第5話 スイセン
チャイムと同時に大きな欠伸が出た。
昇降口を出て、空を見上げる。雲間から射す晩冬の日差しには、ついさっき――テスト中はただ眩しくて腹が立ったものだが、今は景色がきらめいて美しいとさえ思えた。校内に植栽された木は葉を落としたままだが、その根元からは緑色が覗いていた。
――あれ、何の葉っぱだったっけ。
開放感も手伝って悪戯をしてみたくなった僕は、そのうちの一つだけをそっと咲かせてみた。まだ無彩色の風景の中に淡い黄色の花が一輪、揺れる。六枚の花弁の中心はほんのりと朱く、まるでそこだけ血が通っているようだ。
それは水仙だった。清楚な見かけに似合わない強い芳香が、僕の鼻をくすぐる。長い冬ですっかり忘れてしまっていたが、春の香りというのはこんな感じだっただろうか。
――僕、テストからどうにか遠ざかろうとしてるのかな?
逃避している自分に気付き、浅いため息をひとつ吐く。結果はどうあれ、そしてどちらの意味であれ『終わった』のだ。これが二年生なら来年の受験が頭をよぎるところだろうけれど、一年生の僕にとってはまだ先の話。残り少ない三学期をやり過ごせば春休みだ。
と、いうことで。
早く帰ろう。僕にできる最大限の贅沢をしよう。たとえば、惰眠を貪るとか。
どうでもいい決意と共に前方に注意を向けたところで、僕は見覚えのあるグレーのコートに気付いた。一人だけで歩く背中。肩よりも少し下まで伸びた髪の毛は生まれながらの黒い色で、茶髪が多い女子の群れの中で逆に目立つ。
「寺内さん」
早足で寄って声を掛けると、寺内さんは振り返って笑った。その笑顔で隣にいることを許されたような気がして、僕は彼女と並ぶ。校内で遠慮無く話せるようになったことは、僕にとっては大きな進歩だ。
寺内さんはもちろん僕の葛藤など知らず、屈託なく話しかけてきた。
「テストおつかれさま」
「ありがと――って、それは寺内さんも一緒だよね?」
「楢山くん、すごく眠そうだったから」
「よ、よく知ってるね」
彼女は詳しくは語らず、「まあね」と流す。
回答し終えて余った時間に寝ていたのを見られていたのか、それとも終了直後の大欠伸の方だったか。僕は何ともきまりが悪くなり、取り繕うように言った。
「徹夜で勉強しなきゃならないほどやばかったから」
「わかるよ。テスト期間って睡眠短くなるから。私も似たようなものだし」
「でも、やっと終わったからな。……帰って、ゆっくり寝ようと思うよ」
「あ、そうなの?」
寺内さんは意外そうに首を傾げた。
まるで寝てはいけないとでも言われているように思えて、僕はやや落ち込んだ。いや、そもそも僕が家に帰って何をしようと僕の勝手なのだが、寺内さんに言われるとなぜだか罪悪感を感じるのだ。
「……寝たらダメかな?」
「そういう意味じゃないよ、ごめん。ただ、寝るのは少しだけ後にしてくれる?」
「どういうこと?」
「渡したい物があったの。テストが終わったらと思ってたんだけど――ちょっと待っててね」
寺内さんはバッグの中を探り出した。ほぼ同じ光景をつい先日も見たような気がするけれど、今日は一体何が出てくるのだろう。
「これ――なんだけど」
若干強ばった顔の寺内さんから僕に手渡されたのは、春めいたうすべに色の封筒だった。表には見覚えのない女性の名前が記され、裏面には繊細で洒落たフォントで『○○ガーデン』と印刷されている。地元の観光名所、そしてデートスポットとしてそれなりに有名な施設だ。
今度は、僕が首を傾げる番のようだった。
「これって、確かバラ園だよね?」
「そう。母がチケットを貰ってきてね」
では、この宛名は寺内さんのお母さんの名前か。そしてなぜ、そのチケットを僕に?
僕の疑問をよそに、彼女はいつもより早口で続きを急ぐ。
「大きな温室で、今の季節でも花が見られるんだって。……私の勘違いだったら悪いんだけど、私が知ってる人の中では楢山くんがいちばん花に詳しそうだったから。もしよかったらって思って」
「貰っていいの?」
頷く寺内さん。
確かに植物に詳しいといえば詳しいのだけれど、僕の場合は少々事情が特殊だ。それに、もっと親しい女子の友達だってたくさんいるだろうに、敢えて僕なんかに預けるなんて。
封筒を受け取りはしたものの悩んでいると、寺内さんは「それでね――」と付け加えた。
ずり下がっていた眼鏡をきりりと定位置に戻し、寺内さんは覚悟を決めたかのように息を吸った。
「チケット、二枚なの。よかったら、私も一緒に行ってもいい?」
紡ぎ出された魔法の呪文のような言葉に、僕の口はだらしなくぽかんと開いたままになった。
二人きりで薔薇を見に行こうというお誘い。どうして寺内さんがそう考えたのか分からないが、それはつまり――そういうこと、なのだろうか。僕は、よこしまな期待をしてもいいのだろうか。
いや。
僕が寺内さんに抱いているこの気持ちはあくまで僕のもので、彼女がどんな思いで僕を誘ってくれているのかは分からない。それを僕は、彼女もきっと僕と同じだと勘違いしそうになってしまっていた。
寺内さんが言ったのは、『一緒に行く』ということだけ。それ以上の期待は、僕の心の平穏のためにも持たない方がいい。
――でも今日の寺内さん、絶対に普段とは違う。
寺内さんは僕を真っ直ぐ見つめ、答えを待っていた。いつもよりも表情は硬く、その瞳は心なしか潤んでいるように見える。寺内さんが何かしらの決意とともに僕に声を掛けてくれた、ということだけは間違いなさそうだった。
だったら僕もちゃんと答えなければ、そう思うと、乱れた心とは裏腹に言葉はするりと口から流れ出てきた。
「ぜんっぜん、構わないよ。もともとは寺内さんのお母さんが貰ったんだろ?」
とたんに、寺内さんの顔が明るくなる。
「迷惑って言われたら、どうしようって思ってた」
「そんなわけないよ」
つい大声になってしまい、僕は自分の事ながら驚いて口を噤んだ。
寺内さんも、明らかに怪しい態度の僕に目を見開き、大きな瞬きを数回。しかしたいしたもので、なにごともなかったかのように続けた。
「……次の日曜の午後とかは予定ある?」
「ないよ。寺内さんが良ければそれで決まりで」
「実は私、楢山くんに話があるの」
「話?」
「ここでは、ちょっとね。……詳しくは、日曜日に」
寺内さんに、思い詰めたような表情がちらつく。
当たり前には喋れないような内容の話とは何だろうかと、いろいろな選択肢が僕の頭の中を駆けめぐる。
もっと突っ込んで聞いてみようと思ったけれど、寺内さんの眼鏡はそれをさせてくれなかった。僕を見ているようなのに僅かに逸らされた瞳は、レンズに遮られてこちらまで届かない。
仕方がないので、少しだけ不本意ながらも、無難な反応をしておくことにする。
「分かった。また、その時にね」
「うん。……たくさん寝られるといいね。お休みなさい」
そう言い残し、寺内さんは今度は笑顔で去って行った。
寺内さんの背中が消えた校門から、僕は動けずにいた。どうやら今日は――おそらくは日曜日までは、ゆっくり寝るどころではないらしい。
ふと、水仙に目をやった。直立する葉が風に遊ばれて、色付く花へと手を伸ばすように揺らめいている。
届きそうで届かない。触れられそうで触れられない。もどかしさと、少しの甘やかさを、僕は自分に重ねていた。
――うぬぼれるな。まだ、どんな話かなんて、分からないんだから。
この時の僕はすっかり忘れていたのだ。水仙には、毒があるということを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます