5-1
靴を履いて玄関のドアを開く頃には、飲み会が再開されるのがわかった。もうあの部屋には、俺を気にしている奴なんて居ないのだ。
と、奇妙な女が目の前に立っていた。
長いプラチナブロンドの髪をくしゃくしゃにした、不気味な女だった。この季節に不釣合いなごついワンピースを着ていて、髪に隠れてその表情は分からない。
ただ、その周囲にある空気は異常なほど冷え切っていた。すっかり温かくなった春の日にも関わらず、肌寒さを覚える。
俺と入れ違いに、女は向井の家に入ろうとした。サークルの奴かと思ったが、そうは思えなかった。ただ、こいつが誰であれ、俺にはもう関係のない話だ。
一つ気になるとしたら、女の気配に妙な懐かしさを覚えた事だ。
一つだけ心当たりがあった。
「メリー?」
ドアが閉まる直前、声をかけると、女の体が一瞬だけピクリと反応したのが見えた。しかし、すぐドアが閉まり、姿が見えなくなる。
その直後、中から悲鳴の様な声が聞こえた気がした。
手の平に汗がジワリと広がるのが分かった。
戻ったほうが良いだろうか。ドアノブに手をかける。
「五十嵐、早く帰るわよ」
不意にメリーに声をかけられて、ハッとした。
「居たのかよ」
「下らない用事が済んだんだから、早く帰りましょう。プリンが食べたいわ」
「……ああ、そうだな」
変わらない彼女の口調に、なんだか酷く安堵し、俺はドアノブから手を離した。
「あの子には注意しなさいって言ったでしょ」
川沿いの道を歩いて帰っていると、メリーがつっけんどんにそう言い放った。誰も居ない、静かな夜だ。
「気付いてたのか」
「良くない気配がしてたからね。それに、あんたも気付いてると思ってた」
「あぁ。……分かってた。ただ、考えないようにはしてたかな。ひょっとしたら、大丈夫なんじゃないかって。本当に、俺に興味をもってくれたんじゃないかって、ちょっと期待してた」
それは、俺がずっと胸の中に抱えていたことだった。
「昔からそうなんだ。誰も俺を見ない。家族からも見放されてるんだ。進学する時、一人暮らしをして家を出るよう宣告されたよ」
ただの暗い話だ。誰かに言うような事じゃない。でも、こいつには、話しておきたいと思った。
「小中高と友達はいなかった。あのサークルに入ったのもたまたま声をかけられたからだ。でも馴染めなくてすぐ辞めて、今日みたいな感じに使われてる。
大学を卒業したら、一人で、ずっと一生静かに暮らしていこうと思ってた。色々な事に諦めをつけて、独りに慣れれば、楽になると思ってたんだ」
「……楽になった?」
「全然、ダメだ。苦しくて仕方がないんだ」
声が震えた。吐く息が揺れる。好き好んで人生をないがしろにする奴なんていない。何度も自分を変えようとした。ちょっとずつでも、前に進もうと思った。
だけど、ダメだった。どうやっても上手くできない。
「この世界は、俺が生きるには難しすぎるよ」
すると、そっと背中に手を当てられた。
たった15cm後ろにいる、小さい手の感触。死体の様に冷たく、洋人形の様に硬かったけれど、温かい優しさが伝わってくる。
「私はあんたと居るの楽よ。気なんか使ったことない」
この奇妙な同居人の存在を、心底ありがたく思う。
「好きよ、あんたのプリン」
「プリンかよ」
二人して、少し笑った。
※
次の日目覚めると、体が随分と軽かった。ずっと全身に感じていた鉛のような重みもなくなっていた。
「メリー?」
声をかけたが、返事がない。流しを見ると、作り置きしてあったプリンが四つとも食べられた形跡があった。
そこで、俺は自分にとって大切な存在がいなくなった事に気がついた。
しばらく考えて、カーテンを開く。外からまぶしい太陽の光が入り込んできて、暗かった室内を豊かな輝きで満たした。
ふと、テーブルの上に手紙が置かれていることに気がついた。俺は静かに、その手紙を手に取る。
差出人は、メリーだった。
不慣れなガタガタの文字で、俺に宛てたものだ。
『イガラシへ
突然だけど、私はもう行くことにするわ。
みじかかったけれど、たのしかった。
私があんたを呪わなかったのは、多分抱えていたものがよく似ていたから。
あんたの中のさみしさは、私の中にもある。よく似てた。
あんたはアイソもないし、気づかいもない。
だから、ひどい扱いを受けることもあると思う。
でも、私はあんたを見て、人もわるくないって思うことが出来た。
このメリーさんに認められたんだから、このセカイで生きるのなんてカンタンよ。
だから、まえを向いていきなさい』
「下手糞な字……」
手紙をそっと胸に当てる。言葉が染みこんでくるみたいだ。都市伝説には似つかわしくない、温かい陽だまりの様な手紙。
こうして、俺と都市伝説の奇妙な共同生活は幕を閉じた。
※
あれから、ウイングスと言う旅行サークルは解散したと聞いた。何でも、主格だった学生達が退部し、運営も上手く行かず、そのまま流れるように消えたと言う話だ。
一度健悟を学内で見かけたことがあったが、以前とは打って変わって、やつれているように見えた。人が違うように生気を失い、まるで死人の様な顔をしていた。
あの日、俺が見た女は、やはりメリーだったのだと思う。
彼女は、俺のために何かをした。その全貌を知ることは、多分ない。
それから、一つだけ、変わった事があった。
「あの、五十嵐さん」
水曜三限の講義。開始されるまで席で待っていると、声を掛けられた。話しかけてきたのは向井だ。随分とやつれていて、目の下に隈がある。
「先日のことなんですけど、私……」
泣きそうな顔の彼女を見て、俺は深く溜め息をついた。もう、正直どうでもいい。
「いいから、早く座れよ」
「はい」
彼女は俺の隣に座る。何を言うべきかしばらく考えた末、こう言った。
「あいつは怖かっただろ」
「……はい、とても」
何か聞かれるかと思ったが、向井はそれ以上何も言わなかった。
向井だけがメリーを見られたのは、霊感があるからではなく、メリーがそうしていたからではないだろうか。俺に近付かないよう、警告をしていたのかもしれない。
多分メリーは、向井の真意を測ろうとしていた。向井の中には迷いがあった。だからメリーは、その迷いに免じて、灸を据えるだけに留めたのかもしれない。
彼女が去った理由は、最後までわからなかった。
でも、一つだけ、心当たりがある。
その理由は多分、実にあいつらしい、不器用な理由だと思う。本当に。
※
それから、数年が経った。
俺は無事に大学を卒業し、地方の小さな食品メーカーに就職することが出来た。それなりに苦戦もしたが、今は何とか上手くやっている。
その日は仕事終わりに、向井と飲みに行く約束をしていた。待ち合わせ場所に向かうため、人通りの多いスクランブル交差点を渡る。
その時、何か奇妙な存在とすれ違った気がして、思わず振り返った。
そいつは、大人の女性にも、幼い少女にも、小さな洋人形にも見えた。周囲の空気が冷えていて、それは人ごみの中でもよく分かるくらいには異質だった。
気がつけば、俺はその背中を追いかけていた。だが、どんどんと遠ざかっていき、追い着く事は出来ない。
一瞬だけ、振り返ったそいつが、こちらに手を振ってきたように見えた。
次に彼女と会うのは、一年後かもしれないし、六十年後かもしれない。
ただ、今はその時まで恥ずかしくない自分で居られるよう、もう一度現実と向き合って生きる事にする。
俺とあいつの距離は15cmだった。
くっつく事も、はなれる事もなかったその距離が、俺達にとっては居心地の良いものだった。
あいつが出て行ったのは、15cm以上の距離感を望んでしまったからじゃないだろうかと思う。少なくとも、俺はそうだった。
自分が人と相容れない存在である事を、ちゃんと分かっていた。だからあいつは俺の前から姿を消したんじゃないだろうか。
不器用だけども、優しいやつだ。
そんな、15cmの同居人と同じ時を過ごした事を、心から感謝している。
いつか再会したその時には、大きなプリンを作ってやることにしよう。
――了
私メリーさん。今、あなたのすぐそばにいるの 坂 @koma-saka
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