大学4年生

 長く続いた曇り空は面影もなく、久しぶりの冬らしい晴天だった。懐かしいベンチからの景色はキャンパス内の改装に伴って大きく様変わりし、お祭りのような賑わいと熱気がすぐそこにあった。がやがやと騒がしいのに、今日はそれが少し物悲しく感じられるのは別れの季節が迫っているからだろうか。

 人影がぴたりと足を止めたので、僕はそちらを見やった。一瞬、立ち尽くすように足を止め、それから小さく息を吐いてまた歩き出した。こつりこつりと足を鳴らす音に重なるように心臓が鳴る。それを抑えようと君の顔をまっすぐに見た。やがて、君は困ったように微笑んだ。


「卒論終わったんだって? おめでとう」


「ああ、そっちはとっくに終わってたんだって?」


「まぁ、ね」


 僕はたぶんぎこちなく笑っていたことだろう。君はおずおずと隣に座った。ベンチのすみとすみ、話をするには奇妙な距離だったろう。


「ここも変わったね」


 君はそこからの眺めに目を細めた。遠くの人だかりから仲間内でふざけあうような声が響いた。その盛り上がりの中からセンチメンタルな気分がポロリポロリと零れ落ちてくる音が聞こえたような気がした。


「場所変える?」


 君は少しリラックスしたような声だった。


「いや、ここでいいよ」


「それもそうね」


「君のそういう人を試すようなところは少し嫌いだった。同調圧力みたいなのも」


「……は?」


 空気が変わった。君は一瞬の間をおいて眉にしわを寄せた。イライラしかけているときの表情だ。


「知ってた?」


 僕は君の不機嫌につられて声のトーンが低くならないように努めてそう言った。


「……まぁ、知ってた」


 君は抜きかけた矛先を収めて、代わりに荒い息を吐いた。


「でも、私はあなたの少し嫌いなところ十は言える」


「それはお互い様でしょう」


「そういう優位に立つように澄ました態度をとるところも少し気に食わないの、知ってた?」


「まぁ、ね」


「……私たちのダメなところってさ。きっとそういうところが許せないところじゃないかな」


 周囲から人波が引いていく。午後からの講義が始まろうとしているのだ。


「いいところだってたくさん知ってるのに」


 君は声を潜めた。君のそういう照れ屋なところは確かに好きだった。他にもいっぱい好きなところは知っていた。知っていたのだ。


「……僕はね、バカみたいだけど、君のことを運命の人だって思ってた」


 君の顔を見ることはできなかった。


「それが、ダメだったのかもね」


 すぐ隣にとすんと何かが置かれた。それは君の鞄だった。そこから眩しいほど明るい水色のノートが取り出された。


「日記つけてるでしょう? 出して」


 僕は戸惑いながらも言われるままに灰色のノートを取り出した。大学に入って君と再会を果たしてから書き始めたノートだった。君との苦い青春が弾けんばかりに詰まったノートだった。


「私ね、大学であなたと再会したあの日からこの日記をつけてるの、知らなかったでしょう」


 にやりと君は得意げに笑った。僕は素直に驚いて、きっと間抜けな顔をしていたことだろう。


「私は知ってた。ねぇ、今から最後の日記を書こう、お互いに」


「それをどうするの? 一緒に川にでも流す、とか?」


 無言のままノートで思いっきり頭を叩かれた。なんだかこういう風にストレートに怒りをぶつけられるのも懐かしい気がして、不満げな顔をしてはみたけどもそれほど嫌じゃない自分がいた。


「書いたらね、お互いに交換する。交換して、私はあなたの臆病なところも恥ずかしいところも惨めなところも全部読む。だからあなたも、私の嫌なところを、少しだけ読んで」


「……うん、わかった」


 なぜか妙に素直な声が出た。それからは互いにベンチの反対の端の方を向いて背中を向けあってお互いの日記を書いた。その日、君と会うまでどんなことを考えていたか、君との話の中で何を思ったかを素直に書いた。こんなに心を躍らせながら日記をつけることはここ最近なくなっていた。そのことにすら今の今まで気づいていなかった。

 そして、悩みに悩んで、最後にこう記した。


 ――君は僕の運命の人ではなかったのかもしれない。それでも、15センチ先に君がいた日々は、僕の青春でした。


 書き終えた僕が振り返ると、ちょうど君もこちらに向き直ったところだった。視線が交わって、気恥ずかしげに少しうつむいた。そして君と僕は寂しそうに視線を交わして、日記を互いに手渡した。


「……お別れだね」


「……うん。じゃあ、元気でね」


「うん」


 たったそれだけの言葉を残して僕らの距離はあっさりと広がって、君はあっという間に見えなくなった。僕はしばらく脱力して座り込んでいたが、講義終わりの人だかりが出てくるとそれに紛れるように立ち去った。

 そうして帰るとしばらく何もする気になれず、布団に転がったが、そうしてそこにいるだけで身体のどこかがじりじりと削られる続けるような絶え間ない痛みに襲われて立ち上がった。それからせわしなく部屋の中をぐるぐると歩き回っても痛みは軽減されなかった。そうして諦めたように、ようやく僕は君の日記を開いた。それを一晩かけて読んだ。最後の一文はこう締めくくられていた。


 ――それでも私は、あなたを運命の人だと思っています。


 机の上にほったらかしにしていた水色の定規が朝日を受けて輝いていた。


 それから一月後の卒業式の日。あの日以来の再会を君と約束していた。君はどんな顔をしてやってくるだろう。少し怒ったような顔で照れながらも、笑ってくれるだろうか。もし……もしそうだったなら、僕はこの定規を君に突きつけて、こう言うのだ。


「15センチ。その距離からまた、僕と始めませんか」

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