第2話 完全なる美しさ
いくつかの机が簡易的に間仕切られただけの空間は、まさに学校の自習室と呼ぶのに相応しいと思った。
静かに足を踏み入れると、わたしの予感は確信へと変わる。
短いが漆のように重たくひかる黒髪と、今にも溶けそうな白い肌、そしてセーラー服越しにも分かるほど華奢な体。
わたしは吸い寄せられるように、一歩ずつ足を進めた。
眠っているのだろうか。
ちょうど校庭が見渡せる窓際の席で、教科書なども広げずに俯いている。
瞬間、長い睫毛を揺らして、その少女はゆっくりと顔をあげた。
—――綺麗だ、と思った。
とても暗い色をした彼女の目は、どこまでも続く真っ暗な穴がふたつ並んでいるようで、不気味ですらあった。
それなのにわたしは、心底綺麗だと思ったのだ。
「どうしてこんなところに」
ふいに発せられたわたしの声で、彼女がこちらを振り向く。
妙な沈黙が重くのしかかった。
わたしの背中に冷たい汗が伝ったところで、彼女は静かに立ち上がり、小さく伸びをすると、窓のほうへと顔を向けた。
そして、吐き捨てるように言った。
「両親がいないから」
心臓を、下からつかれたと思った。
「入学式からひとりで帰宅なんて惨めでしょ。だからここへ逃げてきたの。でも、もう帰ろうと思う」
低く真っすぐな声でそう捲し立てると、彼女は先ほどまで座っていた椅子を丁寧に戻した。
彼女のまだ鮮やかな上履きの赤と、わたしの上履きの赤とが交互に目に入る。
彼女もわたしと同じ、新入生のひとりだったのだ。
「あの」
再び視線がぶつかる。
「良かったら、連絡先交換しませんか」
そう言うと、一瞬だけ、彼女の目に困惑の色が見えた気がした。
けれどそれは、すぐにまた彼女の陰に隠れてしまった。
「ごめん、悪いけどわたし、携帯持ってないの」
それだけ言うと、彼女はわたしのすぐ横を通り、そのまま自習室を後にした。
ひとり取り残された空間で、わたしは四方八方から押しつぶされそうな思いだった。
彼女はこの嫌な雨音が響くなか、この空間で、ひとりで何を思っていたのだろう。
その浅い眠りのなかで、一体どんな夢を見ていたのだろうか。
たまらなくなって、わたしは勢いよく廊下へ飛び出した。
そしてまだ見える彼女の背中にむかって叫んだ。
「わたし、サクラっていうの」
彼女が振り返る。
「わたし、明日もここにくるから、だから――」
上手く言葉が出てこない。
だって本当はもっと、わたしもきっと、あなたと同じだということを伝えたかったのだ。
けれどそれは叶わなかった。それで良かった。
「—――わたしはツバキ。また明日もここに来る」
そう言って再び歩き始めた彼女が、一瞬、小さく笑ったような気がした。
世界の回る速さが、十分の一ほどになったようだった。
わたしにはもう、雨の音など聞こえていなかった。
彼女の――ツバキの声だけが、わたしのなかで何度も何度もこだまして、それだけでいっぱいに満たされていた。
・
帰宅してすぐ、わたしは机の引き出しから中学の使いかけのノートを取り出した。
空いているページを見つけ、柄の剥げたシャーペンを手にする。
何か大きな衝動に駆られていた。
さっき見た光景を、とにかく鮮明に覚えているうちに、どこかに描き留めたかったのだ。
描いては消して、描いては消して、これを繰り返しているうちに、時計の針は午後五時半を示していた。
実際に見たものに比べて絵はずいぶん不格好なものになったが、初めて描いたにしては上出来だと思った。
なによりわたしは大きなもどかしさと同時に、小さな達成感も感じていた。
わたしはその絵を再びノートに挟み、じきに返ってくる姉のことを想像して、すぐに手に取れる居間のテーブルに置いた。
雨もとうに止み、静かな夜が訪れる。
わたしはテレビをつけた。
バラエティ番組ではお笑い芸人や人気俳優が何やら楽しげに話しており、
ニュース番組では連日、児童虐待に関する痛ましい現状が報道されている。
わたしはそれらをひたすら眺めた。
何も考えず、ただ眺めているだけで余計なことを考えなくて済むその時間が、わたしは割かし好きだったのかもしれない。
テレビを消し、静かな空間に戻ると、時刻は午後八時半時を過ぎていた。
昼から何も食べていなかったけれど、不思議とお腹は空いていなかったし、食べる気にもなれなかった。
わたしはお風呂に入り、髪を乾かし、歯磨きをして寝床に入った。
時刻は午後十時。
早く帰るからね、と言った姉の声が頭を過る。
とうとう姉は帰ってこなかった。
いつもの事だ。
描いた絵とオムライスの事を思い出して、ふいに天井がぼやけてきた。
温かいものがわたしの目の横を伝って、耳まで濡らす。
こうして遅くまで働いてくれる姉に不満はない。
――けれど。
「……苦しい」
無音の部屋で、わたしは初めてわたしの声を聞いた。
傷だらけのツバキはそれでも泣かない 佐倉こずえ @Kozue_Sakura
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