I am hungry for ( ) love.

香枝ゆき

第1話

                 

「ごめん、聞こえなかった。もう一回」

  かすれ声に、俺は痛みを無視して繰り返した。

「美鷹、距離をおこう」

 付き合いはじめてちょうど一年半。交際相手の美鷹はふらりとベンチに倒れこんだ。こらえた素振りの彼女に、自分の中の良心が痛む。

「……どうして?好きな人でもできた?」

「違うよ」

「……じゃあなんで?」

  悲壮感漂う声には、アレルギーを起こしそうだ。辛気くさいのは好きじゃない。だから俺は努めて明るく振る舞うことにした。

「もう俺しんどいよ。美鷹から俺への好きって気持ちは嬉しいけど、俺は同じだけの好きを返せない」

「それでも私は」

「美鷹がよくても俺は辛い」

 なにか言いかけたところを遮って、一方的に気持ちを投げた。駅のホームは、まだまばらに人がいる。

「……終バスの時間間に合わなくなるだろ?次の電車乗らなきゃ」

 神蔵美鷹。二歳年下の彼女。この関係になるまでは、大学の園芸部という、いつつぶれてもおかしくない部活の先輩後輩同士だった。

 彼女の家は厳しく、大学生にもなって門限は10時30分。大学まで片道三時間かかるのに。もちろん泊まりは不可だ。

 今まで門限に間に合わせるようにデートを重ねてきたが、今日は予定が狂ってしまった。俺が将来のことを切り出したからだ。

 もう門限までの帰宅は難しい。せめて彼女が家で嫌な思いをしないためには、一刻も早く帰ってもらうしかない

「……今日親いないんですよ。外泊もできます」

 彼女はけろりとした表情で言い放った。先程までと一転、微塵も悲壮感を感じさせなかった。

 電車がやってくる。彼女は笑ったままだ。

「美鷹……」

「仮谷先輩の距離を置こうは、別れるのと同義でしょう?」

 電車が音をたててやってくる。言い当てられたから。言い訳をする勇気はない。 彼女は俺の腕を掴んだ。

「今日くらい、最後ぐらい、そばにいてくれてもいいじゃない」

 ドアが開く。引かれるまま、俺は自分の家と反対方向の電車に乗り込んだ。 最初のデートで手をぎこちなく繋いだ。何回か繋ぐと慣れて、繋ぎ方が変わった。一度だけ抱き締めた。それ以上の関係はない。

 正直焦っていた。彼女が怖がっていたのは知っていたけど。それだけ自分は怖いのかと。信用されていないのかと。

 だからこそ、チャンスかもしれないと思った。

 なんのことはない。彼女のためを思ってのことじゃない。自分の欲だ。


「どうぞ」

 通されたリビングは、キッチンが異様に広かった。業務用の大型冷蔵庫が当たり前のような顔をして収まっているからかもしれない。

「……親御さん、料理に凝る人だったっけ?」

 彼女の料理の腕はすこぶる悪いので、興味本意で聞いたつもりだった。

「……前も言ったかもしれませんけど、父は料理人、母は料理研究家です」

 ああ思い出した。昔ちらりと聞いたことがある。神蔵鶴雅と白鳥雛子。世界を股にかける料理人と、新進気鋭の料理を発表し続ける美人料理研究家。そういえばテレビにも出ている。

「一族はほぼ料理人だから、業務用の冷蔵庫は必須ですね」

 その言葉に引っ掛かった。確か料理人の家系のプリンスという文句で、テレビに出ていた若手料理人がいたはずだ。俺の疑問が顔に出ていたのだろう。美鷹は冷蔵庫をのぞきこみながら答えてくれる。

「……ああ、神蔵隼人は兄ですね、血の繋がらない。私の父が本家の家督筋なので、分家から養子をとったんですよ。才能のない私の代わりに」

 吐き捨てるように。美鷹と家族との関わりかたが嫌でもわかってしまう。

 彼女は親の反対を押しきり、スポーツをしていた。全中で一位、インターハイで二位と結果を出し続けた。しかしインターハイで負った怪我がもとで競技を続けられなくなり、今ではすっぱりやめているという。

「夢を諦めなくちゃいけなくて、大学でも続けてる人を見るのが辛くて。家も居場所がなくて。そんなときに先輩に会った。私、生きててもいいんだって思った。でも」

 彼女はグラスに飲み物を注ぎながら、声を震わせた。

「先輩との関係もダメになったら、私はどうしたらいいの。私に何が残るっていうの」

 目の前で、目に見えてぼろぼろになっていく彼女を見ていられなかった。自分が引き起こしたとしても。

「美鷹が残るよ」

「そんなの無価値でしかない」

「そんなことはないよ」

「家族関係も夢も二つなくなって、そんな私に意味はあるの」

 重たい問いだった。自分の言葉は意味のない気休めにしかならない。

 自覚する。

 俺は、誰かの支えにはなれない。誰かを支えるには力が足りない。相手が美鷹なら余計に。

「意味はあるよ」

「どんな意味が」

 美鷹は追及の手をゆるめてくれない。多分、距離をおこうというのは冗談だ、と言わないと納得しないのだろう。

「美鷹……わかって?」

 返事の代わりに、彼女はグラスを仰いだ。おそらく酒だ。何回練習しても飲めないくせに、無理して飲んで。やっぱり咳き込んでいる。

「本当に、もう、だめなんですね」

 俺はゆっくりと頷いた。

 美鷹が二杯目を注ぐ。すすめられた杯を手にとり、彼女もグラスを持った。「仮谷先輩、お願いがあります」

 耳元でぼそぼそと言われたとき、グラスを取り落としそうになった。

「最後にこのお願いを聞いていただければ、別れます」

 食べて、なんて、二人きりの空間で言われたら想像してしまう。

「……わかった。美鷹がそれでいいのなら」

「決まりですね」

 彼女はとても綺麗に笑った。見とれそうなくらい。

「新しい関係をお祝いして、乾杯しましょう」

 こつんとグラスをあて、一口飲んでみる。今までに飲んだことのない味だ。

「父親と母親が飛び回ってるから、いろんなところで地酒を買ってくるんですよね。どうですか?」

「うまい」

「よかった。どんどん飲んでくださいね」

 つまみなしに飲める酒だった。体は大丈夫か、理性がやんわり忠告するが、理性とやらにはお帰り願おう。

 これからを考えると、理性はなくしたほうがいいのだ。

「それじゃ、シャワーしてきますね」

 美鷹がキッチンから出ていき、俺は一人残された。

 普段よりも倍の距離を移動したからか、それとも極度の緊張か。身体が重い。それでも首から上だけは忙しくしている。

 これから別れる予定の彼女と関係を持つなんて、そんなことを想像してしまったのは、本当におめでたい頭をしている。

 飲み慣れていない酒を飲んだかもしれない。本能と言われたらそれまでだ。

「仮谷先輩」

 シャワーに行ったはずの美鷹の声が聞こえる。

「大好き」

 何事か、彼女に近づこうとすると足がもつれて転ぶ。飲みすぎた覚えはない。そもそもここまで強い酒だったか。

「なに、いれた…」

 愚問か。何かの薬をいれたのだろう。グラスは備前焼で、中の液体の色かわからないタイプだった。

「おやすみなさい」 

 意識を繋ぎ止めることは、根性では無理だった。

 ――甘いものが好きだった。気恥ずかしくて買えないものも多かった。代表格がショートケーキ。男が一人で買うには少しハードルが高い。

 彼女は誕生日に作ってきてくれた。彼女好みの、甘くない生クリームで、イチゴがないからドライフルーツで。

 アレンジにアレンジを重ねたケーキは正統からは遠かった。ごめんなさいと彼女は言った。自分としてはなんでもよかった。大好きな女の子からもらえるものならとても嬉しかったから。

 美鷹には申し訳ないけれど、あのときと同じ気持ちを、今は持っていないのだ。 冷房が効きすぎている。誰か空調をどうにかしてくれ。今は夏だろう。少し涼しいだけでいいのだ。

 しかも規則的な音も聞こえてくる。これは厄介で、気になりすぎると眠れない。いらいらする。

「……さむ」

 起き上がろうとすると、頭をぶつけた。膝もたてられそうにない。こんな狭い空間なんて、カプセルホテルか。

「昨日は、美鷹と会って、家行って、それからここ泊まったんだっけ……?」

 記憶がない。

 美鷹の家に行って、酒を飲んで、それから。

 俺は、美鷹の家から出ていないのだ。

 ズボンのポケットにあるはずの携帯がない。腕時計は無事だった。

 時刻は深夜、二時。

 時間を確認してほっとする。その腕がなにかにあたった。

 500ミリの紙パック。中身はコーヒーフレッシュ。ひんやりとしている環境に狭い空間。

 ここは美鷹の家の、だ。

 出ようとして扉を押すも、開かない。

「美鷹!いるんだろ!開けろ」

 規則的に聞こえていた音がやんだ。

「開けろ!」

 ばたんという音とともに、光が入ってきた。

 そこまでまぶしくないはずなのに。

「仮谷先輩、起きたんですね」

 俺は美鷹をにらみつける。

「なんのつもりだ」

「……」

 彼女は笑顔を浮かべるばかりだ。

「みた……」

「出ないなら閉めますよ?」

  言うが早いか、彼女はすぐに扉を閉めようとする。また閉じ込められたらかなわない。俺は這いつくばって、なんとか冷蔵庫から這い出た。

「仮谷先輩、寒かったでしょう」

  キッチンの電灯が青白く光っている。そんな暗がりの空間で、俺は抱き締められた。

  美鷹の体は暖かい。髪からはシャンプーの香りがする。小さな手が背中にあたる感触と、他にも女の子特有の柔らかさが全身に訴えかける。思わず自分の手を、彼女の背中にまわしそうになる。

「……美鷹、やめろ」

「いや」

「やめろってば」

 おかしくなってしまいそうだ。

 軽く突き飛ばすと、美鷹はあっけなく尻餅をついた。ここまできてやっと、自分の間違いに気づく。

 ここにいることは危険だ。一刻も早く出なければ。

「仮谷先輩?」

 俺は彼女を無視してキッチンから出ようとした。

「嘘つき!」

 金切り声とともに、俺の体は床に叩きつけられる。痛みを感じ、同時に体に乗る重さを受け止めた。

「私のこと振らないって言ったじゃない。今日だって一日そばにいるって言ってくれたじゃない!」

 美鷹はいたって普通の体重だ。体型は小柄で細身。もう武術系スポーツから離れていることを考えると、彼女を振り払えたのだと思う。

 そうしなかったのは、悪者になりたくなかったからだ。

「美鷹、気持ちが変わるのは悪いこと?」

「悪くない、悪くないけど!私に約束してくれたじゃない。なんで約束を守ってくれないの……」

 彼女はぼろぼろ涙をこぼしはじめる。

 なんとかしてあげたいという気力も、気持ちもすでに失せている。

「それは申し訳ないと思う」

「謝罪の言葉なんていらないの!私は!……ただ前みたいな関係に戻りたいだけなの」

 叫ぶような声に、少しだけ情がわく。

 ただそれは愛情なんかじゃない。同情だ。

「美鷹、冷静になろう。俺は、美鷹とはまた先輩後輩でいたいと思ってるよ。友達でもいい」

 彼女は前髪を垂らしながら、俺の体から離れた。ふらふらと立ち上がり、また酒を手にとっている。

 いつまでも固い床の上に寝ているわけにはいかない。俺はゆっくりと立ち上がった。

「先輩」

「……ん?」

「考え直して」

 缶チューハイの空き缶を投げ捨てる軽い音が聞こえた。

「それはできない」

 今度は後ろから抱きつかれる。先程より、強く、いたいほどに。

「っ……!」

 左腕から血が出ていた。彼女の爪が食い込み、皮膚が裂けたのだ。かすかに血の臭いが漂った。

「足りない」

 血が出ている箇所に、さらに爪が食い込む。

「やめろよ!」

 なんとか美鷹を振り払い、肩で息をする。がつんという音がした。

「考えてもみろ、人を昏睡させて、そんなやつとまた付き合えると思うか?」

 彼女は答えない。

 強く振り払ったせいで、頭を打ったのだろうか。

 そっと様子を窺うと、彼女はなにかをなめていた。自分の指だ。

 恐らくは、自分の血がついた。

「こんなんじゃ、足りないよ……」

 ただ泣いていた。壊れる手前で、もしかしたらもう壊れているのかもしれなかった。

 自分の知っている、優しい美鷹ではなくなってしまう。

 俺は突っ伏したままの彼女を起こしてやり、自分にできる精一杯の表現をした。 やっぱり、彼女は小さい。

「……なんで、こういうことをしてくれるの?」

「美鷹のことが、大事だから」

「それは、彼女として?それとも後輩として?」

 腕に力を込めた。答えになると信じて。

「私は、先輩からの愛情がほしい。後輩として接してもらうんじゃなくて。そうじゃないと、意味がない」

 彼女の腕ごと抱き締めて、抵抗ができないようにしている。背後から。顔は見えない。

「先輩に、ぎゅってしてもらえて、私、嬉しいです。でも、同じくらい、悲しい……」 

 俺は彼女の体から離れた。

「やだ…やだ……やだやだやだ……」

 美鷹は子供のように駄々をこね、泣いた。美鷹の望みはわかりきっている。俺の望みも伝えてある。双方折れず、我を通せば妥協することはできないのだ。

「うわあああ!」

 胸に重たい衝撃を受けた。彼女の咆哮にではない。もっと物理的なものだ。

 例えばそう、叩き込まれた拳、彼女の右腕。遅れてやってきたのは、左腕が運んできたスタンガン。


 あまりの寒さに眠気が飛ぶ。彼女にコートを貸した時だ。あの頃の俺は、薄いチェックのシャツにモッズコートという、今思えば秋口にぴったりな装いで冬を越していた。

 10センチ違いの彼女にモッズコートを貸してやると、肩も袖もぶかぶかだった。あったかいといって、彼女は笑っていた。はにかみながら笑う姿をもっとみていたいと思っていた。

 記憶では彼女はすぐに返してくれた。記憶違いだっただろうか。


 くしゃみが出る。

 彼女はにこにこしている。

「美鷹、返して」

 雪が降ってくる。夜八時、冷たい風が吹く。

 川が凍る。霜が降りる。彼女は笑いながら駆けていく。

 手が赤く、かゆく、痛くなり、動けなくなる。

 眠くなる。

 ――ほんの少しだけ、暖かいと思った。光がまぶしい。

「仮谷先輩、起きましたか」

 冷蔵庫からの脱出機会を逃すまいと、俺は勢いよく飛び出そうとする。

 できなかった。

 足も手もガムテープで縛られていた。

「今だしますからねー」

 ずるずると荷物よろしく引きずられ、風呂場に転がされた。

 服の上からシャワーをかけられる。

 水責めかと思ったが、かけられた水は適温だ。

「やり直そ?やり直そ?」

 俺は黙って首で合図する。彼女は唇を歪めると水を止め、シャワーヘッドを乱暴に床に叩きつけた。二回バウンドする。

「ふっふふっふーふふふすふーふふふー」

 彼女はまた俺をひきずっていく。

「ふっふふっはーふっひふっはーふなふやーらー」

 床には水のあとが残る。ダイニング。飲食店で使われていそうな業務用の鍋があった。なかのえきたいはふっとうしている。

「みゃーにやーかやー」

 かのじょはコンソメをなかにいれ、りょうりどうぐをとりだした。包丁を二本、といでいる。そして、かのじょはこちらに向き直り、一本を肩のあたりにさした。上におおいかぶさってくる。なんとか肉ははずしたが、服が床に留められている。はってにげることはできない。

「仮谷先輩」

 青白い蛍光灯に照らされ、美鷹は笑った。頬に一筋、なにか流れていた。

「おなかがすいた」

 包丁が肉をきり、血が流れた。

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