傷だらけのツバキはそれでも泣かない
佐倉こずえ
第1話 ごまかし
大粒の雨に殺されていく花片を眺めているとわたしまで一緒に死んでしまうような心地がして、鈍色のカーテンの隙間十五センチから目を逸らさずにはいられなかった。
「こっちのサクラはすぐ散らないといいね」
「うるさい」
くつくつと笑いながら、姉が私の後ろ髪を溶かす。
いつもならすぐに沈黙が訪れるのだが、今日は雨音がふたりの空間を繋いでくれている。
「今日、入学式行けなくてごめんね」
「ううん」
「今度こそ行けると思ったんだけどなあ」
「うん」
時折発せられる姉の言葉になんとなく相槌を打ちながら、わたしは再びカーテンのほうへ目を向けた。
そういえば中学のときも、こんなふうな雨だっただろうか。
赤い傘に顔を隠しながら、ひとり正門をくぐったことを思い出す。
「髪、できたよ」
「ありがと」
「そうだ、サクラ、今日の夜ご飯は何がいい?」
不自然に姉の声が高まった。
「せっかく今日から高校生なんだし、記念に何か美味しいもの食べようよ」
「美味しいもの?」
「そう。なんでもいいよ」
そう言ってコートの袖に腕を通す姉を窓ガラス越しに捉える。
「じゃあ、オムライス」
その言葉に、姉が拍子抜けした声で雨音を切った。
大きな目をさらに見開いている。
姉がそういう答えを求めていなかったことは、本当はわかっていた。
ただ、とっさに口をついて出てしまったのだ。
「オムライスなんていつでも作ってあげるのに。いいの?そんなので」
「うん。いいの、そんなので」
コートの片方だけを羽織ったままわたしを見つめる姉だったが、すぐに何か合点がいったようで、切なく笑った。
「じゃあ、今日はなるべく早く帰るからね」
「…うん」
姉を見送り、振り返ると、ちょうどそこにある鏡の中の自分と目が合った。
腰まで伸びたまっすぐな黒髪が、耳の横まで綺麗に編み込まれて、そのまま後ろに流されている。
十五歳離れた姉は、両親が亡くなってからずっとわたしの母親だった。
まだ幼かったわたしをひとりで育てるために、大学進学を諦め、卒業直後の春から昼夜問わず働いてきたらしい。
そのせいでわたしの入学式はおろか、保護者会や授業参観にもきちんと来れたことがない。
この編み込みとオムライスは、今日もひとりで正門をくぐるわたしへのせめてもの罪滅ぼしなのだろう。
けれどわたしは、こんなことをされてもちっとも嬉しくなかった。
むしろ姉がわたしに優しくするたびに、わたしはただ自分の不甲斐なさを痛感するだけだった。
そうして勝手に苦しくなって、姉のせっかくの優しさに、オムライスなどとつまらない返事を吐くようになってしまったのだ。
・
入学式を終えると、記念撮影のための新入生の列と、在校生による部活動の勧誘とで、玄関はすでに混雑していた。
その間をひとりで抜けて帰るのはなんだか惨めだと思って、わたしは誰もいない校舎の奥へと踵を旋らせた。
姉の母校でもある女子高なのだが、三棟に分かれた校舎のうち、最も正面玄関に近い一棟は、つい先日改装工事を終えたばかりらしい。
生徒からは新館と呼ばれていて、真新しい事務室や職員室、図書室などが完備されている。
一方残りの棟はまとめて旧館と呼ばれていて、二棟は普通科、三棟は特進科専用の棟になっていた。
三棟へは、二棟の二階にある渡り廊下からしか行けないらしく、それから一階や三階へ行けば音楽室や美術室があるというが、雨の音だけが嫌に響く廊下にひとりでいるのが次第に怖くなってきて、わたしはそろそろ引き返そうかと考えていた。
そのときひとつだけ、明かりのついた教室があることに気が付いた。
「自習室…」
どうしてか心臓がドキリと音をたてた。
靴音を鳴らしながら教室へ近づいてみるが反応はなく、さらに扉の窓は磨りガラスになっていて、中の様子を見ることも出来ない。
次第に心臓の音が脳の中心にまで響いてくるのを感じる。
これは何かの予感だろうか。
わたしは意を決して、その扉に手をかけた。
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