番外編
番外編1 揺揺
きらきらきら。窓から差し込む春の陽光を反射して、板張りの床に光の欠片が散りばめられる。リーリュアが右手を左右に動かすと、しゃらしゃらと涼しげな音が加わった。
『これは髪飾りなの?』
すっかり馴染みになった黒髪の商人に顔を向けると、緩やかに波打つ金色の髪が遅れてついてゆく。
『左様でございます、姫さま。歩揺と呼ばれる簪の一種となっております』
『ほよう。ほよう。ほ、よ、う』
初めて知った葆の単語を、小さな口が何度も繰り返す。その間にもリーリュアは、木の葉状にした金片が連なる髪飾りを揺らし、音と光を作り楽しんでいた。
それほど大ぶりなものではないが、幾枚も花びらを重ねて作られた花や、各々異なる葉脈を持つ葉の緻密さからも、高い技術が窺われる。
『葆のお城にいる女の人は、皆これを髪に挿しているの?』
『我が祖国は豊かな金脈を有しております故、自ずと金細工も盛んになりました。そちらのお品も熟練の名工が手がけた逸品。後宮におわす方々――皇帝陛下のお妃様にお納めしても、必ずやご満足いただける質だと自負しております』
商人らしく滑らかな口上は、まだ葆の言葉を勉強中のリーリュアには早すぎて、半分も理解できないのだろう。解答を求めようと、不機嫌な顔で戸口に立つキールを振り返った。
「オレ!? オレに訊かないでくださいよ。……“金”とか、“皇帝の妃”がどうとか?」
「葆の、皇帝の、お妃……」
リーリュアは金歩揺を目の高さに掲げて吐息混じりで呟く。一拍後れて、自分の口から漏れた言葉に、ぴくりと眉を跳ねかせた。
『あっ! ダメよ、キール。ここではアザロフ語を使ってはいけないの。約束したでしょう?』
「そんなこと言ったって……」
自国にいて自国の言葉を使うことを、どうして制限されなければならないのだ。異議を申し立てようとするキールを、リーリュアは口を尖らせ黙らせる。
『言葉を早く覚えるには使うことが一番だって、言語学の先生も言っていたわ。決めた! 今日からお城でも、ふたりの時は葆語でお話ししましょう。いいわね?』
『はっ? なんでオレまで……』
抗議のため小さな
『どう? 似合う?』
手にした歩揺を自分の髪にかざし、嬉しそうに微笑んでみせる。
キールの目には、黄金で作られた花びらよりも柔らかい輝きを放つ髪が、花心にあしらわれた珊瑚より艶やかな口唇の方が、数段眩しく見えた。
『よくお似合いで。お気に召されましたら、そのままお持ちになられますか』
愛想のいい笑みを浮かべた商館の主人は、さっそく揉み手で商談をまとめにかかる。
しかし、手を下ろしたリーリュアは毅然と首を横に振った。
『こんな物を持って帰ったら、行儀作法の授業を抜け出してここへ来たことが、父さまや母さまに知られてしまうもの』
『でしたら、お城に納品するほかの荷と合わせて……』
なんとかして売りつけようとする主人を制し、そっと歩揺を机の上の桐箱に戻したリーリュアは小さく肩をすくめた。
『そんなのいけないわ。これは高価な品物なんでしょう? 今この国には、お金を使うべきところがもっと別にあるはずよ。そういうのを、さんさん……さんさい?』
『散財。無駄遣いのことですか?』
『そう、それ! すごいわ、キール! よく分かったわね』
手を叩いて賞賛され、キールは決まり悪そうに顔を窓の外へ向ける。
『リーリュアさま。そろそろ城へ戻らないと、この前みたいに、また近衛たちの捜索隊が出されてしまいますよ』
促されたリーリュアは、もう一度だけ名残惜しげに歩揺に視線を落としてから、アザロフの城下街に設けられた葆国の商館をあとにした。
「姫さま、もうお帰りですか? お気を付けて」
「ありがとう! あなたも元気な赤ちゃんを産んでね」
真っ直ぐ城を目指すリーリュアは、いまにも弾けそうな腹を抱えた妊婦へいたわりの言葉を返す。
道中、町娘に扮したつもりの自国の王女を見かけた街の人々から、気易く挨拶を投げられたり、頭を下げられることは数え切れない。それらに花のような笑顔で応えるリーリュアには、あんな簪は必要ないと思う。
なのにふと、キールは目の前で揺れる髪を、さらに美しく飾りたい衝動に駆られた。
「姫さま」
「なあに?」
キールの呼びかけにリーリュアが脚が止め、その脇を馬車が走り抜けていく。埃っぽい風が、彼女の髪を乱暴になびかせた。
砂埃でも入ったのか、リーリュアはしきりに目を瞬かせる。具合を確かめるために伸ばした手を、キールは陶器のように滑らかな白い肌に触れる寸前で引き戻した。
「こすっちゃ、ダメです。どこかで目を洗ったほうが……」
視線を巡らせ水場を探しに行こうとするも、身体は前に進まない。上着の背中を掴まれてしまっていたのだ。
「大丈夫よ。急ぎましょう」
振り返ると、リーリュアは僅かに赤くなり潤んだ眼をやや伏せ、乱れた髪を耳にかける。ただそれだけの仕草が、キールの鼓動を速めていく。
露わになった白い首筋から思わず目を逸らし、零すように囁いた。
「……さっきの髪飾り」
「うん?」
「オレが買ってあげます!」
意を決し宣言してみせると、大きく見開かれた翡翠色の瞳が、真正面からキールを捉えていた。
「なに言ってるの? とっても高いのよ」
「す、すぐには無理でも、入隊して近衛騎士になれば、あんなのいくつだって!」
耳と顔を真っ赤にして言い募るキールの亜麻色の髪を、リーリュアはくすくすと笑いながらかき混ぜる。
「ありがとう。でも気持ちだけで十分よ。いつかその日がきたら、ラリサになにか買ってあげなさいな」
キールの母親の名を出し、両手で裾を少しだけつまみ上げる。
「さあ! 早く戻らないと、母さまの怖い怖い雷が落ちるわ」
リーリュアはぶるりと小さく身体を震わせると、王城へ続く坂道を駆けだした。
◇
向けられた宝玉のような緑の瞳は、少し不安げに揺れていた。
「ねえ、やっぱり変なのよ」
細い首が傾けられる。
結い上げた髪でしゃらりと澄んだ音色を奏でたのは、あの日商館で見たものにも引けを取らない、見事な細工の金歩揺だった。
【 了 】
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