尾行はチョコレートの味

シキ

第1話 尾行はチョコレートの味

 梅雨が終わると、地下に充満していた湿気はあっと言う間になくなった。


 人々は待ちわびていたかのように街へと繰り出す。雨傘は日傘へと代わり、長袖の上着を持ち歩く人なんて一人もいない。強烈な太陽の日差しを避けるべく、少しでも涼しい場所へと、例えば駅構内の地下広場は多くの人が集まる。

 一際賑わうのは、地下鉄の改札からすぐの一角だ。柱の周りには簡易的な椅子が作られ、天気や最新のオリコンが流れる大きなモニターもある。待ち合わせにちょうどよく、多くの人が休憩したり、恋人を待ち遠しそうにしていた。わたしも学生の頃はよく友人と待ち合わせたものだ。


 もっとも、社会人となった今は、少し違う使い方をしているけれど。


 わたしは今しがた椅子に座ったスーツの男性に狙いを定め、帽子を深く被り直した。帽子はわたしのお気に入りで、日よけにもなるし視線を遮るためにもある。視線というものは本当に不思議なもので、じっと見ていると見られている方はこちらに気づくことがある。その時さっと視線を隠せるよう、この帽子はとても重要なものだ。

 スーツを着ていた男性は、椅子の上で鞄の中を確認しているようだ。見た目から、サラリーマンというよりかは就活生といった感じだ。スーツが着慣れていない感じがするし、見た目も若く見える。そして今日は土曜日ということから、今から面接にでも行くんだろうという予測をわたしは立てた。

 男性は鞄を閉め、人混みの中へと歩きだす。そしてわたしはあくまでも自然に、その後を追う。今日もちょっとした尾行の始まりだ。


 駅の地下歩道は広く、増築に増築を重ねて複雑になっている。まるで迷路のようだけど、子供の時から慣れ親しんだわたしにとってはすでに庭のようなものだ。男性はあまり地下を歩いたことがないようで、駅地下のパンフレットに載っている地図を見ながらゆっくりと進むものだから、後をつけるのはとても簡単だった。

 男性は、その途中でパン屋さんへ入った。わたしもちょうどお腹が空いていたところだし、お店に入ってみる。男性は迷いなく、小さなカツが入ったカレーパンと、アンパンをお盆に載せ、レジへ向かった。カツは験担ぎでもしているのだろうか?

 わたしも遅れないようにパンを決める。今はダイエット中だからパンはあんまり良くないんだけど……とりあえず野菜乗ってるパンにしておこうか。そう思って載せたのは、アスパラとベーコン、そしてチーズが入ったカルツォーネだった。きっと同僚が見たら突っ込まれてるなこれ。

 会計を終え、再び男性の後を付ける。だんだんと店が少なくなり、歩く人も減っていった。こっちはほとんど企業ビルが立ち並ぶ区画で、地下からもビル内に直接で行けるようになっている。きっと男性もそのどれかに入るんだろう、と思っていたらすぐにその通りになった。一つのドアの前で、入念に携帯とパンフレットを見比べ、男性はビルの中へと消えていく。


 さすがにビル内まで尾行するわけにはいかない。わたしは近くに備えてあったベンチに座り、カルツォーネを口にする。そして心の中で、誰とも知らない彼の事を応援した。




 知らない人の後をつけるのは、楽しい。


 それは今まで話すことも、これから面と向かって会うこともない人の人生の断片を、少しだけ覗いた気分になれる。もともと、趣味がなくてなんとなく始めてみたことだったけど、今となっては暇な休日には尾行をするのが習慣となっていた。


 次の週末、わたしはまた改札前広場で獲物を待っていた……別に友達がいないとかじゃない。今日がたまたま暇なだけ。

 心の中で自分に弁解をしていると、ふと既視感のある背中を見えた。わたしはその後姿を目で追う。改札隣の小さな売店で飲み物を買う男性は、店員に小さく頭を下げ、ビニール袋を片手に振り返った。わたしはその見知った顔に、瞬時に帽子を深くかぶる。


(なんだっけ……田淵くん? それとも田口くん……とにかく田なんとかくん)


 それは今年会社に入ってきた新人であった。わたしとはあんまり関係がない、本当に必要なことしか話したことのない人でも、顔だけ覚えていた。一部女子社員の中では顔が可愛いと若干の人気があるようだけど、わたしには女々しそうだな、という印象しかなかった。


 田口くん(仮称)が穿いている赤いスニーカーは、そのままわたしの前を通り過ぎる。おそらく、わたしには気付いていないだろう。田口くんだって一月に数回しか面と向かわない相手を覚えているはずがない。

 だから、なのかはわからないけど、わたしの足はふらりと動いた。いつもみたいに全くの他人ではなく、少しだけ知っている。そう、顔と名前だけ知っていて、他のプライベートは知らない、距離が近い他人。そんな田口くんの休日が、少しだけ気になった。人混みの中に入っていく赤いスニーカー。それは他のどんな靴よりも目立って見えて、わたしをまるで誘っているかのようにさえ見えた。


 なるべく遠くから、田口くんの後をつける。今までのわたしの尾行経験から言うと、田口くんはおそらく、明確な目的があって歩いている。きょろきょろと視線を動かしたり、歩くスピードに緩急がある人はただなんとなく街に出向いてきた人が多い。それに比べて、田口くんはすたすたと、広い歩幅で人を追い越しながら歩く。わたしが付いていくのが少し大変なくらいなスピードで。

 田口くんも地下道を知っている方らしく、迷うこともそうした仕草をすることもなかった。きっとこの辺に住んでいる人なんだろう。わたしと一緒の職場だから、この駅を利用する確率は高いんだろうけど、わたしの中の田口くんに対する評価がほんの少し上がった。

 やがて田口くんは写真屋さんの角を曲がっていった。その先は百貨店の地下入り口になっていて、焼き菓子やケーキが並ぶ、お腹が空いている時間には絶対に行ってはいけない場所だ。甘いものへの誘惑は仕事を始めてから増したような気がして、わたしも仕事帰りに時々寄ることがあった。


 同じように写真屋さんの角を進む。だけど、目の前の光景を見てすぐに引き返した。


 それは、百貨店への地下入り口を飛び出るほどの行列だった。改めて角から覗いてみると、行列最後尾と書かれたプラカードを持って、店員が最後尾で声を張り上げている。そして、なんと田口くんもその行列の中にいた。

 行列の理由はわたしにも分かっていた。日本初上陸となるチョコレート、その販売がちょうど正午から行われる予定と、いつかのワイドショーで見た記憶がある。なんでも女性に人気で、上品な滑らかさが特徴……とかなんとか。前評判に正しく、その行列も女性が多く、男性がいたとしても大抵パートナーと一緒に並んでいた。その中で真っ直ぐと、黙って前を見ている田口くんは、正直浮いている感じがした。わたしは会社での作業着姿の田口くんしか見たことはないけど、もしかしたらその赤いスニーカーもめいっぱいお洒落をしたうちの一つなのではないかとも想像した。


 行列はあっという間に伸びていく。わたしも列に巻き込まれないよう、来た道を引き返すことにした。今日の尾行は終了。あんまり続けていてもバレる可能性が高まるだけだ……本当は、田口くんの秘密を覗き見たようで、罪悪感が出てきただけなんだけど。


 それにしても、田口くんはどうしてあんな行列に並んでいたんだろう。


 会社の同僚、留美からの話だと、田口くんに付き合っている相手はいないと聞いた。恋愛話を主食にして生きているような同僚だから、田口くんに少しでもそういう話があったら、噂はすぐに会社に広まるはず。

 でなければ、田口くん自身が甘党とか。最近はスイーツ男子というのも結構な数いるらしいし、その可能性が一番高そうだ。少し可愛い感じの田口くんが、ちょっとお洒落なカフェで、チョコレートパフェに舌鼓をうつ……うん、それはそれで意外と違和感ないかも。


 とりあえず、今日田口くんを見かけたのは秘密にしておこう。きっと、そんなに知らない会社の人に、自分の噂を流されるのは間違いなくいい気分ではないはずだ。というかわたしの尾行趣味も明かされてしまう危険もあるし、絶対話さないようにしなきゃ。


 わたしはそう固く決意をして、人混みの中を歩いていった。




「そういえば、土曜日に田口くん見てさ」

「田口? ……あぁ、倉庫番の」


 月曜日、お昼時間を知らせる鐘が鳴るのと同時に、わたしと留美はお弁当を手に休憩所へと向かう。休憩所といっても、小さな余り部屋に椅子と机と、誰かから寄付された小さなテレビがあるだけの部屋だ。全社員20人もいない小さな会社では、それでも十分なスペースだった。

 留美の興味なさげな反応に、田口くんが会社で何をしているかを知る。というか、田口くん(仮称)から、田口くんになったことに少し安心した。


「田口くんって倉庫番なんだ、知らなかった」

「あたし達とはあんまり会わないからね。一日倉庫で荷物運んだり、伝票の整理してるらしいよ。すぐに腰悪くしそう」


 留美が休憩室のドアを開ける。わたし達はお昼の時間になってからすぐに休憩室に向かうから、いつも一番乗りだった。


「あれ? だれか旅行でもいったんかな?」


 そんな声に、留美の肩越しにテーブルの上を見ると、箱に入ったお菓子があった。会社では、旅行のお土産は休憩室に置いておくという暗黙の了解がある。あるのだけれど、特に連休というわけでもないこの時期にお土産があることは珍しい気がした。


「ってこれ『ピエール・カルコ』のチョコじゃん、こないだ日本で一号店出したって噂の」


 続く留美の言葉に、わたしは一瞬だけ動揺を走らせる。それは、まさに田口くんが並んだチョコレートだったからだ……なんでこんなところに?


「……誰が持ってきたんだろうね」

「んー、名前は書いてないみたい。まぁいいじゃん。先に自分たちの分確保しとこ」


 どうやらメモ書きは残していなかったらしい。少し安堵する。というか、いくらブランドが同じでも、田口くんが持ってきたものとは限らないし。


「っていうか、本当は花梨が持ってきたんじゃないの?」


 そう自分を納得させる間に、留美はなぜかわたしを疑ってきた。


「わたし? なんで?」

「だって花梨言ってたじゃん。先週の火曜日……いや、水曜日だっけ? まぁいっか。テレビでやってたここのチョコさ、食べてみたーいって」


 火曜日? 水曜日? わたしは記憶を掘り起こしてみるが、毎日同じように留美と昼食を取っているシーンしか思い出せない。お弁当に入れたメニューさえ曖昧だというのに、その時にテレビで見たことなんてさっぱりだ。


「言ってたっけ?」

「言ってたよ。土曜日に限定200個で販売するってテレビでやっててさ。こんな感じのパッケージだったと思う」


 ……言ってたっけ?


 もう一度自問自答してみる。けど、その記憶を掘り起こすことは出来なかった。そしてそれよりも別の、違う可能性が頭の隅でその存在を大きくしていた。


 もし、田口くんがたまたまその時の会話を聞いていたら。もし、田口くんが買ってきた200個限定のチョコが、ここにあるならば。


「そういえば、田口くんがなんだっけ?」


 唐突に戻った話題に、わたしは耳が赤くなっていないか、今すぐに鏡を確認したい気持ちになった。

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尾行はチョコレートの味 シキ @kouki0siki53

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