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 3年生の1学期の終業式のあと、放送室に置きっ放しにしていたCDを取りに行ったのにドアには鍵がかかっていて、ゴトッという音しか鳴らなかった。さてどうしようか、なんて考えていた。そろそろ引退しないといけなかったから、夏休みが開けるとCDを取りになんていけないんだが。

 そしたらあの、部員で唯一同じ学年だった女の子が駆け寄ってきてCDを渡してくれたのだ。いわく、終業式の前日に放送室の掃除をしてくれたらしく、そのときに部員の置き忘れた私物も整理して持ち主に返していってくれていたらしい。あの子は「話があるから」なんてくすくすはにかみながら俺をプールまで連れてきた。

 太陽はあの日も燦燦と僕らを照らしていた。プールサイドに出てからあの子は話し出した。そう、確か「ねえ、ずっとプールに入れない生徒があたしだったのは、知ってた?」と。俺は曖昧な返事をした。知っていた。知っていたんだけれども、そう答えてしまうとあの陰口の集団の人間たちと一緒にされるのでないかと、そう思ったからだ。くすくす笑う彼女を太陽は燦燦と照らし、その熱で俺は心臓が高鳴るのを誤魔化した。いつも教室の隅っこにいた彼女は、そのとき、日の光を一身に受けていた。半袖から見える白い肌が、輝いて見えた。膝丈のスカートから見える、靴下を脱いだ脚に、すこし、目のやり場を失った。

 彼女は一度目線を下げて、俺からちょっと離れて、すぅっと息を吸った。ねえ、と彼女は俺を見つめた。強い風が一陣、俺と彼女の間を吹き抜けて行く。彼女の瞳が、一瞬潤んだように見えた。凪いでのち、彼女は僕から視線を逸らした。

「あたしね、ここが、人よりすこし、弱いんだって」

細い指で、とんとん、と左胸をたたく。

「だからちょっと前に手術したはずなんだけど」

言葉を飲んで、彼女は俺を見つめてくる。俺はその視線をまともに受け止めることができずに目を泳がせた。

 分からなかった。彼女が何を言いたいのか。いや、分かっていたのかもしれない。それでも俺はあの緊張を、午後の暑さと、焼きつける日の光のせいにした。彼女の後ろには純白の入道雲が空へ上っていた。空は濃く、青く、そして海も、深く、遠く、広がっていた。

 彼女は小さく息を吸い込んで、ぎこちなく微笑んでみせた。

「あなたは、幸せに生きてね」

 その言葉はあまりに予想外だった。もっと、こう、漫画の中みたいな、違う二文字を予想していた。その上、彼女は「あなたは」と言った。あなたは?じゃあ、君はどうなるっていうんだ。

 しかし、それが彼女にとって重大で、真剣に放った言葉だということは、その眼差しから見て取れた。そして、その真剣さを受け取るような、器というのだろうか、そういう物がその頃の俺には備わっていなかった。だから、頭をパンクさせた俺は、それ以外に話しがないなら帰るぞ、とあまりにそっけなく返してしまった。

 どうしてあの日「先に帰ってて」と言った彼女を本当にその言葉通りプールサイドに置き去りにしてしまったのだろうか。どうして「『あなたは』ってどういうことだよ」と聞いてあげられなかったのか。いやそもそもどういう風に接していればよかったのか。あの日一日だけでも“恋人同士”になればよかったのか。何か、もっとしてやれることはなかったのか。誰のために?彼女のため?それとも一瞬でも彼女にときめいた俺のため?

 だって、彼女は二学期を待たずに死んでしまったじゃないか。

 手術後の経過が芳しくないからって。いともあっさりとこの世から姿を消してしまったじゃないか。そして、残った俺は、今、どうしようもなく生きている。社会にもみくちゃにされて、生きてる意味を失って、ニコチンばっかり体に染み込ませて、幸せとは無縁に生きている。そう、幸せとは無縁に。

「幸せに生きるって、何だよ」

 見上げれば、あの頃と同じ入道雲がそびえている。好きって、言ってくれていたなら、俺は彼女を抱きしめていたのかな。好き、だった。少なくともあの瞬間、君に息を、心を、奪われていた。

 ああ、格好悪ぃ。そもそもこの思い出を忘れていたことがまず格好悪ぃ。さらにこの歳になっても尚、あの頃君にどう接するのが一番良かったのかが判らない。その上、未だに自分の後悔のことばかりに気を取られている。君の、あの時の「好き」が言えなかった気持ちにまるで気づいちゃいなかった。馬鹿かよ。

「幸せに、生きる」

 君なら、どう生きてたのかな。まるで、やり残した夏休みの宿題みたいじゃないか。しかしこの宿題は、質の悪いことに、きっと一晩完徹するぐらいじゃあやりきれない。少なくとも今の俺には手に負えないくらいの難問で、もしかしたら一生かかるかもしれない課題だ。

 日光が燦燦と皮膚を焼き付ける。純白に輝く入道雲が高く、大きく、そびえ立っている。見下ろすと、プールサイドの足跡は乾いて消えていた。今ここに、生身の俺が立っている。くすくす笑う声は、もう聞こえない。

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夏の宿題 折戸みおこ @mioko_cocoa

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