【5】

 私は音無先生の夢から、一足先に抜け出した。意識が現実の身体へ戻る。目の前には、ソファで眠る音無先生。規則正しい呼吸の音。まだ熟睡しているようだ。音無先生の寝顔は安らかで、なんだかとても無防備な感じだ。普段の、どこか悲しげな雰囲気も今は無い。彼女には前から少し興味があった。彼女の事はごく普通の人だと思っていた。特に変な性格でもないし、奇妙なことを言うわけでもなかった。ただ何となく、悲しげな雰囲気があるというだけのことだった。その雰囲気の正体を知りたいと思っていたが、私には手段がなかった。私はカウンセラーでもなければ心理学者でもない。彼女の心を覗くなんて出来なかった………そう、二週間前までは。

 二週間前、奇妙な夢を見た。それは抽象的な風景だった。何を表しているのかも分からず、私にとってはひたすら無意味な光景が眼前に繰り広げられた。しかし夢から覚める直前、私は何かを思い出したときのような感覚を味わった。一瞬にして、にわかには信じがたい知識が記憶に刻まれた。それが人の夢に侵入する力、すなわち、【夢幻の旅人】だった。奇妙な夢で私が得たのは、この力とそれに関するあらゆる情報だった。不思議な事にこの力には初めから【夢幻の旅人】という名前があったのだ。この力は他人の夢に入ることを可能とする。夢の中では相手の心が分かり、まだ試したことはないが、夢の中で私か相手に起こったことは現実になるらしい。

 それにしても彼女がさっきの夢で放った言葉には驚いた。彼女の過去に何かがあったというのは予想の範囲内だった。だが彼女が、心の傷を抱えて生きると言ったときは衝撃を受けた。それは紛れもなく本心からの言葉だったのだ。彼女がそんなに強い人間だったなんて、思いもしなかった。私は再び彼女の顔に目を向ける。こうして眠っている間は、彼女は過去を忘れて幸せでいられるのかもしれない。彼女の安らかな寝顔はとても綺麗だと思う。だけど悲しい過去を忘れず、それをずっと抱えて生きようとする彼女の在り方は美しすぎて心が痛む。私にはとても無理な生き方だ。彼女はいつか救われるべきだと思う。そのために手を差し伸べたいとも思う。だけどそれは彼女の生き方そのものを否定してしまうかもしれない。私はそんなことを考えながら彼女の寝顔を見つめていた。その時、彼女の目から一滴の涙が溢れた。涙が、頬を伝う。

「泣いているんですね、先生」

 私は小さく呟いた。本人しか見ることのない、本来の夢を見ているのかもしれない。私は視線を窓の外に移した。いつもと変わらない景色がそこにはあった。私は何をするでもなく、遠くの空をしばらく眺めていた。

 おそらく、私が彼女の心の傷を”見る“ことはないだろう。私には、彼女に手を差し伸べる方法が分からないから。私に彼女は救えない。彼女を救えるのは他ならぬ彼女自身なのかもしれない。もうじき彼女が目覚めるだろう。夢の中での出来事は一旦胸の奥にしまって、普段通りに振る舞うようにしよう。だって彼女にとってあれは、ただの夢に過ぎないのだから。



 ―終―

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非現実事件、あるいは夢幻の旅人 矢州宮 墨 @cymphis

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