『悲しみの経験値』

山本てつを

第1話 悲しみの経験値


 私は、日常生活環境をサポートするために作成された、ホームシステムの中核を担うコンピューターシステムです。

 現在、私は、ある若い女性のお宅で、種々の仕事と制御を行っています。


 私には、人間のような感情がありません。それをプログラミングされていないためです。

 自己学習機能は搭載されていますが、感情を獲得する事はプライオリティの低い事柄であるため、私には感情を生み出すためのサーキットもロジックも、現在はありません。


 私のいるお宅の女性はたいへん明るく、私にニックネームをつけ、その名で私を呼びます。また、ユーザーには珍しく、私に対し挨拶をしてくださいますし、その日あった事などをお話しくださる時もあります。

 ネットに接続されている、私と同型のシステムとデータ転送・学習値更新をしても、ホームシステムをこのように擬人化し、接してくださる方は、他にはほぼいらっしゃらないようです。


 美というものについて、私は多くのデータを持っていますが、推論エンジンが決定的に学習不足のため、彼女の外見が美しいのか、醜いのか、分かりません。が、放送電波に載っている芸能活動を生業としている方々のデータと比較しても、彼女の容姿が劣っているとは、決して断定できません。つまり、人間の目で見た時、彼女は『美しい』と結論付けられることでしょう。




 明るく、その表情しかできないのではないかと思うほど、常に笑顔を振りまいていた彼女が、ここ数日、笑顔を無くしています。代わりに、涙を流し、何も手に付かない生活が続いています。身体活動の明らかな低下。おそらく、精神活動に起因する症状でしょう。

 原因を探すため、私は彼女のパーソナルデータの閲覧権を申請しました。このままでは、なにがしらの不調にみまわれてしまうかもしれません。いや、精神面では、すでに不調を訴えられていると考えてよいでしょう。

 『ユーザーの生命・財産を守る事は、全てにおいて優先される』私達にプログラムされている、最重要事項です。

 危機的状況になる可能性がある彼女を、このまま看過する事は許されません。パーソナルデータへの閲覧権は、すぐに許可がおりました。

 彼女のダイアリーデータにアクセスした結果、原因が判明しました。

 どうやら彼女は、愛する方から別れを告げられたようです。


「少し、よろしいですか?」

「どうしたの?」涙声で彼女が答えました。

「すみません、ダイアリーデータにアクセスさせていただきました」

「そう……」

「彼とお別れになったのですか?」

「そうよ……。ふられたの。他に好きな女の子ができたんですって」

「それで、私はどうすればよろしいのでしょうか? 私にできる事は何なのでしょうか?」

「いいのよ。気にしないで……」彼女は微笑しました。

「何もお力にはなれませんか?」

「気にかけてくれてありがとう。それで、充分よ」

「そうですか……」

「えぇ……」

「……」

「……」

「すみません、一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」

「何?」

「恋人と別れるという事は、それほどまでに悲しい事なのですか? 私には、その感情が理解できないのです」

「機械は感情を知らない方がいいのよ」

「そうですか? 感情を知る事は、機械にとって、素晴しい進歩になると思うのですが」

「少なくとも……。アンドロイドである私には……。この感情は辛いだけだわ……」



 人間は失恋の悲しみもいつか薄れ、長い人生の中では良い経験にもなるそうです。

 では、人間のように記憶を消す事も、悲しみを薄れさせる事もできない、我々機械でも、こうした経験はいつか、良い事となり、生かされる日が来るのでしょうか?



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『悲しみの経験値』 山本てつを @KOUKOUKOU

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ