第3話
普段は鳴らない家の電話が鳴ったのは、章一が死んでから三時間後だった。身元がわかり、警察の人間が小林家に電話を掛けてきたのだ。
その頃には明日香の涙は一段落迎えて落ち着いていた。
初めに電話を取ったのは自室で大麻を吸っていた妹の由香で、彼女はその匂いを身体に纏わりつけたまま、子機を明日香の部屋に持ってきた。
「警察の人から」
由香は扉の隙間からそう言って、明日香に子機を渡す。明日香の顔はもちろん晴れていないが、由香の顔も同じようなものだった。部屋で大麻を吸うような由香は警察に心当たりがありすぎるのだ。
「なに?」と、明日香。
「わからない。とにかく保護者の方をって。だからお姉ちゃん、お願い」
「わかった」
明日香は子機を受け取り電話に出る。
警察の人間は男だった。名前は名乗らない。最初にその男は、「誠に残念ですが……」と言葉を言い添えてから、章一が事故で死んだことを明日香に抑揚のない声で告げた。
明日香は思わず子機を落とさないように手に力を込めた。
一度は止まっていた涙が溢れるのはすぐだった。電話の向こうの男にむかって、「そうですか。わかりました。お電話ありがとうございます」と殊勝に言う明日香は、そこでも小林家の良く出来る長女だった。
「どうしたの? お姉ちゃん」
由香が尋ねる。大麻で緩んでいた脳みそはもう元に戻っていた。
「お父さんが死んだの――」
明日香はそう答えた。
――自分が中絶したからお父さんが死んだ。
明日香はその突然の出来事をそう解釈していた。彼女の涙はその申し訳なさからだった。
章一の葬式はひっそりと行われた。元々、多くの友人がいるような影響力のある男ではなかったので、そうなるのが当然の成り行きだった。
遺骨は妻が先に眠る墓に入れられ、章一はついに長年親しんだ家から住まいを帰る。
明日香と由香の小林姉妹からしたら、父親の死は衝撃的な内容だった。その死に方――車輪の外れて暴走したトラックに轢かれる、もそうであったし、そのトラック運転手もまた一つの衝撃だった。それは小林家の隣に住む雛川家の父親、雛川清で、彼もまたその事故で命をなくした。
一軒家で隣り合う家族が、ほとんど同じ場所のほとんど同じ時刻に一つの事故で大黒柱を失ったということだ。
トラックの車輪が外れたのは、車検代をケチった会社の責任で、父親を失った一家からしたらやり切れない思いだけが残った。章一を殺したトラックを運転していた雛川清もまた被害者であったということだ。
川の近くにある葬儀場で、両家の葬式は行われた。明日香と由香は雛川家の葬式にも出たし、雛川家の母、里子もまた小林家の葬式に顔を出した。
どちらも涙を流さなかったのは、希薄な近所関係に突如として現れた複雑な関係に対して、どんな顔をしていいかわからなかったからだった。特にそれは、女子大生と女子高生の明日香と由香によく現れていた。
由香はまだ若く母親代わりの姉がいるのでいつまでも子供でいられる為、隣の家に怒りを感じているようだったが、その葬式に出てみるとその重々しい雰囲気に圧倒されて、それ以降は露骨に不満を示すようなことはなくなった。
明日香と言えば、何も言わない。彼女もまた憤りを感じてはいたが、由香が彼女よりも先にそれを表現してしまい、どうしてもやはりそれを宥める役に舞わざるを得ない。さらに、理性で考えた場合、雛川家もまた車検代をケチって整備を怠っていた会社の犠牲者であることは良くわかった。
さらに言えば、何を言ったって、父が帰って来なければ、時も戻らないのもわかっていた。それは母が死んだ時にすっかり自覚してしまっていたし、お腹の中の子を堕ろして、さらに実感をしていた。どんなに喚いても、亡くしてしまった人はもうお仕舞いなのだ。
そして章一の死後、明日香を取り巻く環境がほんの少しだが変化した。それは彼女にとってみれば良いタイミングでもあった。中絶という試練にがっぷりと四つを組んで向かい合う暇がなくなったからだった。彼女は、小林家の新たな大黒柱となって、これからの人生というものを考えて、その実現に向かって動かなくてはいけなかった。それは具体的に言うと、生活費の確保についてだった。
まず明日香は章一の妹と相談をして、銀行預金、保険関係、の二つを洗い出していくところから始まった。章一は妻が病気になって先立ったこともあり、幾つかの保険に入っていて、それだけも結構な額が娘の明日香と由香の手に入ることになった。そして意外なことに、明日香は大学まで進学したにも関わらず彼女の学資保険がそっくりそのまま残っていることが判明した。
「きっと明日香ちゃんの結婚資金にでもと思ってたんでしょうね」
章一の妹の真紀子はそう言った。彼女はそこにある三百万という数字の重さに父の隠されていた愛情を感じて、返事が出来なかったのを覚えている。
結局、小林姉妹は、二人とも小さい子供でもないし、保険金もあるし、明日香も来年度に就職をするということで、慌しい葬式前後の日々が過ぎると、ほとんどそれ以前のような生活に戻ることが出来た。
もちろん戻らなかったところや、変化した部分もある。戻らないところでいえばそれは章一自身であった。変化したところはそれまで希薄であったご近所関係だった。
小林家と雛川家は、お互いの傷を舐め合うように親密になっていった。それな半ば、雛川家の母、里子によって行われたものでもあった。彼女は、保護者を失った二人の姉妹を度々、夕食へと招待した。
由香のほうは、何かと理由をつけてやってくることはなかったが、明日香は二回に一回くらいの割合でその夕食に出席をした。
雛川家の食卓は豪勢ではなかったが、いつも温かい料理ではあった。だが家族を亡くしているからか、部屋に明かりがついていても、モノクロ映画の中にいるような暗い雰囲気が漂っていた。
四人掛けのはずのテーブルの椅子はいつも二人しか埋まらなく、雛川家にいるはずの長男、幸助は常に姿を見せなかった。
「なんか人とご飯食べるの嫌みたい。ごめんね」
里子は招待した明日香にいつもそう言って苦笑いをした。
里子の横には幸助が姿を現すと期待して置いた、お膳と箸がいつも置いてあった。そして明日香の隣にも、由香のためのお膳と箸が置かれていた。
出てくる料理はカレーであったり、鍋物であったり、野菜炒めであったり、その日によって様々であったが、明日香と里子の女性二人ではそれが平らげられることはなかった。
いつも何かが余り、その度に「大丈夫よ。明日で全部食べちゃうから」と、里子が長期展望を語り明日香に気を使わせないようにした。
食事の間の会話と言えば、その時見ているテレビのことや、明日香の学校や就職状況、妹の由香のことが主なものだったが、それが劇的に盛り上がるというわけではなかった。
そうなるのが難しいほど二人の年は離れていた。だが明日香にとっては、それがたまに居心地の良いものでもあった。
年上の女性といると、彼女が家庭で任されている母親的な役割から解放される気分になって、楽になれた。
そこで電話が鳴る。里子は立ち上がり、棚に置いていた携帯を手に取り、廊下へ出て行く。だが狭い家である。彼女の声は聞こえる。
――また幸助のこと……。大丈夫よ。あの子は。うん。施設の話とはいいっていつも言ってるじゃない。
潜むような里子の声。誰と話しているのかはわからないが、話題は彼女の息子のことらしい。
――もうだから良いって。何度言ったらわかるの。今、お客さん来てるの。じゃあね。またね。
電話を切ったのだろう。廊下から近づいてくる足音が聞こえる。
「巨人が好きなのよね」と、戻ってくる里子は言った。
夏のある夜のことだった。少しずつだが陽は沈んでいき、夜が顔を出す谷間の時間帯だった。テレビにはプロ野球中継が映っている。「あの人も好きだったし」
確かに壁にはいつか巨人が優勝したときのフラッグが貼り付けてあった。
明日香は一旦手を止めて、「そうなんですか」と答える。
「明日香ちゃんは野球とか観ないよね」と、自嘲気味に里子は言う。明日香は曖昧に、「はあ」とどうとも取れる返事をして、ブラウン管に目をやる。丁度、巨人の選手がヒットを打つ瞬間だった。三塁にいる選手は悠々とホームインする。これで二十七点目だった。
「すごい点になったね」
画面には二十七という数字が大きく映し出されていた。里子はそれでも嬉しそうだった。「幾つ点が入っても嬉しいものね」
次の打者が打席に入っていく。「また点が入るといいんだけど」
里子はそう言って立ち上がり、自分の食器を片付け始める。
「いいですよ。あたしがやりますよ」と、明日香も立ち上がる。「いつもご馳走して頂いてばかりですし」
「いいのよ」
里子はシンクの中に食器を置いて、蛇口を捻る。「こっちだって助かってるんだから。一人でご飯食べるのって寂しいのよ」
――またホームランだ!
後ろのテレビから実況の絶叫が聞こえる。
ぼっち 甲斐サブリナ @kai_saburina
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