4-1

 夜七時、指定された待ち合わせ場所へと足を運ぶと、先に来ていた向井がこちらを見つけて手を振って来た。

「お疲れ様です。すいません、結構遠かったですよね」

「別にいいよ。バイトも入ってなかったし。それで、どこで飲むんだ?」

「良い居酒屋があるんですよ。早速向かいましょう!」

 向井はそういうと、俺の腕を取った。もしかしたら、彼女からすると自然な動作だったのかもしれない。でも俺は、人に……しかも女性に触れられるのは初めてで、その動作に凄く抵抗があり、思わず振りほどいてしまった。

 驚いた顔で、向井がこちらを見る。

 何か言わねばならない。一言言えば、誤解は解ける。そうは思ったが、気の利いた言葉が出てこなかった。

「行こうぜ」

 妙な沈黙の末、ようやく出たのがこれだった。

「……はい」ヘコんだ声が聞こえてくる。

 ……これだ。

 いっつも俺は、こんな感じで人と距離が出来てしまう。


 ちゃんと言葉を交わせば良い。見苦しくても言い訳したら何か変わるかもしれない。それでも、何を言えば良いのか、分からなくなる。本当にこの言葉で良いのか、そんな迷いが俺を躊躇させる。

 微妙な空気のまま居酒屋に入ると、俺たちは向かい合って席に着いた。

「とりあえず生ですね」

 苦笑いを浮かべて向かいが言う。

 少し飲むと、すぐに話題がなくなり、沈黙を埋めるため、向井は最近のサークル内情を話し始めた。あまり興味はなかったが、沈黙よりはマシかと適当な相槌を打った。

 普段、俺達は昼食で何を話していただろう。先ほどの失敗が尾を引き、まるで思い出せない。

 そうこうしているうちに、大して盛り上がりもせず、時間も頃合いになった。

 店を出る頃にはそれなりに二人とも酔っていたが、まるで盛り上がる気配がない。

 まぁ、こんなもんだろう。結果なんて、最初から見えてたじゃないか。


「ねぇ、先輩。よかったらこの後、うちに来ませんか?」

「はっ?」

 意味がわからない。全然楽しくなんてなかったし、そもそもお前、早く帰りたそうにしていたじゃないか。

「いやぁ、もう少し一緒に飲みたいなぁと」

 たははと困ったような笑みを彼女は浮かべた。その表情が、どうにも腑に落ちない。

「聞くけど、なんか困ってるのか?」

「え?」

 ぎくりとした表情を浮かべたのを、俺は見逃さなかった。

「困ってるなら話せよ。別に、利用されるのは慣れてる」

「変な事言わないで下さいよ。そんなわけないじゃないですか。あんまり五十嵐さんの事聞けてないから、もう少し飲みたいだけですよ」

 彼女はそう言って作り笑いを浮かべた。

「……そうか」

 俺はその嘘を、残念に思う。


 ※


 向井の家は居酒屋の近くにあるワンルームマンションだった。

 一階の玄関ホールがオートロックになっていて、高級感が溢れている。両親に大切にされてるんだな、なんて、どうでも良いことに気づく。

「ちょっとメールしますね。友達からサークルのことで連絡が来ちゃって」

「ああ」

 ぽちぽちとメールを打つ向井と一緒に、ゆっくり歩いた。

 やがて二階の角部屋に到着した。

「ここが私の部屋です」

 自宅の鍵を開けながら向井は言う。

「じゃあここで帰るよ」

「えっ? 飲むんじゃないんですか?」

 家に上がるつもりはなかった。部屋まで送って、そこで帰るつもりだった。

「せっかくだから飲みましょうよ。いいお酒が揃ってるんです」

 そう言って開けられた玄関には、一人暮らしにしては不自然な量の靴が置かれていた

「誰か来てるのか」

「えっ? そんなことないですよ」

 平坦な声だった。嫌な予感がする。

「いいから、先入ってて下さい」

「……あぁ」

 必死な声に圧されるようにしてリビングのドアを開くと、数名の男女が机を囲んで座っていた。

 卓上に置かれた酒缶や滞留した酒の臭い、タバコ臭さに、思わず顔をしかめた。

 部屋に居た奴らの中には、見覚えのある顔もあった。いつも俺に出席表の提出を頼む奴。健悟とか言ったっけ。

 中の奴らは俺の姿を目視すると「うわっマジかよ」とか「やったぁ」などと声を上げた。

「マジで連れて来てんじゃん! 俺絶対来ないと思ったのに」

「これウチの勝ちでしょ! 健悟さん、これで奢りですからね」

「いがちゃんマジで空気読めてねーわ」

「あかねの魅力で落とされたんですよぉ」

 呆然としていると、いつの間にか背後に立っていた向井が「ごめんなさい、五十嵐さん」とおどけた顔でこちらを拝んでいた。

「実は、皆で賭けてたんです。今日、五十嵐さんを連れてウイングスのメンバーと合流できるかって」

「ごめんな、いがちゃん。こいつ全然男経験ないからさ、度胸試しも兼ねて鍛えてやろうと思ってよ」健悟はそこまで言うと、こちらの反応がない事を疑問に抱いたのか、首を傾げて「聞いてる?」と俺の顔の前で手を振った。

「……ああ、聞いてるよ」

 表情を変えずに頷くと、奥に居た女子が驚いた様子で「健悟さん、この人全然怒らないんすねぇ」と言った。

「当たり前だろ。いがちゃんは寛容なんだから、こんなんで怒んねーよ。それにいい夢見れたろ? 感謝されてこそすれ、だ!」

「夢?」

「お・ん・な。出来ると思ってわくわくしただろ?」

 そう言って肩を組まれる。振りほどきそうになったが、ぐっと堪えた。

「それは思わなかったな。ただ……」

「ただ?」

 回された腕を静かに外して、向井を振り返った。一瞬だけ、びくっとした視線を向けられる。恐怖心が宿った目だった。

 ……ビビるくらいなら、最初からそんなことすんなよ。

「友達になれるかもって、思って『た』」

 俺の言葉に小さく歓声が上がる。不思議と、嫌悪感はなかった。夢から覚めたようなものだ。やっぱり最初から、そこには何もなかった。それだけだ。

「じゃあ、邪魔になるから、俺は帰るわ」

「おお。ありがとな、いがちゃん。また出席も頼むぜ」



「これで満足したか?」

 帰り際、向井に俺はそう言った。

 彼女は視線を伏せたまま、こちらを向くことはなかった。

 

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