僕と彼女とそれにまつわるあれこれ
人生
僕と彼女とそれにまつわるあれこれ
今夜は彼女と映画を観ることになった。
少し前に話題になったタイトルで、だからこその地上波初放送。
特に興味がある訳ではなかったものの、せっかく放送するのだから観ないのはなんだか損しているような気がする……そんな理由から、僕たちはソファに並んで座り、テレビを見ていた。
大学進学を機に一人暮らしを始めて二年、物が少なく簡素な僕の部屋は静かで、大して音量を上げていないにもかかわらず、テレビの音量がやたらと響いている。
どうせ観るなら映画館ぽくしたいと彼女が言うので照明を消しており、テレビ画面の明かりが眩しい。確かにこうすると映画館ぽくていいのだが、振り返ると物寂しいような光景が広がっている。
「なおくん」
と、彼女が隣に座る僕を呼ぶ。なおくん。僕のことだ。ちなみに彼女はナオさん。
「お腹空いた」
食事シーンを見て食欲でも刺激されたのだろう、視線はテレビ画面に向けたまま、彼女が呟いた。
僕は携帯で時刻を確認し、再度背後を振り返る。なんとなくそうしたが、特に何がどうなる訳でもない。テレビに顔を戻しながら、僕は応える。
「ピザ、注文したんでしょう」
「……したけど」
なかなかやってこないから焦れているのは分かるが。
「じゃあ待ちなよ。今いいところだから」
別にただの食事シーンなのだが、登場人物の掛け合いが面白いから席を離れたくなかった。
「……いいところだけども」
取ろうと思えばすぐそこにお菓子くらいはある。しかし、僕も彼女もテレビの前から動くつもりはない。CMに入れば話は別だが、本編中はなるべく目を離したくない僕たちなのであった。
ただ、正直僕も小腹が空いてきている。こういうことなら事前にお菓子やら飲み物やら目の前に用意しておけば良かったと今更ながら悔やまれる――
と、その時だ。
ピンポーン、とチャイムの音が聞こえてくる。僕たちはほぼ同時に玄関の方を振り返りかけて、
「…………」
「…………」
顔を見合わせる。
映画の方はそろそろ話が進む気配。これから怒涛の展開を予感させるシーンに、お互い席を立つことが躊躇われた。
「……ナオさん出なよ。注文したのはそっちじゃないか」
「……そうだけど」
「お腹空いてるんでしょう」
僕はテレビ画面に目を戻す、が。
「だけど、ここなおくん家じゃん。私が出て、『
確かに僕の部屋だけれども。
「それなら直井さんですって答えればいいじゃないか」
「私、直井さんじゃないし。嘘つくの嫌じゃん」
「…………」
まあ分からなくもないけれども。僕らはどちらも友達から「なお」とか「ナオちゃん」と呼ばれてはいるものの、僕のそれは名字だし、彼女は下の名前がそうなのだ。
仮に名字が一緒になると、彼女は直井
ナオイナオじゃないのが惜しいが――
僕はまじまじと彼女を見つめていた。
「……何?」
「別に、なんでも」
僕は嘆息するように吐息をこぼした。
すると、ピンポーン。催促するようにもう一度。感傷に浸る暇もない。ノックの音が聞こえる。
僕たちは再び顔を見合わせた。彼女が真面目な顔で口を開く。
「じゃんけんで決めようよ」
「そうしよう」
じゃんけん……、
「…………」
彼女が無言で席を立つ。僕は再びテレビに目を戻した。
「……割り勘だから」
「分かってるから。ほら、さっさと行ってきなよ。ちょうどCMになった」
「試合に負けて勝負に勝った感じがするよね」
「……は?」
彼女の顔を見上げると、どこか得意げだった。
「なおくんは人間的にあれだってことが証明されたけど、私は運がいいことが証明された感じ。日頃の行いが出てるよね」
彼女はにやりと笑って、玄関に向かっていった。
残された僕はCMを眺めながら、
「……確かに、なんか負けた気がする……」
微妙な敗北感を覚えた。
「――で、どうだった?」
ピザの箱を抱えて戻ってきた彼女に声をかけると、彼女は冷蔵庫からコーラの缶を二つ取り出しながら、
「考えてみたら注文した時、私の名前言ったし、別に『直井さんですか?』とは訊かれなかった」
「それもそうか」
「そうそう」
彼女が隣に戻ってくる。ピザの箱を開くと、香辛料の効いた食欲を刺激する香りが立ち上った。ぷしゅっ、と小気味いい音を立てて、彼女がプルタブを開く。これもまた僕の口内に唾液を溜める。腹の奥が萎むような、そんな空腹感を自覚する。
「注文したの私だけど、こんな夜中にピザとコーラって太りそうだよね」
「こんな夜中だからこそ食べたくなるんじゃないかな。少なくとも、朝から食べたいとは思わない」
彼女が一枚目のピザに手を伸ばしたところで、タイミングよくCMが明けた。映画を観ながらのピザとコーラ。なんとも贅沢な晩餐である。一応夕食は済ませているのだけども。
「……っ」
僕はコーラを一口含んでから、隣で黙々ともぐもぐピザを頬張っている彼女の横顔を盗み見た。特に美味しそうに食べている訳ではないが、その咀嚼する様子は僕の食欲をあおるのに十分だった。
ピザはMサイズだが記憶の中にあるそれよりもこころなしかボリューミーで、ペパロニやトマト、たまねきがソーセージが載っている。シンプルなトッピング。あまりチーズ感がないのが僕好みである。
ただ、手を付けるのに少しだけ抵抗があった。
そんな僕の様子に気付いたのか、彼女がちらりとこちらに視線を寄越す。
「なおくん、食べないの?」
「……食べるよ」
十分割されたピザの一枚に手を付ける。こうして手に取るだけで味が想像できそうだ。口が『ピザの口』になる。ピザ待ちの状態。もうお口の準備は完了といった感じだ。
思い切って口に入れると――あぁ、想像以上だ。ガーリックな風味が広がる。一口では噛み切れない硬い食感がまたいい。咀嚼すると味が口の中いっぱいに染み込み、それだけでお腹が鳴りそうになる。飲み込むのがもったいないくらいだ。
しかし早く次を食べたいという欲求に襲われ嚥下し、すぐに続きを頬張る。
食べ終えた後のコーラがまた格別だった。夕食に食べた彼女の手料理など目じゃないほどの幸福感に酔いしれる。
「はあ……」
思わずため息が漏れた。ピザが美味しいと感じたのはどれくらいぶりだろう。そもそもピザを食べたのも一人暮らしを始めてから初のような気がする。
「なおくん、やたらと幸せそうだね」
彼女がからかうような流し目を向ける。まあね、と僕は答えて二枚目のピザに手を伸ばす。
その時から気になってはいたのだが、僕がそれについて言及したのは映画が再びCMに入ってからだった。
「ナオさん」
「ん?」
「……なぜ耳だけ残す」
彼女はピザを食べるのはいいのだが、なぜかその耳の部分だけを箱の中に戻しているのだ。フルーツにたとえるなら、実だけをきれいに食べて皮を残すように、耳だけを残しているのである。お陰で箱の中にピザの外縁部分だけが残されているような状態。並べないでほしい。
「……悪い?」
耳の部分を手にしてピザを咥えたまま、彼女が横目でこちらを見る。
「……別に、食べかけを戻すなとか、そういうマナー違反がどうのと言いたい訳じゃないけど」
カロリーでも気にしているのだろうか。それとも、耳の部分はいわば『持ち手』であり、食べる部分じゃないとでも言いたいのか。あるいはエピの尻尾のように、そこだけを残す派なのか。
「昔さ、まだ歯が乳歯だったおニューな頃にね……」
と、彼女はCMを眺めながら、どこか遠くを見るような目で語りだした。下らない冗談はスルーしておく。
「この硬い耳の部分を噛んじゃって、歯が抜けたのね。そして血がどばどば出たの。それがトラウマで、あれ以来私はピザの耳を残すことにしてる」
「…………」
食事中に聞く話ではなかった。お陰でトマトの赤が血のように見えてしまう。
「よく……それでピザなんて注文しようと思ったね」
「人は成長するものだからね。失敗を経験するからこそ、それを回避するための知恵を身に着ける」
「……ただのピザの話が不思議と哲学的に聞こえるよ」
「私も知恵を身に着けて、大人になったの」
「大人は好き嫌いせず、残さず全部食べるものじゃないかな」
僕は二枚目のピザの耳の部分を躊躇なく口にする。
「僕はけっこう、この部分好きなんだけど。味が凝縮されてるような感じがして」
「それは良かった。じゃあなおくん、私の耳食べて。一緒に大人になろう」
「どこから突っ込めばいいかな」
「私がピザ本体食べるから、なおくん耳食べてね。好きなんでしょ? 良かった。私たち相性いいね」
「割り勘なんだし本体も食べるよ。まあ……耳も、食べるけど」
本体から切り離されて少し冷えた耳は硬く、あまり美味しいとは感じなかった。
やっぱり本体とセットになってこそだと思う。
「ところで、私もトラウマ打ち明けたんだから、なおくんも何か話してよ」
「何その暴露大会みたいなノリ」
顔はテレビの方に向けたまま、僕らはピザとコーラ片手にやりとりする。
「なおくんも、ピザに恨みがあるんでしょう?」
「ピザに恨みのある人なんてこの世にいないと思うけど」
ただ、さすがに目敏い。僕がしばらくピザを食べていなかったことを彼女は見抜いていたようだ。
「まあ、そうだね。あまり面白い話ではないし、人に話してもなかなか理解してくれないんだけど」
それは僕が実家を出るきっかけにもなった、昔の話だ。
「仕事帰りに父が昔、よくピザを買ってきたんだ。月に何度か、十日とか二十日みたいなキリのいい日に、特定のピザが安くなるみたいでね。いつも決まって同じ種類のものを買ってくる」
当時の僕の好物だったからだろう。
ただ、それはたまに食べるからこそだった。ピザ屋のランチバイキングで、様々なピザを好きに選んで食べられたからだ。
生憎と、父の買ってくるピザは僕の好みのものではなく。
そして。
「父が帰ってくるのは大抵夜中なんだ」
ピザというものは基本的に生ものである。消費期限は当日。本日中にお召し上がりください。
「僕がピザの存在に気付くのはだいたい翌朝。当然冷えてるからレンジやオーブンで温めて食べるんだけど、朝からピザはさすがにキツいものがある」
「夏場とかヤバそう」
「おまけに、父の買ってくるピザはシーフード系というか、エビとかの載ってるやつだったんだ」
「生もの感ハンパないね」
「時間が経てば経つほど際どいし、かといって一人ですぐに平らげられるものでもない。夜に出くわしても僕は食後でとてもじゃないけどピザは入らないから、必ず残すことになる。母が処理してくれることもあるけど、いつも昼まで残って、休日の僕は朝も昼もピザを食べていた」
消費期限切れのものを食べる不安もあれば、胃も重くなってくる。ピザは好きだけどチーズ単体はあまり得意でない僕は、朝になって冷え、チーズの固まったピザを見るのが苦痛だった。温めれば油が溢れ、ピザ本来の味は結局失われている。
一時の僕はピザを見ることすら嫌な時期があった。吐き気を催すのだ。
「かといって、食べずに捨てるのも気が引ける。父は悪意があってそうしている訳ではないし、何より、もったいない」
言いながら、僕はまた一つ、彼女が残したピザの耳を口にした。
「そういうところ、律儀っていうか、貧乏くさいっていうか……。嫌なら買ってくるなって言えばよかったのに」
「言えるほど良好な関係じゃなかったんだ。ピザの苦い思い出だよ」
「今は、美味しい?」
「そうだね、久々に食べるけど、やっぱり僕はピザが好きなんだと思う」
彼女が残した耳まで平らげるくらいには、きっと。
「私のことは?」
「は?」
思わずその顔を見れば、彼女は目を逸らすように視線をテレビに戻す。僕はしばらくその横顔を見つめていたが、コーラを一口含んでから映画に意識を戻した。
もうクライマックスだ。主人公とヒロインが抱き合いキスをする、洋画の定番ともいえるラスト――
「ごほっ、ごほっ、」
コーラを噴きそうになった。むせて咳き込む。
「大丈夫?」
ティッシュに手を伸ばそうとすれば、彼女が箱ごと手渡してくれた。
……ちょっと、動揺してしまった。
時間差で襲ってきたのである。
僕は口元を拭いながら、
「チャンネル……変えようか」
「え? 何言ってるの?」
あと数分もすれば終わるのに、とでも言いかけて、彼女はにやりと口元を緩めた。
「家族でテレビ見てる時のお父さんじゃあるまいし」
「…………」
別にラブシーンでもなし、キスとはいえそれほど濃厚なものをしている訳でもないのだ。
ただ、家族でないにしろ、まあそれなりにいい歳をした男女が夜中に二人きりで観るものとして、これはいかがなものだろう。
そんなつもりはなかったのだが、これではまるで僕が雰囲気づくりをしているようにも受け取れる。
「なおくんさ」
最後のピザに手を伸ばしながら、彼女が言う。
「素直じゃないよね」
「……
「じゃあ素直に言うけど、私の耳食べるのってもう間接キスこえてるよね」
「……それは否定できない」
そんなつもりはなかったのだけど。
というか、『私の耳』と略すのはやめてほしい。
ついその耳に目が行ってしまう。
「そろそろ……ほら」
と、珍しく彼女が言いよどむものだから、僕はコーラを飲み干した。それでもまだ喉が渇く。
まったく、映画に影響されるのもほどほどにしてほしい。
仕方ないか。うん。仕方ない。
「……じゃあ、しようか」
僕がそう言うと、彼女はこくりと頷いた。慌ててティッシュで口元を拭っている。僕も真似して口を拭いてから、ふと思い至った。
「その前に、まずは歯磨きしようか」
「……それもそうだね」
――結局、雰囲気も何もなかったけれど。
その夜、僕たちは。
「……ミント味っていうか……」
「ほのかにピザ風味なのが、なんだかね……」
僕と彼女とピザの歴史に、また一つ、新たな黒歴史が加わった。
僕と彼女とそれにまつわるあれこれ 人生 @hitoiki
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