終章 誓詞

第十九話

 雷珠山から吹き下ろされる夏の風が白い花を揺らす。その様はまるで、天上の楽を奏でているかのように優美だ。

 現にやさしく郷愁を誘う歌声が、どこまでも続く空に向かい広がっていた。


「今年は咲いたか」


 歌が止み、夫の姿を見留めたもう一輪の花がほころぶ。


「去年は、食用と勘違いした女官に根をほじくり返されて災難でしたけれど」


 今度は楽しげな笑い声が天に昇っていく。

 リーリュアが後宮の主となった年に、苑輝は後宮の一画にアザロフから取り寄せたユリの球根を植えさせた。しかし土や水が合わないのか、気候が違うためかなかなか上手く育たず、この夏にようやく三株だけが花をつけたのだ。


「出歩いて大丈夫なのか?」


 苑輝に腰を支えるように抱かれ、リーリュアは肩に頭を乗せて寄りかかる。


「今日はいままでが嘘のように気分がいいのです。食事も摂れましたし、この子に歌を聴かせてあげようと思って。――ちゃんと歌えていました?」


 膨らみがわかるようになった腹に手のひらを添え、子守歌の師でもある夫に尋ねた。


「ああ、わたしよりもうまい」

「よかった。将来の皇帝が音痴になっては困りますもの」

「べつにかまわんと思うが……。それよりも、もう男子と決まったのか?」


 驚いたように苑輝は視線をさげるが、そんなはずはない。しかしリーリュアは確信を持ってうなずいた。


「きっとそうです。陛下にそっくりの逞しくうつくしい男の子です」

「余は百合のような、豊穣を約束してくれる黄金の髪と緑の目をもつ、愛らしい娘でもいい」


 穏やかな表情の夫の傍らで、心地よい風と微かに届くユリの香の中、リーリュアは、これまでの目まぐるしく過ぎた年月を思い出す。

 ふたりで過ごしてきた期間はまだ短いが、嬉しさも哀しみも、密度の濃い日々だった。


「……百合」


 リーリュアは下ろしていた瞼を開け、ゆるりと持ち上げた首を傾ける。


「おそらく余は、そなたより先に逝くことになるだろう」

「陛下っ!?」


 唐突に持ち出された宣告に、リーリュアは柳眉を逆立て咎めるように睨み付けた。苑輝が喉の奥で笑う。


「まあ、そう怒るな。もちろんいますぐのつもりはない。ただ、自然の理としての話だ」


 理屈ではわかる。四十に手が届いた苑輝のほうが、まだ二十代半ばのリーリュアよりも先に死ぬ可能性は高い。この世に生きるものとして、避けられない事実だ。だがたとえその日が訪れたとしても、受け入れることなどできないだろう。

 人の命は物ではない。


「己の成すべきことを成し、跡を遺す者に任せることができると納得したら、無理に生を延ばそうとは思わない」

「そのようなこと、考えたくもありません」


 苑輝はいまにも泣きだしそうなリーリュアの右手をとると、その手のひらに人差し指で文字を綴り始めた。


「百合は葆の文字で、『百』度『合』う、と書く」


 くすぐったさと温度を、苑輝の指先が丁寧に一画ずつ掌の上に残していく。目には見えないそれが消えてしまわないうちに、リーリュアは閉じ込めるようにしてそっと握った。


「たとえ百回生まれ変わったとしても。この世のどこにいようとも。必ずそなたを見つけ出しまた巡り合うことを、余はあの白い花に誓う」


 そよぐ百合の花に移していた視線を、苑輝はリーリュアに戻して微笑み、風にもてあそばれていた麦穂色の後れ毛を耳にかける。形を確かめるように、指先がリーリュアの耳の縁をなぞった。


「だから百合は、ゆっくりおいで。いつものように、飛び込んでこなくていい」

「それは……少し難しいかもしれません」


 難問を課せられたリーリュアは眉根を寄せ、苑輝に背を向ける。


「以前に、思悠宮の幽鬼のお話をしましたが、覚えていらっしゃいますか」

「ああ、みごとに正体を見破ったと。たいした度胸だと感心したものだ」


 リーリュアとて怖くなかったわけではない。「ただの噂」だと言った苑輝の言葉を信じただけだ。それに加え、偶然みつけた恋文の存在が、廃后となった皇后の幽鬼の存在を否定していた。


「死を賜った皇后が宦官と来世で結ばれるためには、いつまでもこの世になんて留まってはいられないでしょう? 愛しい人のいない世界にたった独りで残っていても、しかたがないではありませんか」

「まさか、そなた……」


 うつむいたリーリュアの肩を、苑輝の手が掴んだ。けっして強い力ではないが、その重みから焦りや戸惑いが伝わってくる。

 リーリュアは腹の上で両手を重ねてくすりと笑うと、勢いをつけて身を翻す。


「だって、わたくしは陛下の腕の中が大好きなのですもの」


 身重の妻に飛びつかれ、苑輝は焦る。抱き留めると同時に、全身に異常がないかと目を走らせた。


「危ないではないか。なにかあったら……」

「ですから! 苑輝さまはいつまでもずっと、傍でわたくしを見張っていてくださらないと困ります。わたくしは来世の約束より、をあなたと繋げていきたいのです」


 幼子に戻ったように頬を膨らませる妻に、苑輝は観念の苦笑を返す。


「まったく。これでは百まで生きても、心配で逝けないではないか」

「それでよいのです。約束は『歳になっても、ふたりで笑いう』に変更です」


 言質を取ったリーリュアは、満足げに微笑む。

 苑輝と交わした約束は、必ず守られると知っているから……。


  

 ――国内外に賢君と広く名を遺した成朋帝の御代。その彼の輝くそので、たった一輪だけ咲いた大輪の白百合の恋愛譚――



 【 完 】

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