ep10 死生観メノウは柔らかくて冷たい

空が抜けるような青だとしたら、それは突き抜けるような黒だった。

「うわぁ……」

俺は思わず間抜けな顔で空を見上げた。

『宇世界』で最大の都市——通称『シティ』。

その中心に立ち並ぶ超高層ビルのうちのひとつが、『異世界管理会』が所有するものだと知ったからだ。

空まで伸びる黒くツヤツヤした表面を持つ巨大な箱は、どこか艶かしく、意思を持つ生物のようにも感じられた。

入り口に掲げられた小さな看板には、スタイリッシュな書体で構成されたロゴで『異世界管理会』とある。

どこをとっても無駄がなく、洗練された印象だった。


「こんなすごい建物に入ると、まるで自分がすごい人間になったみたいでいいですね」


興奮を抑えきれず言うと、デボラさんは空を仰いで控えめに笑った。


「ありがとう。でも、私の父は逆のことを言っていたわ」


「逆?」


「『まるで自分がすごい人間になったようで、最悪だ』って」


「……?」


発言の意味はわからなかった。

……しかし、デボラさんの仕草から、彼女の父がもうこの世界にはいないことだけはわかった。


中に入ると、まるで高級ホテルのロビーのような開放的な空間が広がっていた。

外から見るよりもやたらと広く感じる。天井が部分的に吹き抜けのようになっているせいだけではないだろう。周囲を見渡すと、壁面にガラスや鏡が効果的に配置されており、魔法のような視覚効果を生んでいる。

率直に言って、俺は感動すらしていた。こんな建物は見たことがなかった。


「素晴らしい建物ですね」


「ありがとう。でも、いかにも仰々しいわよね。すごい仕事してまっせ! みたいなさっ」


と、おどけるデボラさんを見て、そういえば久しくこういったお笑い好きな姿を見ていなかったなと気づいた。

本来の彼女はこういうくだけた喋り方をするのだろう。ただ、『異世界管理会』の会長という立場がそれを隠してしまうのかも知れなかった。


「いや、実際すごい仕事をしてるんじゃないんですか?」


「全然。ほとんど雑用みたいな感じよ?」


そういうものなのか。

世界を管理する仕事って、漠然としすぎていてまったく想像がつかないけど、考えてみればたしかに、実際にやることは草の根活動的なものだったりするのだろうか?

俺をここに連れてくるのも、デボラさんにとっては仕事なんだろうし。


ホールのような拓けた場所にあるエレベーターには乗らず、あまり目立たないドアを開ける。

細くすっきりとしているのに窮屈さを感じさせない廊下をしばらく歩くと、突き当たりにエレベーターがあった。

その重厚なドアの脇に小さなタッチパネルがあり、デボラさんはそこに何かを入力する。

ゴウ……ン——と、ドアが開いた。


「さあ、乗って」


「…………」


言われた通り乗り込むと、間もなくドアが閉まった。


「最上階に行きます♪ そこに極秘会議室があるので」


「いいんですか?」


誰でも行ける場所ではないように思えて気が引けた。


「テルキさんなら大丈夫。それに、大事な話がありますから♪」


手狭なエレベーター内で、デボラさんの囁きがまとわりつくように反響した。

俺は思わず息を飲んだ。

『大事な話』という言葉に緊張を憶えたからではない。もちろんそれも気になるが、それ以上に俺は感動に近い気持ちになりつつあった。

……俺は今、普通は行けない場所に行こうとしている。

そう考えると——昂るものがある。滾るものがある。狂おしいほどに。

いつもそうだった。

これが共感を得られる感覚かどうかはわからないが、俺は知らない場所に向かう時、胃のあたりがむずむずして、奇妙な浮遊感を抱くのだ。

体が疼いて、ワクワクが止まらなくなる。いくらかの緊張も手助けして、脳がジンジンと熱を持つ。

そんな感覚になる。


知らない場所。

行ったことのない場所。

もしくは行ける人が限られている場所。

——そういった場所に行く時の、そんな昂ぶりが、俺は好きだった。

人は勘違いしている。我々は自由で、どこにだって行けるなどと思い違いをしている。

俺たちは、どこにでも行ける自由を手にしているようで、実のところどこにも行けない。

——正確に言えば、行けるように仕向けられている場所にしか行けない。

思い返して欲しい。コンビニのバックヤードに入れるか?

興味深いシルエットからもうもうと煙が吐き出される工場のフェンスの中に入れるか?

マンションの廊下を隔ててドア一枚向こうにある他人の部屋に入れるか?

閉ざされた国家においてデリケートな領域を、暖簾をくぐるように垣間見ることができるか?

地下に張り巡らされている水路でサイクリングできるか?

存在さえ想像できない場所が隠されていないか?

行けない場所がどこかについて考える機会さえ奪われていないか?

俺たちは自由だ、という言葉の裏に潜む『不自由』に思いを馳せることさえ思いつかないのではないか?

——そう思うと、行ったことのない場所、誰にでも行けるわけではない場所に行くということが、とてつもない僥倖に思えてならないのだ。

この『異世界管理会ビル』の奥まったエレベーターもまた、決して隠された場所ではないが、おそらく誰もが立ち入れる場所ではないだろう。事実、デボラさんがパネルに入力したコードを俺は知らないし、今後教えてもらえはしないはずだ。

誰にでも入れるわけじゃないという事実が、俺を高揚させる。静かな興奮が腹の底から湧き上がる。

しかしデボラさんの手前、それを押し殺して平静を装った。


「…………」


「…………」


エレベーター内で横並びに立つ俺とデボラさん。

こういう時に無言になってしまうのは『宇世界』も同じらしい。

気まずさはなかったが、ここでスマートに話題を振った方が男としていいのだろうか……。

しかし無理に話しかけるのも、余裕のなさを表してしまう気がする。

いやでもなあ。余裕のなさが露呈するのを嫌って押し黙るのも肝が小さいんじゃないか?

だがしかしだ! 肝っ玉の小ささを悟られまいと話し掛ける時点で目的を見失ってるだろうに。

——などと、グルグルグルグル考える。

そうしているうちに、次第に耳が痛くなってくる。高度のせいだろう。唾を飲み込んでやり過ごすと間もなく、「チン♪」という音とともにドアが開いた。


その瞬間、俺の目に飛び込んできたのは——重厚なシルバーグレーのカーペットだとか、オフホワイトの壁だとか、天井に等間隔に配置された灯から拡散される青みがかった光——などではなく。

……ひとりの青年だった。


「はじめまして、テルキ君。私は死生観メノウ。『異世界管理会』の副会長をやっているんだ」


見たところ、二十代前半。俺よりは年上だが、デボラさんよりは年下だろう。

銀色のミディアムヘアを気だるげに目元に垂らし、青く光る瞳でこちらを見ている。

一言で形容するのなら、『美青年』。

すらっと線が細く、浮世離れした幽玄な雰囲気を纏っている。

この男が、副会長……?


「よろしく頼むよ」


にこやかに、彼はそう言った。

恭しく、柔らかな口調なのに、どこか冷淡さがあった。


俺は直感的に、この男は信用ならないと感じた。

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漆木デボラ曰く、宇世界は完全な世界である 吉永動機 @447ga

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