第6話 バラ
日曜日のローズガーデンは、思いのほか空いていた。
それもそのはず、外は季節外れの大雪で白く染まっていて、ここにたどり着くまでも人影はまばらだった。ここ数日は暖かくて根雪も溶けてきていたところだったのに、一日で冬に逆戻りしたようだ。
待ち合わせ場所の受付の前には、寺内さんが立っていた。冬用のグレーのコートはいつも学校に着て来ているもの。その下からのぞくのは、なぜか制服だ。
「寺内さん」
僕の声に、寺内さんは控えめに手を振って応えた。
「待たせたかな」
「ううん、そんなに。……楢山くんは時間通り。雪だと思って少し早めに出てきたら、意外とすんなり着いちゃって」
そう言うけれど、彼女の顔色は心なしか白いし、表情も硬い。もしかして長い間ここに立たせていたのかもしれないと思うと、申し訳ない気分になった。
「寒かっただろ? 早く、入ろうか」
僕は鞄から封筒を取り出し、寺内さんにチケットを一枚手渡す。少しだけ触れ合った指は、とても冷たかった。
初めて入るバラ園は普段の僕にとっては縁のない場所で、なんともくすぐったい。しかし、寺内さんと一緒にいることでその居づらさもいくらか薄まった――ここにいてもいいのだという妙な自信が顔を覗かせる程度には。
温室の中は優しい暖かさに満ちていて、外とは別の世界のようだった。バラは満開というわけではなかったけれど、それでも届くほのかな香りが鼻を刺激する。
「あったかいね」
独り言のように言って、寺内さんはコートを脱ぎ、畳んで手に持った。上着が無くなると学校で会うのと同じ、制服姿の寺内さんだった。対照的にラフで緩い私服の僕と並ぶと、なんだか収まりが悪い。
「制服?」
「うん。いろいろあって」
「……そうなんだ」
いろいろ、とは便利な言葉だ。僕は気を取り直し、バラ園の感想を述べてみる。
「初めて来たけど、いいところだな」
「実は私も初めてなの。母からチケットのことを聞かなかったら、きっと一生来ないままで終わってた」
「大袈裟だなあ」
「そうでもないよ。……だから、チケットはきっかけだなって思った。ここに来ることと、それから楢山くんに話をすること」
確か、チケットを手渡したときにも彼女は同じ事を言っていた。あの時の寺内さんの悲壮感すら漂う表情を思い出すと、こちらまでつい背筋が伸びてしまう。どれほどの覚悟で何を話そうとしているのか、僕には予想ができなかった。
――いや、予想するのをやめた、か。
どうせ僕が考えつくことなんてたかが知れている。何の話だろうかと悩んではみたものの、僕の下品な心がそうさせるのか、思春期っぽくて甘い、自分に都合のいい想像しかできなかった。
僕の妄想とはいえ、それは寺内さんにとってみればとても不本意で気持ちの悪いことだろう。そう思い至った瞬間、僕は思考を停止したのだ。
それに、寺内さんはいつだって僕の予想をいい意味で裏切ってくれる。今回だってきっとそうだろうと、僕は何の根拠もなく信じていた。だからこそ、こんなふうに軽く尋ねることができるのだ。
「話って何?」
「もう少しバラを見てからでもいいかな? せっかくだから、たくさん見ようよ」
今日初めて、寺内さんは笑った。笑顔を隠すかのように、少し俯きがちに。
植栽されたバラの間を縫って設けられた通路は、土が固められて歩きやすく整備されていた。外の雪景色とは無関係に薫るバラの花、土。そして、目に飛び込んでくる鮮やかな紅、黄、ピンク、白。
ゆっくりと歩き、たまに立ち止まりながら、寺内さんと僕はバラを愛でていった。ただし、『話』を避けながら。
「私、バラの花言葉を調べてきたよ」
寺内さんは花を指差しながら手帳を開く。僕が横から覗き込むと、彼女は手帳を身体に押しつけ、隠してしまった。
「……秘密のことも書いてあるから」
だめ、と睨まれても悪い気はしない。寺内さんもそう怒った様子もなく、再び手帳を開いた。
「花の色によって違うんだね。赤は愛とか情熱、黄色は嫉妬、白は尊敬、だって。……葉や棘や蕾にまで花言葉があるなんて、知らなかった」
「何だっけ?」
「葉は『頑張れ』、棘は『不幸中の幸い』だって」
――そして蕾は『愛の告白』。
そう聞こえた気がしたが、どうやら僕の思いこみ。
なぜなら寺内さんはすでに手帳を閉じ、花に顔を近付けて香りを楽しんでいたからだ。妄想もここまで来ればいっそすがすがしい。
寺内さんは小鼻を膨らませて花を嗅いでいる。それを真横から眺めていて、僕ははたと気付いた。横顔なら眼鏡に邪魔されず、伏せた睫毛の長さまで分かるのだ、と。
とたんに、顔に血が上った。
心を落ち着かせようと慌てて深呼吸すると、控えめな香りが全身に行き渡る。まるで古い細胞が新しく置き換わっていくかのような心地よさに、身体が喜んでいるようだ。
隣でも、うっとりとした声がする。
「いい匂い」
「落ち着くよな、この香り」
「……そうだね」
寺内さんはまるで独り言のように呟くと、花への未練を断ち切るように僕の方へと向き直った。
「どこか、座らない?」
震える唇で、寺内さんは言葉を紡いだ。チケットをくれたときの、あの表情だ、と僕は思い出していた。
バラ園の中央には噴水があり、それを囲むようにベンチが置かれていた。
寺内さんは、「あそこで話そっか」と僕の先に立って歩く。今日はお客が少ないためか、噴水の回りには僕ら以外に誰もいない。
寺内さんが選んだベンチは、ちょうどバラの木を背負うような場所だった。ふわりと漂う香りの中に、二人で腰を下ろす。
「今日は、来てくれてありがとう。……ごめんね」
「何が?」
「わけも言わずに誘っちゃって」
「気にしてないよ」
「楢山くんは、いつも聞かないよね。最初に話したときも、私が泣きながら這いつくばってたのに、何事もなかったように一緒に四つ葉を探してくれた」
「言わないってことは言いたくないんだろ? 誰にだってあるから、そういうのはさ」
――むろん、僕にだって誰にも言えない隠し事はある。お互い様だ。
寺内さんは、膝に置いた手でスカートの裾を握りしめていた。皺の寄った制服は、苦しげに顔を歪める彼女をそのまま写しているかのようだった。
「でも、今日は言いたい気持ちの方が勝ったから。……ううん、楢山くんにだけは伝えないと、ダメだと思ったんだ」
何を、と突っ込むのはやめにして、じっと寺内さんを待つ。ここまできたのだから、何を言われるのかは考えないようにしよう、そう心に決めて。
寺内さんはしばらく浅い呼吸を繰り返していたが、やがて不意に口を開いた。
「私、引っ越すんだ。両親が離婚して、私は母に付いていくから」
「引っ越し?」
確認するように繰り返してみたものの、言葉は頭に入らずに滑り落ちていった。
「うん。……名字も変わるよ。チケットの封筒、宛名が『寺内』じゃなかったでしょう?」
「あっ」
僕は大声を上げ、慌ててカバンの中から封筒を取り出す。彼女の言うとおり、書かれていたのは知らない名字の女性の名だった。
受け取ったとき、僕は確かに思ったのだ。『見覚えのない名前』だと。
本来ならばそんなはずはなく、寺内さんのお母さんならもちろん『寺内』のはずなのに。違和感はあったけれど、それが何か気付かずに今日まできてしまった、そんな自分の馬鹿さ加減が情けなかった。
僕の動揺とは対照的に、一方の寺内さんはまるで他人事のように淡々と続けた。
「引っ越すのは去年から決まってて、楢山くんと公園で会ったのはちょうどその頃。私が無理を言ってこの春まで延ばして貰ってたんだけど、もう時間切れ」
寺内さんは――もう、本当は『寺内さん』じゃないのだろうけれど――笑顔だった。
それはとても痛々しい表情だったのだが、寺内さんの頑張りの賜物だったろう。初めて言葉を交わしたときは泣き腫らした目でクローバーを掻き分けていた寺内さんが、無理して笑っている。それが伝わるからこそ、やはりその微笑みは僕の心に突き刺さった。
それなら、と僕もと平静を装う。
「じゃあ、もうすぐ転校ってことか」
彼女は頷き、隣県の小さな街の名を口にした。ここからだと電車で数時間はかかる地方都市だった。高校生の身分では気楽に行き来できそうにない。
――いや、ちょっと待て。暴走もいいところだろう?
ただの同級生という曖昧な間柄の僕と寺内さん。『会いに行けない』とかそんなことを僕が考えるなんておかしいんじゃないかと、どこかに残っていた冷静な自分が告げていた。
「この制服もあと何日かって思ったら、つい着て来ちゃった。可愛くなくて窮屈で好きじゃないんだけど、寂しくて」
寺内さんがスカートの上から膝を叩き、二度、三度と軽い音が響いた。それで勢いづいたかのように、寺内さんはまくし立てる。
「楢山くんと公園で会ったとき、すごくやさぐれててね。好きで結婚したはずの両親が離れていくのを見てて、自分も将来、誰とも家族になれないんじゃないかって思ったり。気持ちが通わなくなった二人のこどもの私は、存在していていいのかなって思ったりしてたんだ。自分の気持ちをどうにもできなくて、何も考えたくなくなって自棄になってたとき、楢山くんが来てくれたの」
彼女はさっき隠した手帳を再び開いて、僕に見せてくれた。一番最初のページに、四つ葉があしらわれている。
「これ、あのときの。……あれ以来、公園に行ってないんだ。楢山くんが、私に『幸福』を教えてくれたから。私は私なりに幸せを見つけてもいいのかなって、思えたから」
寺内さんはやはり笑ってはいたが、瞳からは涙が溢れ出していた。制服のスカートにその雫が数滴零れ、消えていった。
「この一年、楢山くんのおかげで、楽しかった。ほんとうに、ありがとう」
「僕なんかで役に立ててたのなら。僕も、楽しかった」
寺内さんは強ばった笑顔を見せると、俯いた。彼女の肩は震え、静かにすすり泣いていた声も抑えきれなくなっている。
もらい泣きをしてしまいそうで寺内さんから目を逸らすと、咲き乱れるバラが視界に飛び込んできた。
来月には、寺内さんとこうして一緒に花を見ることもできなくなってしまう。笑ったり泣いたりする顔も見られなくなる。じっくり話すことすら、もしかしたらこれで最後かもしれない。
そう考えただけで、胸の奥の辺りがぞくりと冷える。温室の暖かさもバラの香りも、凍り始めた心までは届かなかった。
僕は、寺内さんの手に自分の手を重ねた。寺内さんが、びくり、と僅かながら反応する。
僕は強引に彼女を引き寄せた。寺内さんの身体はとても小さかったけれど、バラ園の前で触れた指からは想像が付かないくらいに暖かくて、このままでいれば僕の心も解れていきそうだった。
「楢山くん」
寺内さんはすんなりと腕の中に納まりながらも、焦ったように僕の名を呼ぶ。耳元で囁かれて、僕の腕はますます強く彼女を引き付ける。
寺内さんの肩越しにバラが揺れているのが見える。
風が出てきたなと思ったけれど、よく考えてみればここは温室の中だ。そこまで強い風は吹かないはず――。
「楢山くん!」
悲鳴のような寺内さんの声で、僕は我に返った。
両手を解いて周囲を窺うと、ベンチの後ろに植え込まれていたバラの茨が寺内さん目がけて伸びていた。茎が葉がこちらへ向かってくる。それがベンチに引っかかるたびに、がさがさと乾いた音を立てた。
普通ではあり得ないすさまじい生育は恐らくは僕のせい。しかし僕は今、『力』なんて使おうと思っていないのだ。
「何だよ、これ!」
「……わからない、けど、恐い」
「止まれ! 止まってくれ、頼む!」
しかし僕の叫びとは裏腹に、バラは寺内さんに絡みつく。寺内さんはまるで樹に取り込まれるかのように包まれ、身動きが取れなくなっていた。
――こうまでしても引き留めたい、いくら隠そうとしてもそれが僕の本心だからか!
僕は生まれて初めて、自分の『力』を呪った。
結局、バラの成長が落ち着くまで、寺内さんは引きつった表情でなすがままになっていた。
彼女を救出するべく、僕は伸びが止まった茎を丁寧に掻き分けていく。たちまち指が傷だらけになったが、痛みは気にならなかった。
「ごめん、寺内さん」
なんで謝るの、とかすれた声。
「僕のせいなんだ」
「どうして?」
寺内さんの脅えた瞳を見てしまったら、本当のことはとても言えなかった。
彼女がこんなにバラを――僕の『力』を怖がっているのに、告白したところでどうなる。そんなことを言って、嫌われたらどうする。
だからといって、これまでのことを秘密にしたまま寺内さんと別れていいのか。彼女が今日、勇気を振り絞って誘ってくれたように、僕も言うべきことがあるんじゃないだろうか。
茨から解放された寺内さんは、僕の手に滲む血をハンカチで綺麗に拭ってくれた。彼女の指が何度か控えめに僕に触れたけれど、さっきのように握り返す気には到底なれなかった。
あれだけ恐い思いをして、僕のせいだと言っても逃げ出さずに傷を看てくれた寺内さん。
僕はやはりそれに応えなくてはならない。例え、僕がどう思われようとも。
「ハンカチ、汚しちゃったな。……ごめん」
「いいよ、これくらい」
「……話すよ、全部。もう、最後――だし」
手当に礼を述べた後、僕はひとつずつ順を追って説明していった。
――植物を操る力があること。四つ葉のクローバーも、学校のヒマワリも、修学旅行の紅葉も、全部自分がやったのだということ。ただ、今日のバラに関しては僕の意図するものではなかったということ――。
寺内さんは虚をつかれたような表情で聞いていたが、それも当然だと僕は思った。こんな荒唐無稽な話を信じろという方が無理だろうから。
眼鏡の奥の彼女の視線は、まるで初めて会った頃に戻ったようで辛かった。なるべく彼女から目を逸らして、僕は続ける。
「最初に声を掛けた時の顔が、忘れられなくてさ。寺内さんを僕の力で元気づけられるなら、って。寺内さんが喜んでくれたり驚いてくれたりするのが嬉しかった。でも、こんなことになるならしないほうがよかったのかもしれない。……今日は、誘ってくれてありがとう。最後に嫌な思い出を作ってぶち壊して、ごめんな」
寺内さんは無言で首を横に振った。それが例え社交辞令的な否定でも、少しだけ救われる。
――そのくらい、寺内さんを引き留めたかったんだ。僕はきっと、きみのことが。
口を噤み、僕は立ち上がった。明るく笑って別れたいと、にっこりと笑顔を作る。
「転校しても元気で。さよなら、寺内さん」
バラ園を出て行こうとする僕の背後で、ざわざわとバラが鳴っている。僕が居なくなることで、恐らくは元の状態に戻ることだろう。
寺内さんの声が追いかけてきたような気がしたけれど、僕は振り向くことができなかった。
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