夏の宿題

折戸みおこ


 海の近くに、俺たちの高校はあった。夏が近くなると潮風が頬をくすぐっていた。学校の近く、海岸線沿いには工場地帯があった。さらにはグラウンドのすぐ横を貨物列車が走っていて、教室の窓を開けると電車の走行音で煩くなるから、授業中は始終窓を締め切ってクーラーを入れていた。俺たちの学校は野球部より陸上部が強かったから、夏の間は特に陸上部がグラウンドを占拠するような形で練習をしているのが渡り廊下からよく見えていた。

 俺は放送部に入っていた。クーラーの無い放送室の中は毎夏茹だるような暑さで、しかも当然昼休みに活動しなくてはいけなかったから、暑さにやられるのは俺ら.が先か放送機材が先か、なんて話をよく昼休みにしていた。夏休みになると部活動はなかったから、家でダラダラ宿題をしても、まず始業式の提出に間に合わないなんてことはなかった。俺はよく、七月の間、宿題なんてそっちのけでギターを弾いていたっけなぁ。あわよくばプロになろうと思っていたが、“あわよくば”なんて思ってるヤツにチャンスが巡ってくるほど世間は甘くなかった。

 それでもあの頃は何もかもが面倒で、それでいて何もかもが楽しかった。

 今、その高校へ10年ぶりの登校の途中だ。久々の休日の予定に母校訪問を選んだのにはそんなに大きな理由はない。ただ、「あの頃」にちょっと会いたくなっただけだ。

 煙草吸いたい。ポケットに手を伸ばした程で、自分が電車の中にいることを思い出す。就職してから吸い始めた煙草は、税率の上昇はお構いなしに消費が激しくなっていく。酒にはしらないだけましか、とも思う。仕事で何かあるたび、――例えば上司に毎日のように「お前、邪魔なんだよ、この給料泥棒」と、下げた頭を書類で殴られるたび――体の芯の方が深く深く沈み込んでいく感覚に抗おうと、煙草を入れた尻ポケットに手が伸びる。一日の労働時間は11時間。今月の残業時間は、正直、現在の時点で既に計算したくない。いつの間にか自宅は寝るためだけの場所になっていた。

 気が付いたらアラサーの仲間入りをしていたもんだから、最近は両親から結婚の催促を仄めかされる。しかし自分に、新たな家族はおろか、恋人を探す余裕があるだろうか。まるで電車の外の風景のように、俺の生きている“時間”は確実に目の前を猛スピードで流れていく。自分はその流れにもみくちゃにされて、周りの景色をただ茫然と眺めているだけだ。いつから俺はこうなってしまったんだろう。

 学校の最寄り駅で降りて、微妙に変わってしまった景色を横目に母校へ向かう。しばらく歩くと、そこには大きく膨らんだ入道雲を背負った真っ白の校舎が現れた。

 ふぅ…と息を吸って正門をくぐると、そこにはあの頃と同じ俺らの高校が、思い出が、息づいていた。ロッカールームに行くと、あの汗の匂いがむぅっと立ち込めていた。この、キラキラした匂い。何故だろう。あの頃は臭いとしか思わなかったが、少なくとも今の俺の首筋を流れる汗よりも美しいような気がする。

 どこからか、くすくすと笑い声が聞こえてきた。どこかの運動部が活動しているんだろうか。振り向いても人影は見当たらない。首を傾げては声の余韻を感じつつ、スリッパに履き替えて校舎を周ってみる。

 あの頃、校舎の2階に上がってすぐ見える1年の教室に初めて入ったときは、ああ俺ももう高校生だ、なんて思っていたような気がする。目の前の1年1組の教室の左隣には、そうだ、そうだった、放送室だ。俺の学年で放送部に入っていたのは確か俺とあと女の子が1人だけだった。あの子の名前は…なんだったか…。あまり言葉も交わさなかった。

 放送室は俺にとって居場所の一つだった。同級生はその子しかいなかったが、先輩と後輩には恵まれていたし、何より、あの部屋に行けば“自分”でいられた。いろんな話ができた。どんな音楽を聴いたとか、どんな本を読んだとか、どんなものに興味があるとか、何が好きだとか。

 職員室と1組の教室の微妙な隙間に、絶妙な存在感を醸しているその放送室の陰気なドアは、今もその陰気さをとどめたまま俺を気怠そうに眺めている。変わってないなぁ。ちょっと笑いつつドアノブに手を掛ける。ガチャリ…なんて開いてくれるわけなく、鍵が閉まったことのみを示すゴトッという音だけを響かせた。

何だろう、この開かないドアの音が頭に引っかかる。前もこんなことがあったはず。あったはずなんだが。

 燦燦と照りつける太陽の光は窓から射し込んで廊下に降り注ぎ、蝉の鳴き声と共にこの空間を満たしていく。俺はもやもやした気持ちをぶら下げたまま、体育館棟へと歩いた。また、くすくす笑う声が聞こえた。どうやら僕は暑さにやられてるな。そんなことを考えながら体育館棟の屋上までの階段を上がる。そこにはプールがある。最上階である7階までのんびり歩くと、屋上への扉があった。あの頃よりも扉の端々が錆びている気がする。さあ、今度は開くかな?ドアノブに手を掛けてゆっくり押してみる。ギギギッなんて疲れた音をたてながら扉は開いた。

 そこにはあの25mプールがあった。正門を通る前に見た入道雲が、太陽の光を反射して天高く真っ白にそびえている。その空を背景にして、工場の長い煙突が何本か伸びている。その突端からはグレーを帯びた白い煙が薄く、風にたなびきながら消えていく。工場の向こう側には、群青の海が深く、遠く広がり、どこか向こうの方で空との境界線を曖昧にぼかしている。ああ、何も変わらない。あの頃と、何も。

 靴も靴下も脱いでプールサイドに出る。足の裏を刺すような熱が襲うのを感じながら俺はプールサイドを周ってみた。そういえば、一度もプールに入らない生徒がいた。確かその子は、何か先天的な病を抱えた女の子だった。しかし体育の時間は男女で分かれて授業をしていたから、その子が本当にプールに入らなかったのかを俺は見ていない。だからこの話しも噂でしか聞いたことがない。教室の中、クラスの女子達がヒソヒソと話していたのを覚えている。

 あの頃も、今も、どうも人の噂話というのが苦手だ。その噂の内容のほとんどがあることないこと吹聴した陰口だからだ。本人がそこにいないところで、たちが悪いときはあえて本人に聞こえるところで、コソコソ、ヒソヒソと話すその声も、その密になった集団の姿も、できる限り見たくなかった。自分がその密談の輪の中に入れられるのなんてもっと嫌だった。悪口を言われている子が可哀想だ、なんていう正義感からくる理由ではなく、ただただ、人の社会の薄汚いところに直に触れているような気がしたからだ。それなのに、陰口をたたく集団から突然「なあ、そうだよな」と同意を求められると、どうしたって「ああ、俺もそう思う」と言ってしまう自分にはより一層虫唾が走った。

 いつからか、その陰口が一日のうち一番強くなる昼休みになると教室から逃げるように放送室に向かっていた。今は、上司の罵詈雑言や同僚たちの陰口の言い合いから逃れるように外回りに出ている。そこまでして自分が何に縋り付いているのか分からない。高校生だった頃は、毒のような陰口と、その毒にまともに対峙できない自分から逃げることで、安心だけは得ていた。その安心がほしくて、放送部という居場所にすがっていた。今は?ニコチンの摂取量ばかり増やして、何に縋り、何を得ているというのだろう。

 日の光はプールサイドとともに俺自身を焼いていく。いくつもの汗の粒がTシャツの下で、頭皮からうなじ、背中、そして腰へと伝っていった。ふと、プールに張られた水に目が行った。この水、冷たいだろうか。ずっと日光に照りつけられて、ずいぶん温くなっているかもしれない。どうだろう。

 スキニーをたくし上げ、片足だけ、すい、と水にくぐらせる。思いがけずその水はひいやりと冷たく、焼けて赤くなった俺の足を癒した。足を入れ替えて、もう片方の足も冷やす。しみるような感覚を覚えながら足を引き上げると、鼻の奥を塩素の匂いがぬけていった。濡れた足で歩くと、規則正しく点々と、一人分の足跡が残っていく。一人分?二人分じゃなくて?

 二人分?俺はどこでそんな光景を見たってんだ。

「あ… …」

 くすくす、くすくす。また笑い声が聞こえる。放送部の唯一の同級生。開かない放送室のドア。プールに入れない病弱の女の子。プールサイドの二人分の足跡。どうやら俺は、大切な思い出をどこかに置き去りにしていたらしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る