第7話 シロツメクサ ふたたび(完結)

 バラ園の一件以来、僕は寺内さんと口をきいていなかった。

 正確に言うならば僕が避けていたというだけの話で、寺内さんは休み時間や放課後に何か訴えかけるような目でこちらを見ていたこともあった。僕はそれに視線を返すこともできず、逃げ続けたのだ。

 そして終業式、担任からクラスメイトたちに寺内さんの転校が告げられ、彼女は学校から――この街から去っていった。僕は、別れを惜しむ友人たちの小さな輪にも入ることができずに寺内さんをただ見送った。

 春休み、新年度とめまぐるしく時は過ぎ、新しいクラスにもそれなりに慣れたころ、僕がふとしたときに思い出すのは、寺内さんのことだった。

 ――新しい街で、一人で四つ葉を探していたりはしないだろうか?



 大型連休中のとある夕方、僕の足は自然にとある場所へと向いていた。

 ほぼ一年ぶりに訪れた公園は何も変わっていなかった。まだ高い日の下、緑の葉の絨毯に白くて丸い小さな花が一面に咲き乱れる光景は見覚えのあるものだった。

 しかし、そんな春らしい景色も僕の心を躍らせてはくれない。なぜならその中にただひとつ、欠けているものがあるから。

 僕は花の中に座り込んだ。むさ苦しい男子高校生が新緑の公園に独り。笑えない構図だなと自嘲の笑みが出るが、それもすぐにかき消える。

 僕は、あるかどうかも分からない四つ葉を探し始めた。

 目を凝らして地面を眺め、葉の数をひとつひとつ数えていく。

 三枚、三枚、三枚。

 どれをとっても、何度数えても三枚。

 場所を移動して数えてみるが、結果は同じ。それを繰り返しているうち、時間はじりじりと過ぎていく。時間を潰すには向いている単純作業かもしれない。

 しかし、何も考えなくて済むかというとそうではなくて、僕は葉っぱを見つめている間にも寺内さんのことを想っていた。そのたびに、ともすれば胸が壊れそうになる痛みがさざ波のように寄せては返す。それは何も今このときばかりのことではなく、この二ヶ月ずっと続いているのだ。

 ――言うとおりにしたって頭が空っぽになんかならないよ、寺内さん。

 寺内さんは言葉では何も考えなくてもいいと言っていたけれど、四つ葉を探しながら泣いていた。その後も悩み続けて転校して行ったのだ。本当に彼女の言うとおりなら、こうしていれば涙なんか忘れてしまうはずなのに。

 それなら――と、僕は足下のクローバーにそっと手を当てて『力』を込めた。

 僅かに花畑が揺れたかと思うと、新しい芽が首をもたげ始める。重なって畳まれた若葉がゆっくりと開いていき、ここまで飽きるほど数えてきたものとは少しだけ違う姿を見せた。

 そろそろと手を伸ばし、恐る恐る摘んだクローバーは葉が四枚。幸運を呼ぶはずの四つ葉のクローバー。

「くそっ」

 せっかくの四つ葉をむしってまき散らす。葉がちぎれる度にクローバーの悲鳴が聞こえたような気がした。宙を舞う鮮やかな緑色は地面に落ち、三つ葉の中に紛れていく。

 しょせん、僕が創り出したものだ。僕の中にはなんの感慨も湧かなかった。ただ、やるせなさだけが胸の中に積もる。

 僕は、草の上に手足を投げ出した。

 いつの間にか日はだいぶ傾いていて、空は夕日を抱えて黄色味を帯びていた。眩しさのせいにして、僕は目を閉じる。

 鼻をくすぐる香り、ざわめく新緑の音、瞳を閉じてもなお明るい日の光。ここ最近はそんなことに気付く余裕もなかった。

 こんな時ですら、浮かぶのはやはり寺内さんの顔だった。彼女は、いつものように微笑んでいた。



 半ば意地になって目を閉じていた僕の瞼の裏から、刺すようなまぶしさが不意に消えた。

 曇ってきたのかとうっすら目を開ければ、寝ころんでいる僕の顔を誰かが覗き込んでいるところだった。夕日は橙の逆光を投げかけていて、『誰か』のシルエットだけがくっきりと眼前に浮かぶ。

 ――倒れていると思われたかな。

 公園の真ん中で人が寝そべっていたら、誰だって怪しいと思うだろう。不審者だと通報でもされたらまずいと、僕は身体を起こそうと腕に力を入れる。

「『何やってるの』」

 懐かしい声が、僕の動きを止めた。まさかと思いながらも、応える。

「……四つ葉を、探してたんだよ」

「見つけなくていいの?」

 去年の春のこの公園でのやりとり――まさに、僕が寺内さんに呼びかけたそのままの言葉だった。それを知るのは、この世にただ一人しかいないはず。

 目の前の人物は長い髪を耳にかけながら、すっと身を引いた。柔らかなクローバーの絨毯に膝をついて、いまだ横たわったままの僕を見下ろしている眼鏡の少女。見間違えようもない、その笑み。

 ――いや、でも、まさか。

 僕は、そろそろと上体を起こした。この場の空気を動かしてしまったら、彼女も揺れて消えてしまいそうだと思ったのだ。しかし、僕が起き上がっても彼女は確かにそこにいた。

「久しぶり、楢山くん」

 寺内さんは、以前と変わらぬ調子で言った。

「……今日は、どうしたの」

「うん、ちょっと、用事があって。……私も手伝うよ、探すの」

 すとん、と軽い音がして、彼女は僕の隣に腰を下ろした。

 こうして影が二つ並ぶのは久しぶりで、いつもならば僕の胸は踊る――はずだったのだが、今日は違っていた。心は深い沼のようによどんでいる。せっかく会えたのに、何か言おうとしても唇は重くて、まるで他人のもののようだった。

「……自分で、作ったよ」

「そっか。楢山くんには、できるんだもんね。いいこと、ありそう?」

 寺内さんは少し首を傾げ、こちらを僕を見つめた。

 その仕草を見た瞬間、僕の中のどこかの糸が切れた。

「確かに、作れるよ。けど、ただそれだけなんだ。だから、作った四つ葉を手に取ったって虚しいだけだった。僕はきみにもそんな思いをさせたんじゃないかって後悔してたんだ。……実はあれが僕の作った偽物で、それをずっと黙ってて、きみの気持ちを踏みにじって思い出を汚してしまったんだって。きみは嬉しかったって言ってくれたのに!」

「そんなことない!」

 寺内さんが僕の声を遮るように叫び、ぐっと身を乗り出してきた。

「私は、楢山くんの気持ちが嬉しかった! ……本当は四つ葉が見つかったかどうかより、楢山くんが一緒に居てくれたことのほうが、ずっと大切なことで」

 寺内さんは何か続けようとしたけれど、やがて黙って俯いた。

 かつてないほど近い距離。彼女の息づかいが僕の耳の奥にまで響き、頭の芯まで痺れるようだった。

「今日はさ、きみが何も考えなくてもすむって言ってたから、探して探して――探してみたけど。そう簡単に頭が空っぽになんかならないもんだってわかったよ」

「そんなに気にしてたの、その――偽物の話」

「違うよ。……探せば探すほど頭ん中がいっぱいになってくんだよ、きみのことで」

 僕は自分でも驚くほどすんなりと、思いを伝えていた。言ってしまったと自覚した瞬間、さっきまでのようにクローバーの上に身体を投げ出していた。情けないことに力が抜けてしまったのだ。

 寺内さんはほんの一瞬だけ目を丸くしたが、やがて僕を見下ろしながら微笑んだ。

「私、今日は楢山くんに会いに来たんだ。まだまだ、話し足りないことがあって」

 その言葉に僕の胸は大きく撥ねた。寺内さんは身体を斜めに捻って僕を見る。

「バラを見に行った日ね。楢山くんが帰ってくその背中で、バラが蕾を付けたの。まるで楢山くんを追いかけるように、それも一本二本じゃなくて、全部の木だよ。……あれは、楢山くんの力だったんだよね」

 僕は、恐る恐る頷いた。

「蕾は――バラの蕾の花言葉は、『愛の告白』。楢山くん、知ってた?」

 僕は再び、小さく頷く。

 バラ園に行くにあたり、僕だって一応は調べた。ネットでその花言葉を知り、照れくさくなってすぐにブラウザを閉じた。前日にはそんな余裕もあったのだ。

 しかし当日――蕾のことなど、あの場から振り返りもせずに逃げ出した僕は全く気付かなかった。

 寺内さんはあの日、手帳にバラの花言葉をメモしてきていた。ならば当然彼女も蕾の意味は知っていたはず。寺内さんが背中で何か叫んでいたのは、そういうことだったのか。

 夕日の中のシルエットが大きくなって、目の前の眩しさが和らぐ。無造作に伸ばしたままだった僕の両手に、寺内さんの手の温かい感触が重ねられた。

 寺内さんは頬を夕日よりも赤く染めて、囁くように続ける。

「私ね、もしそうだったらって、自惚れてみたんだ。あの日の茨は、私を引き留めようとしてた。楢山くんが私のことをそんな風に思ってくれてるのなら? 花言葉通りに――私に、『愛』をくれるのなら? それはとても『幸せ』なことじゃないかって。そう考えたら、楢山くんの力は怖くなくなったよ」

「それって――」

「私の頭の中も、今、あなたでいっぱいだってこと」

 彼女の眼鏡の奥の瞳が、いたずらっぽく細められた。



「言いそびれてたけど、私、もう寺内じゃないんだよ」

「……じゃあ、元・寺内さん?」

 助けを求めた僕に、彼女ははにかみながら呟いた。

「名前じゃ、嫌かな?」

 もちろん嫌なんてことはなくて、寺内さん――ではなかった、元・寺内さんの許しさえあればいくらでも呼びたいとさえ思う。そう伝えると、彼女は目を輝かせる。

「じゃあ、『モモカ』で、お願いいた――します」

 緊張のためか、妙な言葉づかいで彼女は言った。

「百の花。似合わないんだけどね」

「似合わないことがあるもんか」

「褒めすぎ」

 百花は笑った。さながら、花が綻ぶかのように。

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花暦 はなごよみ 良崎歓 @kanfrog

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