第2話

 娘の明日香は父の章一が死んだとき、自室で泣いていた。もちろん章一の死をまだ知らない彼女が、彼の死のために泣けるはずがないので、それは違う理由にあった。その日、明日香は中絶をして、その罪の意識から涙を流さずには入られなかったのだ。

 もちろん彼女がその選択をするまで、気が遠くなるほど考え、未来を飽きるほど想像してみたので、軽い気持ちで子供を堕ろして、やっぱり悲しい!と思って泣いているわけではない。

 彼女は背負うと決めた責任の重さが、罪悪感となって押し寄せてきて耳元で、可能であった世界のことを囁くのに耐えられなかったのだ。テレビをつければ、どこかのチャンネルに子供が出ているし、本屋に行けば必ずあるマタニテイィコーナー、街を歩けば見かける乳母車を押す親子、それらを見るたびに、朝までは自分のお腹の中にいたはずの可能性に満ち満ちていた名もない子供の名前を考えずには入られない、と思うと心が途端に涙を流すのだ。

 そして明日香はこのことを誰にも話していない。全てを秘密裏に進めて、全ての結果を全部、明日香一人で受けなければならない。

 机に突っ伏して、もういないのに何かの感触を探すようにお腹を擦りながら、明日香は言葉を殺しながら涙を流していた。



 元々、彼女に子供を作る予定などなく、それは突然にやってきた。日常的に好きでもない男と寝たのが運の尽きだったのかもれない。堕ろした後では彼女はそう思って自分を戒めてもいる。

 とにかく明日香は当時、有名私立女子大に通う身でありながら、自分の春を売っていた。それは金のためでもあったし、そうでないときもあったが、大抵は金のためだった。高校生の時、初めに付き合った男と何度かセックスをするうちに、不感症だと気づいた彼女は、母が若年性痴呆症になったことをキッカケに、売春を始めた。

 母が母としての機能を失うに伴って、長女の明日香は当時高校生でもあったが、一家の母として活動しなくてはなくなり、その為に自分の時間と感情の多くを犠牲にしなくてはいけなかった。

 時間の犠牲はアルバイトをする時間を減らすことに繋がり、感情の犠牲は彼女を自暴自棄へと追いやる手助けをした。

 その結果、大学進学を早々と推薦で決めていた明日香は、友人の誘いに乗って短時間で多くの金が稼げて、自暴自棄にでもならなきゃやってらんない仕事をすることに決めた。

 売春はそういう意味でも明日香にはぴったしだったし、彼女が不感症ということも良かった。攻めてくる男がどんなに上手でも、明日香は永遠に屈しないでいることが出来て、他に売春をしている女性たちが時たま本当に感じてしまい罪悪感のようなやるせない気持ちを抱くことが全くなかったからだ。

 つまり明日香が売っていたのは彼女の開かれた股、本当にそれだけだったのだ。

 だがそれがどうだろう。大学三年と四年の間、彼女は身体に異変を感じる。やってくるははずの生理が来なくなり、不安が毎日重なっていった。明日香が妊娠検査薬を買うまで時間はいらない。すぐに尿を垂らすと、陽性反応が出た。心当たりはありすぎるほどあった。生でやらせた客もいればコンドームをつけてやらせた客もいるが、そういう結果が出てしまうとその全てが容疑者だった。

 明日香は心当たりの多さに落胆して、犯人探しをすぐに諦めて、どうなるにせよ妊娠を秘密裏に処理することを決める。元々、犯人を見つけても父親になって欲しくない類の男ばかりであったのが一つ、そして父親だと証明するためには多くの人間の助けが必要になるのも、もう一つの大きな理由だった。

 とにかく明日香は、嫌悪する父と出来の悪い妹の二人の家族にこの事実が伝わるのを嫌がった。彼女は家庭では、良く出来た長女でいたかった。

 既に企業から内定を貰い、家族の支援を受けられない状態で、シングルマザーになる判断を下すのはまだ若い明日香にとって、辛い選択に思えた。きっと生まれてくる子供にとっても辛いだろう。

 明日香はそれから幾つもの夜をお腹の子供を過ごし、未来をシミュレートして考えた。感情で考え、簡単な損得勘定で考え、その二つで考え、そして結局彼女が出したのは中絶という手段だった。

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