第6話 射界15cmから始まる戀

 記憶を取り戻す事も出来ず、さらに一か月が経過した。


 いまだにアリスは現れず、俺のアリスに対する感情はどんどん強くなっていく。


 やはり、あの時の言葉が嘘だとは思えない。

 なら、アリスが現れなくなったのにも理由があるはずなんだ。


 しかし、今の俺にはそんな事どうでもよかった。


 どうでもいいから、アリスの顔を見たい。


 もうろくな思考もすることが出来ず、記憶の事はどんどん霞んでいく。






 嫌われていてもなんでもいい。

 だから、最後に一度でもいいから、アリスと話がしたい。




 アリスと共にいたい。

 アリスとずっと、一緒にいたい。






 それ以外の事を考えられなくなった時、扉がギイッ、と音を立てて開いていた。


 なぜ開いたのか分からない。

 でも、これで外の世界に出ることが出来る。

 アリスを探しに行くことが出来る。


 俺が外に出ると、そこには何もない草原が広がっていた。


 心地よい風が肌を撫で、空は雲一つなく澄み渡っている。


 ずっと閉じ込められていた塔から、俺はようやく出ることが出来たのだ。


「思い出してしまったんだね」


 背後から聞こえた声に、俺は郷愁を感じて振り返る。

 俺が聞き間違えるはずがない。


「アリス!」


 壁にもたれかかりながら、アリスは悲しげな微笑みで俺を見つめていた。


 ようやくアリスと会えた。


 俺は思わずアリスを抱きしめようとしたが、アリスは手を突き出してそれを牽制する。


「何で……」


 やはりアリスは俺に愛想を尽かしてしまったんだろうか。


 突き出した手が、僅かな距離が俺を拒絶しているのだと感じてしまう。


「ここを出られたのなら分かるはずだ。私の身勝手と浅ましさが。全て思い出してしまったんだろう?」

「いや、思い出せてなんかいない。気が付いたら扉が開いたんだ」


 俺の言葉に少し驚きを見せたものの、すぐにアリスは悲し気な表情を浮かべる。


「そうか。だから君は変わっていないのか。でも、ここを出られたのならすぐにでも思い出す。その時、君の私に対する感情が変わるはずだ」

「どういう事……」


 そう口にした瞬間、脳に焼き切れるような痛みが走る。


 見た事もない光景、言った事もない言葉、接したこともない人間が断片的に脳裏をよぎり、情報が入り込むたびに俺は立っていられない程の苦痛を覚える。


 これは……もしかして俺の記憶?


「少し昔話をしよう。生前の、愛に囚われた哀れな人間の話だ」


 膝をつく俺を見下ろしながら、表情を変えずにアリスは語りだした。


「一目見た時、私はある男に恋心を抱いた。それなりにカッコよく、それになりに身なりも整っていて、特に特筆する点なんて見当たらない、言ってしまえば普通の男。でも、私はそんな彼に初めての恋心を抱いたんだ。あの時の胸の高まりは今でも忘れられない。その時初めて、私は一目惚れなんてものを体験したんだ」


 アリスは思い出すように、どこか遠い目をして言葉を紡ぐ。


「私は彼に近づきたいと思い、初対面にもかかわらずアタックしていた。いきなりの出来事に彼は少し動揺していたが、友達からなら、と受け入れてくれたんだ。これで彼の事をもっと知ることが出来ると喜んだ。その日は興奮で寝る事も出来ないぐらい喜んだよ」


 記憶の断片が脳裏をかすめる。


 俺も、同じような経験をした覚えがある。


 バイトで受付をしている時、可愛い女の子が突然付き合ってくださいなんて話を持ち掛けてきたんだ。

 俺は罰ゲームかなんかだと思い、それに対して適当に返事をした覚えがある。


「そのあと私は何度も彼の下へ通い、連絡先を交換することが出来た。その後は彼と遊ぶようになり、だんだんと彼の事を知ることが出来た。誰にでも優しく、突然現れた私にもちゃんと接してくれる。そんな彼に私はさらに惹かれ、どんどん好きになっていったんだ」


 初めは遊びだと思っていたが、毎日来る彼女に俺は誠意を感じた。

 罰ゲームでも遊びでもなければ、こんな熱意を持って俺の下へなんて来ないだろう。


 そう思った俺は連絡先を渡し、時折遊ぶようになったのだ。


 そして遊んでいくうちに彼女に惹かれ、俺も彼女の事を好きになっていった。


「ある時彼に告白され、私は二つ返事でそれを喜んだ。これでもっと彼といられる。これでもっと彼を知ることが出来る。私の想いに応えるため、私は彼のために何でもして、彼に尽くしてそれを現していったんだ。それを喜んでくれる事に私も喜びを感じていた。その時は、私もとても幸せを感じていたんだ」


 俺と彼女が付き合う事になると、彼女は俺の私生活に溶け込んでいった。

 料理も掃除も洗濯も、必要ない事まで全てをやってくれて、俺のする事なんて何もないぐらい、彼女は俺に尽くしてくれた。


 どこかへ出かければ必ずついてきて、彼女と離れる事などひと時もなかった。


 初めはそれが嬉しかった。


 彼女といられる事は、俺にとっても幸せだったんだ。


「でも、時が経つにつれその生活も変わっていった。私の想いは変わらなかったけど、だんだんと彼の心が離れていったんだ。私が尽くせば尽くすほど、彼は嫌な顔を見せるようになった。私はそれに気づかず、嫌われるのが嫌で今まで以上に彼に尽くした。でも、今まで一緒にいた時間がだんだんと短くなっていき、最終的には彼と過ごせる時間は失われてしまった」


 でも、俺はそれがだんだんと鬱陶しく思うようになってしまった。


 プライベートが少しもない、いつでもどこでも彼女がそこにいる。


 尽くしてくれていると分かっていても、その感情は悪感情へと変わっていき、それに俺は耐えきれなくなった。

 彼女の愛は、あの時の俺には重すぎたんだ。


 そして、俺は彼女に別れを切り出した。


「私は彼を縛り付け過ぎていたんだ。それに気が付かず、私は彼という存在を失ってしまった。何と愚かな事だろうか。私は何度も彼に復縁を求めたが、彼が首を縦に振る事はなかった。そして、もう二度と彼と共にいられないと悟った時、私はあの世界から消え去ったんだ」


 彼女に別れを告げてから、何度も何度も戻って欲しいと迫られた。


 しかし、それすら鬱陶しいと感じた俺は、連絡先を絶って彼女との繋がりを消した。

 そしてその後しばらくして、彼女の死を知ったんだ。


 アリスの話と、俺の記憶。

 そうか、俺とアリスは過去に……。


「……ここは、死んだ奴が訪れる死後の世界なんだな」


 全てを思い出した俺は、痛んでいた頭を押さえながら立ち上がった。


 俺の頭には、一人病気にもがき苦しみながら死んだ記憶がある。


 つまり、俺はもう既に死んでいるという事。


 ここは死者が集まる世界だという事だ。


「その通りだ。そして、全てを思い出したのなら、私の事も知っているはずだ」

「……ああ。全部思い出した。お前の事も、生前に何があったのかも、全て」


 それを聞いたアリスが、泣きそうな表情に笑みを浮かべる。


 その意味が、その表情に現れる感情が、今の俺には理解できる。


「君がここへ運ばれたと知った時、私は僅かな希望を持ってここへ訪れた。もしかしたら、また君と一緒にいられるかもしれない、と。そしたらどうだ。君は記憶を失い、私の事が分からなくなっていたじゃないか。その時、私は浅ましいながらも喜びを感じてしまったんだ」


 アリスの笑みは歪んでいき、それを隠すように両手で顔を覆い隠した。


 膝を落とし懺悔するかのように、嗚咽を交えながらアリスは言葉を続ける。


「私は卑劣な人間だ。何も分からない君を誑かし、自分が君といたいだけのためにここへ通い続けた。そして、君が私の事を好きだと言ってくれた時、また共にいられると歓喜したんだ。自分の事を隠して、君を騙して、私は君の感情を受け入れてしまったんだ」


 アリスから涙が零れ、ぽたぽたと地面を濡らしていく。


 感情を垂れ流すように、アリスは自分の想いを吐露し続けた。


「君が記憶を取り戻したいと言った時、私はとても怖くなった。私と一緒にいるために記憶を取り戻したいと言ってくれた事はとても嬉しかった。私の事を話せば君の記憶も戻っただろう。でもそれは、私と別れた時のことを思い出すという事だ。私はまた君と離れるのが怖くて、それを言いだすことが出来なかったんだ。だから、ずっとこのままでいいなんて事も言った。君の不自由は、私にとって君と繋がる唯一の鎖だったから」


 アリスがとても小さく見える。


 その姿はまるで子供のようで、後に起こる事を恐れているように見える。


「しかし、君は記憶を取り戻す事に前向きになった。そして、このまま私が通い続ければ、君が記憶を取り戻して離れてしまうのではないかという恐怖を感じたんだ。私はまた君を失うのが怖かった。だから私はここまで来られても、君と顔を合わせることが出来なかったんだ。身勝手だろう? 自分勝手だろう? 私は君の苦しむ声を聞きながら、君に合わせる顔がなかったんだ……」


 アリスは顔を上げ、俺に笑顔を向けようとする。


 しかし、嗚咽に塗れるアリスの表情は歪み、アリスの意思とは関係なく泣き顔を晒す。


「私は今でも君のことが好きだ。世界で一番、誰よりも君を愛している。だが、私は醜い女だ。君の事を知っていながら知らない体で近づき、君を囚われのままに独り占めしようとするような醜い女だ。そんな私が君の隣にいる価値はない。きっと、君もそう思っているだろう。だから―――っ」


 もう、それ以上聞いていられない。


 その言葉が放たれる前に、俺はアリスと唇を重ねていた。


 言葉を紡がせないよう強く押し付けながら、俺はアリスをこの身で感じていた。

 アリスは弱弱しく抵抗を見せるものの、それもすぐに収まって力が抜けていき、共にその快楽に溺れる。


 久々の人の温もり、愛する人の感触、ようやく繋がる事の出来たという喜び。


 そんな感情に名残を残しながら、俺はゆっくりと唇を離していく。


 アリスは蕩けきった表情をしながら、じっとこちらを見つめていた。


「俺が後悔をしていたのはな、お前と別れたからだったんだ」


 アリスの独白に返すように、俺も過去の後悔を話し始める。


「あの後、俺はいろんな人間と関わった。アリスは気分が悪くなるかもしれないが、本当にいろいろな人間と付き合ったりもしたんだ。でも、どれだけ多くの人と付き合っても、アリスを超えるほどの気持ちを抱くことが出来なかった。俺は、アリスじゃないと満足できなくなってたんだ」


 人間というのは利己的な存在だ。


 どれだけ求めようと、アリスのように無条件で愛してくれる人間はいなかった。


 こちらにその気があったとしても、相手はそれを受け入れない。

 受け入れたとしてもそれは形だけで、本当の意味でこちらを見ていない。


 本当の愛を知っていたから、俺はそれを感じ取れてしまった。


「アリスは本当の意味で俺を見てくれていた。俺は未熟で、その事に気が付けていなかったんだ。そしてそれに気が付いた時、アリスはいなくなってしまっていた」


 そう。

 気づいた時には、もう遅かった。


「俺のせいでアリスが命を絶ったと知った時、俺は酷い罪悪感を覚えた。俺があの時別れなければ、アリスが死ぬ事もなかったんだから。俺の勝手でアリスを見捨てて、俺の勝手でアリスを殺した。その事を俺は一生後悔して、ただ一人、苦しみながら死んでいったんだ」


 俺が犯した罪、それはアリスを殺してしまった事。


 直接的ではないにしろ、俺がアリスを殺してしまった事に変わりはない。


 その事を後悔して、俺はこの場所に縛られていたのだ。


「アリスが醜いなんてことはない。醜いのはむしろ俺の方だ。アリスの事を捨てておきながら、俺はまたアリスに縋ろうとしている。俺の方が、アリスと一緒にいる価値なんて……」

「そんな事ない!」


 アリスが大きな声を上げ、強く俺の体を抱きしめた。


 暖かなアリスの温もり。


 懐かしいその温もりに罪悪感を覚えるが、アリスはそれを否定するように声を上げる。


「私が死んだのは私の勝手だ! 別れた時の感情はその時君がそう感じていたからだ! 何も間違ってない、間違っていたのは私だったんだ! 君が気に病む必要なんてない!」

「でも、俺がアリスを殺してしまった。そうなるまで、俺はアリスを苦しませてしまったんだ。それは許される事じゃない」

「私が許す。あの時の私は君と同じで未熟だった。君を失った悲しみに耐え切れず、私は君にいらない後悔を与えてしまった。それに、ここでも私は君を苦しませたんだ。君はそれを許してくれるか……?」

「許さないわけがない。俺はアリスのすべてを受け入れる。もう二度と、あんな思いはしたくない」


 俺達は互いに後悔し、互いの過去を許し合った。


 俺はアリスを体から離し、じっとその目を見つめる。


 俺は自分の勝手でアリスを捨てた酷い人間だ。

 そんな人間をアリスは許し、今でも好きだと言ってくれている。

 今までの人間とは違い、俺の事だけを見て、そう言ってくれた。


 紺碧の美しい瞳はあの時から変わらず、今も俺の姿を映している。


「ずっと、一緒にいてくれるか?」


 身勝手な事だという事は分かっている。

 見捨てた俺に、そんな資格がないという事も。


 それでも、俺はアリスと共にいたい。

 アリスが許してくれるのなら、俺はずっとアリスと共にいたかった。


「っ……うん! うん! もちろんだイアン!」


 満面の笑みを浮かべたアリスが抱き着き、言葉と身体で俺を受け入れた事を分からせてくれる。

 俺がずっと求め続けていたアリスの愛を、俺は感じる事が出来ていた。


 アリスが顔を上げたのを見て、俺は再び唇を触れ合わす。


 先ほどとは違い、軽く触れ合う軽いもの。


 しかし、確かにそこには、愛を感じる事が出来た。


「もう離したりしない。絶対に」


 俺はアリスを強く抱き返す。


 もう二度と、同じ過ちを繰り返さないために。


 大切なものを失わないために。


「イアンはこの世界の事を知らないだろう? 私が教えてあげるよ。この世界の事を」


 アリスは手を繋ぎ、温かな笑みを浮かべてそう告げる。

 そこに先ほどまでの悲壮感はない。


 これから起こる事、これから過ごす時間に、期待を隠せないような笑みを浮かべていた。


「ああ。ゆっくりでいい。この世界の事を教えてくれ」


 俺はアリスの手を固く握り、共に歩き出した。


 どんな世界なのかは分からない。

 でも、アリスと一緒なら、どんな世界でも楽しいものになるだろう。


 俺達はこの世界を歩み始める。


 射界15cmから始まった、永遠の恋を始めるために。

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射界15cmから始まる戀 星伽恋 @hotogi_ren

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