番外編2 中秋

 今宵は中秋。

 園庭に用意させた座で葆の皇帝苑輝えんきは、白磁の盃に浮かぶ丸い月ごと酒をあおった。


「まだか?」


 碁盤に白い額がつきそうなほど前のめりになっていた百合が、翡翠色の瞳だけを上向ける。


「あと少し。もうちょっとだけ待ってください」


 再び盤へ目線を戻してしまった后へ苦笑を落とし、苑輝は手酌で盃を満たした。

 ようやく百合は広袖の口を押さえて、すっかり熱の移った黒い石を静かに置く。夫を窺うように、上目で次の手を促した。

 間髪を入れずに苑輝が白い石をパチリと打つと、妻から「あっ」と小さな悲鳴があがる。


「そこは……待ってくださいませ。お願いです、陛下」


 眉尻を下げ瞳を潤ませる百合に、またもや懇願されてしまった。


わたしは、さっきから待たされてばかりだな」


 あきらかな棋力の差を示されてもすがりつき、挑んでくる妻の相手をするのは、これで何局目だろう。思った以上に負けず嫌いらしい。

 その証拠に小さな口を尖らせ、仔リスの如く頬を膨らませる。


「これくらい、わたくしが陛下をお待ちしていた日々に比べれば、たいした時ではありません」


 単身この国へ嫁いできた西国の姫を、廃墟同然の宮に放っておいた期間を咎められれば、苑輝はおとなしく打ったばかりの碁石をはがすしかない。

 百合も少しの間悩んでから、自分の石を違う碁盤の目に置き直して、対局は続けられた。

 やがて明るすぎるほどの月の光で星が少ない夜空の代わりに、小さな盤上が白と黒の星で埋まる。


「……負けました」


 本気で肩を落として項垂れた百合の、麦の穂色の髪に差した歩揺が澄んだ音を奏でた。

 終局を待っていたかのように虫の声が大きくなる。そよぐ夜風にはもう、秋の気配が含まれていた。


「まだ覚えたばかりで、これだけ打てれば十分だ」


 気を落ちする妻を慰めようとするも、百合はキッと盤面を見つめていた視線を向けてくる。


「今一度! あと一局だけお付き合いくださいませ」


 膝の上で固く握られていた白い拳を苑輝は持ち上げ、己の手の中に包み込んだ。


「またにしよう。いい加減に戻らないと身体を壊してしまう。こんなに冷えているではないか」


 息を吹きかけてやると、百合は手よりも顔を赤くする。

 夫婦となり一年が経とうというのになお初々しい反応を見せる妻に、年甲斐もなくつい悪戯心が芽生えた。


「葆では、中秋に食べた月餅の数だけ、伴侶の寿命が延びるといわれている。どうだ? 言い伝えの真偽に白黒をつけてみたくはないか? へやに用意させよう」

「それでしたらわたくし、十でも二十でも食べられます! どうしましょう? 苑輝さまは二百まで長生きなさいますわ」


 嬉しそうに顔をほころばせる百合に手を引かれ、苑輝たちは殿舎へ戻った。


 ――それから。

 いくら戯れだと告げても、涙目になりながら月餅を口に運び続けた皇后と、夫の息災を常日頃から願う妻の健気な想いを弄んだ皇帝は、方颯璉から特大の雷を落とされたのだった。



 【 了 】

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