ぼっち

甲斐サブリナ

第1話

東京のそこはかつては海だったが、現在では坂のない土地が広がっている。坂がないのはそこが埋立地だからで、その代わりにその街には多くの橋があった。橋はその街を流れる四つの川、荒川、中川、新中川、江戸川を跨ぐように幾つも架けられていて、そのうちの一つ小松川橋の近くにある一家が住んでいた。

 一家の姓は小林といい、母となる女性は既に亡くなっているので、父と娘二人の三人暮らしだった。つまり小林一家は核家族だが、再開発が進んでマンションが乱立している江戸川ではそういう家族は珍しくなく、むしろ普通であった。

 一家の大黒柱である小林章一は、ごく普通のサラリーマンだった。大学を出て最初に就職をした会社は、妻が若年性痴呆症を患った時に看病のために辞めていたので、現在勤めている会社は二社目になる。

 章一は、小さいと時は野球選手になるのが夢だったが、いつだったか自分がテレビに出てマウンドで立つ人間じゃなく、テレビに映る選手をずっと見ている人間だと気づいて、それ以来、何かで大きな業績を残すことなく生きてきた人間だった。そんな章一が残したものと言えば、二人の娘、明日香と由香と、その二人の為に積み立てていた学資保険と、自分に掛けている生命保険くらいだった。

 章一は本当に世間一般の人間が手を伸ばせば届くものを手に入れて、大多数の人間が諦めたものを手放して生きてきた人間だった。

 そんな彼は、世の父親が悩むように、妻が残していった二人の娘との関係に悩んでいた。二人の娘、明日香も由香も、章一のことを疎ましく思い、家族のコミュニケーションは減るばかりだった。明日香は露骨に章一にものを言ったりしてはこないが、章一は彼女が自分を嫌っていることがよくわかっていたし、高校生になったばかりの由香に関しては、その言動や態度にあからさまに表れていた。

 二人の娘は、どうしてか自分たちの母が若年性痴呆症になったのを、章一が理由だと考えていた。章一にはその心当たりはないのだが、その気持ちはわかった。

――子供たちは訳が欲しいのだ。不幸が起きた理由を知って納得させたいだけなのだ。

 章一だってそうしたいのだから、子供たちはもっとだろうと彼は考えていた。だから思春期の反抗と重なった娘たちの行為を、章一は激しく叱責したり、さらには優しく諭すことも出来なかった。もちろんそれは章一のパーソナリティ、彼は少し弱気な性格だった、ということも考慮に入れておかなければいけない。

 とにかく章一は、自分の種が作った娘二人に嫌われていて、それについて思い悩みながら毎日を過ごしていたのだが、つい先日からその生活も少しずつ様変わりしていた。

 その変化はまず彼の仕事場で起こった。彼はコピー機をリースする会社に勤めていて、そこでの役回りはリースしているコピー機のインク補充や保守点検のための外回りだった。

 いつもは一人で作業着を着て、会社の軽自動車で東京をゆっくりと巡回するように周る毎日なのだが、三月になると翌年度に入ってくる新人と研修をかねて二人で周ることになる。

 その新人が、今年は女性だったのだ。名前は一之瀬恭子と言い、都内の大学の工業科を卒業予定の女性だった。

 髪は長くなく肩に触れるか触れないかくらいで――後にそれはボブという名前の髪型だと章一は聞かされる、肌は白く、顔も整っていた。つまり彼女を一言で形容すると美人という言葉が適切と思えるような女性だった。

 妻が死んで以来、一人の寝室でのオナニー以外に、性の処理をしていなかった章一に、そんな女性が宛がわれて、何かを考えないはずがなかった。

 恭子は理系の女性によくあるように非常にサバサバした男勝りな性格だったが、それは章一にとって何かのマイナスになるようなことはなかった。

 二月の終わりにやってきた一回りも違う恭子に、章一は心を奪われてしまったのだ。それからいつも章一の頭の大半を占めていた、娘二人の話題は少しずつ姿を消していき、入れ替わりで恭子のことを考えるようになった。

 いつも恭子を助手席に座わらせて、都内のオフィスを回ってコピー機のトレーを変えたり、紙詰まりを直したり、一緒に食事を取る生活は、章一にとってはもう二度と手に入らないと思っていた潤いと期待のある毎日だった。

 妻が過去と現実の世界を行き来するようになって以来と言ってもいい。章一の表情は少しずつだが明るくなり、娘二人はそれを気味悪がった。

 距離を置こうとする章一の二人の娘との関係は一向に改善されることはなかったが、恭子との毎日は章一の全てを癒していった。元々間の抜けていて、誰かに慕われるような性質でもない男である。恭子に「これはどうしたらいいですか?」なんて言われて頼られたら、もう嬉しくてしょうがない。

 そして三月の中旬になって来た頃、恭子は五月から実家から独立して一人暮らしを始めようと思うんです、と中華料理屋で章一に打ち明けた。その中華料理屋は亀戸にあって、昼休みになると二人でよく訪れている場所――かつては章一が一人で訪れていた場所――だった。

 五百円で腹いっぱい食べれる店で、恭子にとっては量が多いのか彼女はいつも杏仁豆腐だけを頼んでいて、その横では毎回章一がラーメン定食を頼んでいた。

「一人暮らし初めてなので、どういう物件が良いのかわからないんですよね」

 恭子は何気ない一言としてそれを言った。つまりそれを章一に言ったところで、問題がたちどころに解決したりとか、その問題に章一が一緒になって解決への道を歩いてくれるなどどはこれっぽっちも期待していなかった。彼女の言葉は、二人の会話の空白を埋めるためだけに使われる、使い捨ての話題のうちの一つ、そういうものだった。

 だが恭子にとっては嬉しい誤算で、妻の看病をする前の章一の仕事は不動産屋だった。一応彼は宅建の資格も持っている。そういうことでその食事の席で章一は、自分の過去の経歴――不動産にアドバンテージがあるということ――をさりげなく語り、二、三、アドバイスをした。さらに気を良くした章一は「もし良かったら一緒に見に行くよ」と彼女に告げてもしまった。

 どちらも冗談半分、もし現実に起きれば幸運だな、と思うくらいのジャブを放ったわけだが、どうしてか結局そのジャブは幸運として二人の頬に二週間後、軽く炸裂する。

 つまり二人は一緒に不動産を見に行ったのだ。もちろん見に行くまでには、恭子が休憩中に持ってきた不動産屋が送ってきた物件のファックスを見て検討をして、「結局、見に行かなくちゃわからない」という結論になって、「それじゃ見に行こうか」というなんとも自然な流れがあったことは言うまでもない。

 突然、嵐の夜に恭子から雑音交じりの聞き取り辛い電話が章一にあって、「明日、不動産を見に行くの。来てくれますかぁ」なんて叫ぶように聞かれるなんていうドラマチックな展開は一つもなかった。

 それはあくまで、親切だけど少し浮かれた分別のつく中年男と良い不動産を手に入れたい若い女性が、積み重ねた行動の一つの結果だった。

 二人は一日に、何十もの物件を見るようなことはしなかったし、何軒もの不動産屋を回るようなこともしなかった。既にファックスである程度の物件には目をつけていて、それらを確認するという行為が主だった目的だったのかもしれない。

 それは三つの物件で、どちらも職場からはそう遠くない場所にあった。駅で言えば一駅分離れてはいるが、自転車で行くことも充分可能な距離で、恭子はもしそれらの物件に引っ越したら実際にそうしようと考えていた。

 物件を見ている間、二人はちょっとしたロールプレイをした。それは二人が年の離れた兄と妹を演じるというものだった。「どういう関係って不動産屋に言えばいいかな?」と言い出したのは章一のほうで、「歳の離れた兄と妹はどうですか?」と答えたのは恭子だった。

「恋人同士は無理だよね」

 なんて言葉が頭に浮かんだ章一だったが、結局それは遂に口から出ることはなかった。

 物件を見ている間は、「お兄ちゃん、これどうかな?」なんて恭子が何の前触れも照れもなく言うものだから章一は驚いた。そして章一は「あ、ああ、それは」なんてやっぱり間の抜けた返事をして、不動産屋を気にしながら、恭子にアドバイスをしていく。

 こうして見た物件のうち、二人の意見が一致したのは結局、一番最初に見たアパートだった。新築で保証人なしでも入れるし、オートロックで宅配ロッカーもある。ゴミを二十四時間捨てる場所がないので、毎週決まった時に出さなくてはいけないが、それくらいは我慢しようということで、章一と恭子は物件をそこに決めた。

「ありがとうございました」

 帰り際に恭子が言った。四月の夕暮れで、次の週から彼女は会社から車を与えられて、一人で仕事をすることになっていた。

 二人で何か作業をするというのは、その日が最後ということになる。

 その時は、章一も恭子もそう思っていた。



 だが五月のゴールデンウィーク、四月を一人で仕事をして、恭子との日々はおかしな夢だったといつものように諦めていた章一の元に一通のメールが届く。

 送り主は、何を隠そう恭子からで、用件は「本日、無事引っ越しました。ありがとうございます」というものと、「来週良かったら食事をご馳走したいのですがいかがでしょうか?」というものの二つだった。

 もちろん後者の用件のほうが、章一とって重要だったことは言うまでもない。

 大学生の娘の明日香は旅行に出掛けて、高校生の由香はどこをほっつき歩いているのだが外泊ばかりしている中、一人の自宅で章一は思わず「はあ」と幸せの溜め息を漏らす。

 どうしたものか、と一応迷ってみるが、章一の意思はもう決まってはいた。絵文字などもない至極簡潔なメールを彼は恭子に送る。

「喜んで」

 それだけで充分だった。不足もなければ余りもない。たったの三文字だったが、意思の疎通は充分に図れて、その翌週の土曜、二人の娘に「どこに出かけるの?」なんて一言も聞かれることなく、いつもは家で巨人戦でも観てるはずの時間に章一はひっそりと家を出た。

 五月の夕方と夜の狭間の時間。街はまだ明るく、外套の明かりもついていない。休日のこんな時間に外出したのは一体いつ振りだろう、と章一は駅まで歩きながら考える。

 脳の奥に閉まってある記憶の引き出しを開けていくと、それはまだ妻が生きていた頃で、二人の娘も中学生と小学生の頃だった。

 まだ妻は、自分のことを他人と思い込んだり、父親と思い込んだり、王貞治と思い込んだりすることもない、現実世界に生きる夢を見ない頃の話だった。

 思い出される風景は、今はもう売り払ったミニバンで出掛けたディスにーランドから買える風景だ。後部座席にはマスコットキャラクターをあしらった可愛いデザインの帽子を被って、胸にそのぬいぐるみを抱いている二人の娘と、助手席にはシートベルトを締めて財布の中身を確認している妻の姿があった。

 もちろん運転しているのは章一で、その当時はそんな風景が明日も明後日も明々後日も続いて、妻と一緒に歳を取っていき、二人の娘がいつか嫁に出て行くものだとばかり思っていた。

 章一は柄にもなく誰にも気づかれないようスキップを始める。だが次の瞬間に、彼の身体は車輪が外れて暴走した大型トラックに跳ねられて、宙高く飛び上がることになる。

 章一は浮き上がる自分の身体の上にある夕焼け空を、その全身に響いた衝撃の中で見てから、アスファルトの地面に落下した。その時、章一の瞼は開いていたが、彼はもう何も見ていなかった。

 とにかくそうして小林章一は死んだ。彼の人生はそれっきりだった。

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