番外編3 返礼
丁寧に糸の始末を終え、百合は満足げに布を大きく広げた。
「間に合いました!」
激務を終えて訪れた
「なにを熱心に繕っていたのだ?」
声音に少々の非難がこもるのも仕方がないだろう。ここ数日は、毎夜この調子だったのだから。
「陛下の外套です。明後日から、北方の視察に向かわれると伺ったので」
百合は黒い布をひとまとめに抱えて夫の背後に回ると、長椅子に座る苑輝の肩にふわりとそれをかけた。
雪が降り始めたという北の地でも寒くないよう厚手の生地を使い、衿元と脛まで届く丈の裾には毛皮を縫いつけてある。
「これは……銀狐か」
首元を包む毛皮を、滑らかな感触を楽しむように幾度も撫でる。
「アザロフを立つとき二番目の兄が、結婚祝いにと持たせてくれたものなんです」
苑輝との取り決めで、
「それほど大切な品を、
「わたくしには陛下から賜ったたくさんの衣がありますもの」
先日も冬に向けての衣装が尚服局から大量に届いたばかり。それでも歴代の皇后たちがひと冬に誂えた量と比べれば、三分の一にも満たないという。
「それに陛下を寒さからお守りできるのなら、わたくしも、きっとこの
苑輝の首へと伸ばした百合の手が、銀色の被毛に届く前に捕らえられてしまう。
「余は百合がこの腕の中にいてくれるだけで、十分に温かいのだが」
指が絡められ、そのまま引き寄せられそうになった広い胸に、慌てて空いている手を置き距離をつくる。百合の視界の端ではまだ、裁縫道具を片付けている方颯璉の姿がチラついていた。
「もっとお時間をいただけたら、背中に刺繍を入れようと思っていたのですが」
そっと胸を押し返し、衿元から一枚の紙を取り出した。
「下絵だって。ほら、このように……」
小さく折りたたまれた紙を受け取った苑輝は、開いた紙面に墨で描かれた画を見て困惑げに眉を寄せる。
「これはまた、ずいぶんと斬新な図案だな。脚の生えたミミズとは」
途端に百合は頬を膨らませた。
「……龍、です」
表情が固まった苑輝から紙を奪い、破り捨てようとする。その手を大きな手のひらが包んだ。
「止めなさい。せっかく描いたのにもったいないではないか」
「よいのです。どうせミミズの絵など、なんの役にも立ちません」
「そんなことはない。ミミズは薬にもなるし、田畑の土を育ててくれる。立派なこの国の一員だ。それにこれは『龍』なのだろう?」
苑輝は百合の手から画を取り上げ、丁重にたたみ直す。それを懐にしまうと、百合の腰を抱き寄せ膝の上に乗せた。
「苑輝さま?」
「そなたを連れていくことができない代わりに、護符として持っていこう」
翠の目を見開く百合の顔を隠す金色の髪が、羞恥に染まった耳に掛けられる。苑輝の指が掠めていった場所から、みるみるうちに淡い熱が広がっていく。
「……皆が見ております」
か細い声でした抗議は、意地悪な笑みにあっさりと霧散させられた。
「さて。皆とは誰のことだ?」
苑輝の腕の中から房内を見渡せば、いつの間にか侍女たちの姿はない。
忙しなく動いていた百合の顔が、頤を摘まむ苑輝の指によって固定される。黒い瞳の中に、上気する自分の姿をみつけた。
「出立前に、素晴らしい贈り物の礼をさせてはくれないか?」
礼とは?
百合のくちびるが、苑輝にそれを問うことはできなかった。
【 了 】
愛し君に花の名を捧ぐ 浪岡茗子 @daifuku-mochi
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