伸ばして、浮かびゆくしゃぼん玉を仰ぎ見ている。澄んだ黒い瞳に、空の青が、すうっと流れ込んでいる。しゃぼん玉を眺めるはずのその目は、しかし、どこも見ていないように儚い。
口紅のとれた薄い色の詩織の唇が、半ば開かれた。ふわあ、と、あくびがもれた。
僕は、底なしの温かいものを感じて、思わず微笑んだ。
あくびはうつらなかった。
しゃぼん玉を吹く女 しゃくさんしん @tanibayashi
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