大学1年生

 ――青春なんてものは、今がその瞬間だとわかることは少ない。けれども過去を振り返ると確かにそれらしきものの残骸はある。過去に見つけるものだから、青春は儚い光を放つのかもしれない。


 そこまで書いたところで僕は表紙を閉じた。最近日記をつけることは気の重い作業となっていた。今日は久しぶりに興がのって変わったことを書いてはみたが、それでも長くは続かなかった。灰色の表紙が憂鬱そうに机の上に置いたままになっていた。

 その灰色のノートに日記をつけ始めて半年が経った。きっかけは君との再会だった。


 大学生になってすっかり垢抜けた君のことを僕は一瞬誰なのかわからなかった。けれども、君はあっという間に僕のことを見つけてくれた。再会したのはまだ桜も散りきらない4月のことで、学食裏の小さな通りには慎ましく桜が咲いていた。じわじわと世界を温めていく陽光のもと、ひんやりと冷たい石のベンチに腰かけて僕らはぎこちなく会話を始めた。ショックだった。君と離れてから4年間、思い続けてきた君とやっと逢えたというのに、話したいことが山のようにあると思っていたはずなのに、いざその機会がやってきても会話は酷く覚束なかった。僕ら話す言葉が知らぬ間にすべて別の言語に変えられてしまったのではないかというくらい、言葉が出なかった。それは君も同じであるようだった。言葉は出ないのに、気持ちは伝わらないのに、お互いの動揺ばかりが伝播していた。いつしか惨めな気持ちになりたくなくて、会話を続けている自分に気が付いた。そうして会話を続ければ続けるほど惨めさの沼に沈み込んでいった。

 いつしか周囲の人通りも減り、沈黙の時間の方が長いくらいになっていた。


「……帰ろうか」


 どちらともなくそう言って、連絡先だけ交換すると僕らは別れた。

 自室に帰るとスイッチを切るようにベッドに沈み込んだ。僕らが投げかけあったそれほど多くない言葉を何度も反芻する。胸は酷く詰まって、そのくせ身体を流れる血液は沸き立っていた。悶々と過ごす夜は長かったが、いつしか眠りに落ちていた。夢を見た。どんな夢だかすぐに忘れてしまったが、ろくでもない夢に違いないと僕は思った。嫌な汗が額にはりつくのをぬぐいながら目を覚ましたから。

 カーテンのあいたままの夜空にはたくさんの星が美しく瞬いているのが見えた。大学進学のため故郷からこの街に移り住んで、こんなに美しい夜星を見たのは初めてかもしれなかった。星の名前などろくに知りもしなかったが、故郷の町ではよく夜空を見上げていた気がする。


「……ああ」


 きれいだ。そう思ったとき、頬を熱いものが伝った。こんな風に涙を流すのは何年ぶりだろう。関係のないことを考えようとすればするほど止まらなかった。なんでこんなところでこうしているのかわからないくらい泣いて、惨めさが身体に染みるくらいになってやっと枯れた。ガラガラになった喉を癒そうと水を口にすると、冷え込んだ室内の空気が身体を撫でた。窓の外では、けだるい朝の気配が近づいているようだった。

 翌朝、見かけた君は酷い顔をしていた。指摘すると、お互い様、と薄く笑った。僕も曖昧に笑顔を浮かべてみせた。

 授業の終わりにまた会って話をすることになった。キャンパス内のざわめきを遠くに聞きながら、僕らはぎこちない空気の中、会話をした。主に、二人が離れていた時間のことを。他人である僕らが別々に過ごした時間を語った。なぜ、人は他人に己の過去を語るのだろう。自分という人間が根本的に一人であるという事実を否定したいからだろうか。

 二人の離れ離れの時間を埋めようとするはずの行為が、だんだんと僕らの間にある膜のようなものを浮き彫りにしていくのを感じていた。君の姿は確かにそこにある。手が届くほど近いのに、二人の間には透明な膜が邪魔をしてお互いの心が触れ合うことはない。君の語る君の時間の話は、僕には絶望的に遠い世界の出来事のように感じられた。君の喜びは、君の悲しみは、君の経験は、どうしようもなく君だけのものであって、僕とは関係ないものだということを思い知らされたようで悲しかった。この悲しみはなんの悲しみだろう。根源的に人が孤独であることに対する悲しみだろうだろうか。それとも君という存在が僕から遠いところに行ってしまったことに対する悲しみだろうか。どちらにせよ、この悲しみは僕だけの悲しみなのだろう。そのことが胸を締めつけた。


「待ってよ」


 帰り際、少し後ろを歩く君が急に呼びかけた。振り向くと、君は少し怒ったような顔をしていた。かつての君を思わせるその顔がずんずんと近づいてくる。


「目を瞑って。すこし、じっとしていて」


 お願いだから。君の声はすがるように震えていた。僕が言われた通りにすると、唇に柔らかいものが触れた。目を開ける頃には君はもう背中を向けていた。その後ろ姿が酷く小さく見えた。


「言ったでしょ? もう、あの定規は必要ないって」


 君の声はかすれて、やがて足元に小さな水滴が落ちた。ポタリポタリとまた何滴か落ちて、静かに大地を濡らした。


 そんな風に僕らの浅葱色の青春は始まった。

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