3-1
その女に声を掛けられたのは、いつものように西棟の大講義室で弁当を食べている時だった。
「あの、すいません。五十嵐さん、ですよね」
まさか声を、しかも女子にかけられることがあるとは思わず、箸でつまんでいたウインナーを落としてしまう。他に一人飯をしていたいつもの面子も、驚いたようにこちらを振り返った。
茶髪のショートカットに、八重歯が印象的な女子だった。
どこか幼さが見える。恐らく後輩だろう。
誰? とこちらの顔に書いていたらしい。ごめんなさい。と相手は頭を下げる。
「私、ウイングスに入った一回生です。健悟さんから、五十嵐さんの事聞いて」
待て。もう既に何を言っているか分からない。
ウイングス? 健悟? 相手の口から放たれる単語に全く聞き覚えがなかった。
「人違いじゃないの」
「えっ?」
「ウイングスって、聞いたことないんだけど。健悟って奴も」
「そ、そんなはずないです。健悟さん、いつも五十嵐さんには講義で世話になってるって」
「……あぁ」
そこまで言われてようやくピンと来た。健悟っていつも出席票渡してくるあいつか。だとすれば、ウイングスと言うのは俺が昔所属していた旅行サークルの名前だ。記憶の片隅にも残らないくらい忘れてしまっていた。
「それで、俺に何の用」
「実は、お願いがあるんです。五十嵐さんって、次の講義、一般教養の福祉政策論ですよね」
俺はなんとなく察すると、手を差し出した。相手は困惑した表情を浮かべる。
「渡せよ、出席票。出しといたらいいんだろ」
自分に求められることなんて、それくらいしかない。利益があるから、話しかけて来る。それだけだ。俺自身に価値はない。
しかし、意外な事に相手は首を振った。
「違います。私、そんな方法使ってまで出席したいなんて思ってません」
君の先輩は四年間『そんな方法』しか使ってないけどな、とは言わないでおく。
「同じ講義受ける人いないか探してたら、五十嵐さんが受けてるって聞いて……。だから、一緒に受けられないかなって」
「その為にわざわざここまで?」
「ええ。昼はよくここでご飯食べてるって」
どこの情報かは分からないが、何となく合点が行かないわけでもない。ここで飯を食っていると、度々知らない奴から出席表を渡された経験がある。その諸悪の根源が、こいつの所属しているサークルだった、と言うわけだ。まぁ受け取る俺も俺だが。
一緒に講義を受けようなんて言われたのは、初めてだ。
「別にいいけど」
了承はしたものの、ほぼ何の繋がりもないに等しい俺と、一緒に講義を受けようとするその神経や、考えはどうにも腑に落ちない。
困惑していると「ところで聞きたいんですけど」と相手は辺りに視線を向けた。
「さっき一緒にいた女性の方はどこに行ったんですか?」
「女性?」俺は首を傾げた。
「ええ。髪の長い、ワンピースを着た女の人ですよ。てっきり彼女さんかと思って。違うんですか?」
家に帰ってから、彼女が言っていたことをよく考える。
「あの子、霊感があるんだろうか。お前の姿が見えたって」
「知らないわよ。大体、霊感があれば私が見えるのかも分からないわ」
「そこは分かっとけよ」
「分からないわよ。そもそも、そんな状況になったこと自体ないもの」
確かに。メリーさんに取り憑かれたのなんて、俺くらいのものか。
「とにかく、あの子には注意した方がいいわよ」
「お前がな」
軽口で返したが、俺はこの時、メリーの言葉に関して、重大な勘違いをしていると気付いていなかった。そんなことよりも、メリーの外見に対して意識を向けてしまっていた。俺は、メリーの外見はてっきり小さい子供とか、人形みたいな姿をしてると思っていたのだ。
俺の考えを知ってか知らずか、メリーは黙ってぐっちゃぐっちゃと汚らしいプリンの咀嚼音をかき鳴らしていた。
※
その日以来、水曜の三限はあの子と受ける事になった。
彼女の名前は向井と言う。今年入学した一回生で、俺と同じ学部らしい。サークルに入って間もなく、まだ大して知り合いがいないのだと言う。
「すいません。この時間に、一緒にご飯食べる友達がいなくて」
俺は、向井から呼び出され、中庭にあるピロティで昼食を取っていた。本当は大教室で食べたかっのだが、人と一緒ではなんだか足を運びにくい。あの教室に漂う静かな空気を乱したくなかった。
「講義で友達作ったらいいだろ」
「でもあの講義、私以外に一回生がいないんです」
確かに、言われてみればそうだ。うちの大学は、水曜日は基本的に二限までしかないのだ。学会などと被っているためだろうが、詳しい事情は知らない。とにかく、水曜は二限で帰る学生が大半だ。水曜三限の講義をわざわざ受講する一回生は、まず存在しない。
「でも、飯食う友達なんて、いくらでもできるだろ。まだ一回生なんだから」
この時期は一人ぼっちの新入生が大半で、話しかけたらいくらでもすぐ知り合える。俺はその波にも乗れなかったが、この子は違うはずだ。俺を誘うだけの気概を持っているなら、友達なんてすぐ出来る。
それに向井は知り合うととても話しやすい奴だった。真面目だし、誠実だと思う。
ただ、それ故にあんなチャラけたサークルに入ったと言う事実を俺は残念に思った。この子も四年後にはクソビッチと化しているのだろう。あのサークルはそう言う場所だ。
向井と会うのは決まって水曜の二限目後だった。
昼飯を一緒に取って、そのまま三限の講義に出る。どうせノートをもらう口実に声をかけてきたのだろうと思っていたのだが、意外にも向井は毎回しっかり講義に来ていた。
メリー以外の人とまともに関わることのない俺にとって、向井と話す時間は息苦しさを覚える反面、新鮮なものでもあった。
「最近楽しそうね、あなた」
いつものようにプリンを作っていると、不意にメリーは言った。
「あ? 何が」
「明るい顔してる」
「そうかぁ?」
鏡で見る自分の顔はまるで変化がないが。うだつの上がらない学生がそこにいる。
「明るい、か……」
ひょっとしたら、自覚がないだけで、楽しんでいるのかもしれない。人と過ごすと言うことに。
「こんにちは、五十嵐さん。待ちました?」
六月に入って最初の水曜だった。その日も良く晴れていて、ピロティで昼食を取ろうと、向井に声をかけられた。
「別に。来たばっかだから」
「今日はあの女の人、一緒じゃないんですね」
ドキッとした。メリーのことだろう。初めて会った時以来、度々突っ込まれることがある。どうやら本当に見えているらしい。下手に知らないフリをしても不気味がられそうだったので、適当に流している。
「本当に彼女さんじゃないんですか?」
「彼女じゃない」
「じゃあ、何なんですか?」
「それは……」
言いかけて、言葉に詰まった。
何なのだろう、彼女は。
メリーは。
考えていると、あまり興味がなかったのか、向井はぱっと表情を変えた。
「あ、それよりも、お話したいことがあったんです」
「話?」
「ええ。実は、今度うちのサークルで飲み会があるんですけど、良かったら五十嵐さんも来ないかなって」
思わず顔をしかめそうになるのを何とか堪えた。
「いや、遠慮しとく」
四回生にもなって、昔一瞬だけ所属していたサークルの飲み会に参加できるほど、俺の神経は図太くない。
そもそも、飲み会自体が苦手で、今までずっと避けてきた道だ。いつも端っこの席で、誰とも話さず一人でビールをすすっている事が多い。飲み会なのに、一人で飲んでいるのと変わらなくなってしまう。
「どうしてですか。来てくださいよ」
「勘弁してくれ」
「来ましょうよ」
意外としつこい。うわべだけの誘いだと思っていたのに。
「他の奴誘えよ」
「五十嵐さん、つまらないです」
「つまらなくていい。それに、俺が行く方がつまらないと思うぜ」
「何でですか?」
「飲み会って言うのは親睦を深める場所だろ。俺が行っても、一人で酒を飲んでるみたいになるからな」
「それじゃあ、私と二人で飲みます?」
「「……はい?」」誰かと声が重なった。多分メリーだ。幸いにも、向井は気付いていない。
「正直言うと、私もサークルの飲み会はあんまり好きじゃなくて。だから五十嵐さんが良かったら、サシで飲みましょうよ。その方が私も楽だし」
「飲みを抜ける口実にするって事か。まぁ、そう言うことなら」
体良く抜け出すための口実に俺を使うと言うのは納得できた。俺に興味を持つ人間はいないと思っていたから、理由がないと何か裏があるんじゃないかと勘ぐってしまう。我ながら厄介な性分を抱えたものだ。
「五十嵐がそう言う集いに行くのは珍しいわね」
「集いと言うか、二人だけどな」
「あんまり行かない方が良いんじゃないかしら」
「まぁ、すっぽかすのも悪いしな。それにあいつ、別に悪い奴じゃないし」
「あなたには、そう見えるのね」
メリーの意味深な言葉に「どう言う意味だよ」と尋ねたが、ぐっちゃぐっちゃとプリンを咀嚼する音が返ってくるだけだった。
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