第3話 モミジ
修学旅行もあっという間に最終日。
雅な風情なんかとは対極にいる僕のような男子高校生でも、秋の京都は素直に素晴らしいと思えた。もともと、古い寺や神社を見るのは嫌いじゃなかったし、地元の小さな地方都市とは違う大きな町は目新しいものだらけ。そして、ふと足を止めた街角に漂う歴史の香りにもささやかな感動を覚えたものだ。
四泊五日、最後の見学場所は清水。
ひととおり見て回ったのち、いわゆる『清水の舞台』の上で班のメンバーは思い思いに散っていく。旅行の間は基本的に班行動なのだが、引率の先生も羽目を外しすぎなければ多少は黙認してくれていた。僕たちの日ごろの行いがいいからなのか、何にせよありがたいことである。
僕はデジカメを手に、檜舞台のいちばん外側へと歩を進めた。見下ろせば、数え切れないほどの木々が青々と枝を張っている。紅葉の名所だというけれどまだ時期が早すぎて、目に入る範囲では色付いた葉など見あたらない。
それでも、眺めは美しかった。昨日まで歩き回った市街地が秋の高い青空の下にはっきりと見える。この街とも今日でお別れだ。
「楢山くん」
眺望をカメラに収めていると、名を呼ばれた。聞き間違えるわけがない声に振り返ると、見慣れた制服姿の少女が立っている。
寺内さんだった。彼女もカメラを手にしているから、おおかた僕と同じように班から解き放たれたのだろう。
「楽しかった?」
修学旅行は、という主語が省略されていたが、その気持ちは何となく分かった。口に出してしまうと、本当に終わってしまうような気がする。終わってしまうことを自ら認めるのは、寂しいものだ。
だから僕の方も、ぼんやりとした訊き方になった。
「うん、すごく。寺内さんは?」
「だいたいね」
「どこが一番良かった?」
「やっぱり、ここかな。……一度飛び降りてみたいと思ってたけど、これは無理かも」
寺内さんはあたりを見回しながら、「高いところはちょっとね」と微笑んだ。
「寺内さんって、お寺とか好きなの」
「嫌いじゃないよ。名字に名を冠するほどには好きじゃないけど」
「あ、いや、そういう意味じゃなくて」
「違ったの? ごめんね。京都に来てから、みんな同じことを聞くんだもん。寺だけに、って」
ぼやく寺内さん。僕はそんな駄洒落などまったく意識していなかったが、寺内さんにとってはやや食傷気味の質問だったらしい。
寺内さんは下を覗き込みながらシャッターを切ろうとしていたが、すぐに手を引っ込めた。カメラの裏側を操作すると、カラカラと音がした。ダイヤルを回してフィルムを巻き上げているのだ。
「デジカメじゃないんだ」
「デジカメなら携帯があるから」
「それにしても随分アナログだね」
「トイカメラだから、いろいろと手動でチープなの。これでフィルムは最後なんだけど、それも残り二枚だけになっちゃった」
言いながら腕を伸ばし、舞台の下へ向けてシャッターを切る。寺内さんは、今度はすぐにフィルムを巻いた。これで残りはあと一枚、ここで使い切るつもりなのだろう。
「もみじとかさくらが多そうだね。もう少し寒い時期なら、飛び降りても良かった」
「飛び降り?」
「言葉通りの意味じゃなくてね、紅葉したらすごく綺麗なんだろうなって。そういうのに囲まれるのもいいじゃない?」
物騒な言葉にびっくりしたけれど、真意を聞けば納得だ。確かに、幾度かテレビで見た紅葉は素晴らしかったように思う。しかしまだ残暑の残る今の時期、色付いている葉などまだ無い。
肩まで伸びた髪が風にもてあそばれて、寺内さんは苦笑しながら手櫛で整える。
春に公園で出会ったときはうなじが見えていたはずだから、この半年ほどでだいぶ伸びた。そんなことをはっきりと記憶している自分に気が付いて、僕は内心激しく動揺していたが、寺内さんに悟られないようにと会話を続ける。
「それで、もみじとさくらか。どっちも秋には真っ赤になるもんな。……紅葉狩りには早すぎるね」
「残念」
寺内さんの声を聞きながら、眼下の木々に目を落とす。
いち高校生にとって、また来ればいいというほど気軽な場所ではない。だからこそ、残念という一言には重みがあった。
修学旅行は今日しかない。そして恐らく、僕が寺内さんの隣で紅葉を見ることができるとしたら、今しなかい。
寺内さんが紅葉を見たらどんな顔をするのか、知りたい。
「僕も見たかったよ」
さらりと言いながらも、ありったけの力を込めて祈る。
僕らからいちばん近い木の葉の色が少しずつ、少しずつ変わっていく。まるで、水面に波紋が広がるように。
しかし寺内さんはまだ気付かないでいる。一本や二本じゃ駄目だ。もっとたくさんの木を変えないと、彼女には届かない。
緑の色素が分解される。それと並行して、赤色の色素がどんどん合成され、葉に蓄積する。緑色が抜ければ赤だけが残る、これがいわゆる紅葉。赤い波はどんどん広がり、山を覆っていく。
そもそも、日常生活には必要がない力だ。これまで、いっときにこんなに力を使ったことなどなかったし、使いたいとも思わなかった。けれどなぜなのか、寺内さんを前にするとそんなことは忘れてしまい、ごく自然に身体が動く。
「ほんとだね。……緑でも綺麗だから、いいけど」
言葉とは裏腹に悔しそうに言って、寺内さんは最後の一枚を撮るべくカメラを下方に向けた。そして、そこでぴたりと動きが止まる。
「何、これ」
鮮やかな赤が、彼女のメガネのレンズに映り込んでいた。目を文字通り真ん丸にして、寺内さんは食い入るように木立を見つめている。やがて、寺内さんは首だけを僕に向けて問いかけた。
「楢山くんにも見える? 紅くなってるよね?」
僕は一瞬詰まったが、当たり障りない言葉を選んで返事をする。
「ほんとだ。紅葉してるね」
「さっきまではそんな気配全然なかったのに。……ねえ、どうしよう。すごくきれい。想像以上に――思ってたのの何倍もきれい」
何も知らない寺内さんはまるで子どものようにはしゃぎ、僕が創り出した紅を眺めている。その目の輝きが僕の方に放たれたものだと錯覚しそうになり、僕はついため息を吐いてしまった。達成感と罪悪感がないまぜになって心の整理が付かず、黙り込む。
やがて、寺内さんは微笑んだまま口を開いた。
「もみじの花言葉は『大切な思い出』」
「よく知ってるね」
「ここに来るって決まって、調べてきたの。……楢山くん、前にクローバーの花言葉教えてくれたでしょう。あれが、あの――何て言ったらいいのかな――ええっと――」
寺内さんは突然しどろもどろになると、俯いて顔を伏せる。
やがて少し下がり気味のメガネを通し、上目遣いで僕を見た。意を決した、といった潔い表情と強い視線になっていた。
「あのとき、すごく嬉しかったから」
彼女ははっきりと、そう言い切った。
その台詞で切り捨てられたかのように、僕の抱えていたもやもやした気分もぱっと晴れた。寺内さんが喜んでくれるならそれでいい。彼女が望むなら、いつでもどこでもこの力を捧げたい。
「そう言ってもらえるなら、良かった。お節介なことをしたかなって思ったりしててさ」
「全然!」
寺内さんは必要以上に首を振り、否定する。その懸命な動きに僕が思わず吹き出すと、シャッターの音がした。
「紅葉を背景に入れたつもりだけど、上手く撮れてたら後であげるね。……私、紅葉のこと知らせてくる」
彼女はそう言うと、僕に手を振って人混みの方へと歩いていった。同じ班の人たちにも、さっきと同様に気持ちがあふれ出すかのような雰囲気で教えるのだろうと、容易に想像できた。
僕は改めて、自分が手を加えてできた紅葉を眺める。自然のものと比べても遜色のない、美しい色だ。
寺内さんのフィルムの最後の一枚は、僕と紅葉。
果たして、僕は彼女の『大切な思い出』になっているのか、それとも――。
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