第十八話

 目の前でお手本のような跪拝をする方颯璉に、リーリュアは困惑していた。立ちあがるように告げても、頑なに拒まれているのだ。


「お願いではないの。これは命令よ、颯璉。顔をお上げなさい」


 強い口調で命じてようやく、この数日でいっそう骨張った顔をリーリュアに見せる。


「丹紅珠を西姫のお側に置いたのは、私の過ちです。どうか、いかようにもご処分くださいませ」

「たとえば?」

「ご所望ならば、この首を差し出す覚悟はできております」

「やめてちょうだい。そんなものいらないわ」


 ぞわりと粟立つ腕をさすり、紅珠の遺書ともいえる告白文に目を落とす。さきほど颯璉が読み上げた内容は、リーリュアの胸をまた苦しめるものだった。


 紅珠の死後検められた彼女の私物からは、この書とともに様々な証拠の品がみつかっている。

 食事や茶に混ぜるようにと渡された毒物。貢物にまぎれて届けられた呪詛の仕込まれた品。割れた碗。そして、茱萸袋。

 紅珠が企てた、屋根瓦をずらし修繕の連絡を怠るといった些細な嫌がらせにも動じなかったリーリュアに業を煮やした崔勧は、彼女に毒を渡した。それをネズミで試した紅珠は想像以上の効果を知り、己のしていることの恐ろしさに気づいたという。けれど、囚われている家族のことを考えると投げ出すわけにはいかない。苦肉の策として、自分の手で計画を邪魔することにした。


「桃の画より鴛鴦を選んだのも、青磁の碗を割ったのも、みんな、わたくしを守るためにしてくれたことだったのね」


 崔勧はあの桃の画に呪符を隠していた。湯謙保から送られた碗には、熱で少しずつ溶けだす毒が釉薬に混ぜられていたのだ。しびれを切らせた彼が、御花園で話した内容にも腑が落ちる。

 いくら待ってもリーリュアの様子に変わりがない。その一方で、庚州でなにやら動きがあると伝えられる。後ろ暗いものを抱える者たちの焦りは募っていく。

 これで失敗すれば、家族の命は保障しない。脅しの言葉とともに茱萸袋に入れて渡されたのが、紅珠が自らの胸に刺した毒針だった。それでも紅珠は決行をためらっていた。

 そのうちにリーリュアの立后が決まり、崔勧らからの脅迫は激化する。そうしてついに、紅珠は実行に移したのだ。


 調べは、鉱山の不正も含めてまだ続けられている。

 そのなかで、救出された丹家の者たちは流罪となり、永菻を離れた。紅珠の弟の仕官はもう叶わないだろう。それでも連座での死罪を免れたのは、リーリュアを刺そうとしていた彼女の針からは、なんの毒も検出されなかったためだ。

 そして殺されかけたリーリュア本人が、減刑を願い出たということもある。

 昇陽殿の壁には鴛鴦図が掛けられたままだ。

 これからもこの画を見るたびに、リーリュアは丹紅珠のことを思い出すだろう。そして彼女のように、その一生を戦のために狂わされた人々が、この世界に数え切れないほどいるということを――。

 

「西姫さまに害を及ぼす品に気づかず受け取ってしまったこと、お詫びのしようもございません」


 再び額を床に打ち付けそうな颯璉に、リーリュアは首を振った。


「だれも、実名で贈られた品に敵意があるなんて思わないわ。紅珠のおかげで、わたくしはこうして無事だったのですもの。もう、その話は止めましょう」 

「しかしそれでは……」


 颯璉はあくまでも処罰を望む。

 根負けしたリーリュアは、いいことを思いついたと瞳を輝かせた。

 

「では、こうしましょう。今後、わたくしを西と呼ぶのは止めなさい」

「なんとお呼びすれば?」

「リーリュアは無理なのでしょう? ならば陛下からいただいた名で、『百合』と」


 だが颯璉は、皇帝自らが命名したものなど畏れ多いと、なおも渋る。


「なんでも言うことをきくと申したではないの。名は呼ぶためにあるのよ。こんなすてきな名前を、陛下にしか呼んでもらえないなんてもったいないわ」


 これ以上の言い争いは不毛だ。リーリュアも引くつもりはない。しばし睨み合ったあとに折れたのは、分の悪い颯璉だった。


「……百合姫さまのご恩情に、感謝いたします」


 深々と拝礼した。


◇ 


 高い青空に風花が舞う。雷珠山に被る雪が、日に日に麓へ向け降りてきているようだ。葆の宮処に本格的な冬が訪れようとしていた。


「婚礼までとはいわないが、せめて春になるまでいればいいだろう? それくらい陛下も許してくれると思うが」


 まだ朝早い皇城の西大門の前で、剛燕は大きく伸びをした。キールの連れている馬がびくりと耳を動かす。


「禁足地の山に入って、お咎めが国外退去だけですんだんです。これ以上特別扱いされたら、姬さまにも迷惑がかかってしまいますから」


 剛燕の邸を出たあと、キールはアザロフには戻らず永菻に留まっていたのだ。

 昼なお暗い山林も険しい山肌も、アザロフの山々に慣れた彼にはそれほど苦にならない。霊峰として立ち入りを禁じられている雷珠山に分け入り、山の獣を狩って生活の糧にしていた。

 呆れた剛燕から、どうやって潜り込んだのかと不思議そうに尋ねられ、「陸地は繋がっている」と答えた。山全体が壁で囲まれているわけではないのだ。道はどこにでもある。

 北の守りを考え直さなければと、国防の一画を担う剛燕は本気で頭を悩ませていた。


「まあ、一応姫さんの命の恩人だから。だが、針などよくわかったな」


 あの日も、キールは獲物を探して雷珠山山中にいた。偶然みかけた輿を追いかけ、あの場面に遭遇したのだ。


「ちょうど陽が出たんですよ。それに、指の間に挟んていた針が反射して。挙動もなんだか不自然だったし」


 皇后になるとの噂を耳にして、リーリュアを見るのはこれがきっと最後だと思った。その姿をくまなく目に焼き付けようとしていたからこそ、些細な違和感に気がついたのである。


「その目、やっぱり惜しいな。どうだ? 髪を染めてウチの兵に入らないか?」

「いやですよ。眼はどうするんですか。それにオレは、これまでもこれからもアザロフの民です……って止めてください!」


 ぐしゃぐしゃと、葆に滞在している間に伸びた亜麻色の髪が豪快にかき回される。その手を払い退けようと奮闘するキールを呼ぶ声がした。


『リーリュアさま!?』


 本人は変装したつもりなのだろう。宮女の官服に身を包み、頭を面衣で覆って目立つ髪を隠したリーリュアが、息せき切って駆けてくる。あまりの勢いに編んだ金色の髪は背で大きく揺れ、はためく布はまったく意味を成していない。

 終いには途中で落ちてしまったそれを苦笑しつつ拾ったのは、なんと皇帝陛下だ。


「やっとお出ましか」


 にやにや笑いの剛燕を、キールが睨みつける。どんな顔を合わせていいのかわからない。


「黙って帰るつもりだったの? お礼とお別れくらい言わせてちょうだい」


 リーリュアはすでに涙目になっている。これがわかっていたから、そっと帰ろうとしたのだ。キールは肩をすくめてみせた。


「これでもオレは罪人ですからね。皇帝陛下ご夫妻に見送っていただけるような身分じゃありません」


 リーリュアの隣に立つ苑輝が、申し訳なさそう眉根を寄せる。その顔にある疲労の色は隠せない。


「すまない。あれだけの大事になってしまっては、無罪放免というわけには……」

「わかってます。むしろ、寛大なお沙汰に感謝しているくらいです」


 西姫暗殺未遂の首謀者である崔勧に下された刑を思えば、こうして自分の脚で葆を出ていくことができるのは奇跡なくらいだ。

 どうやらこの国の君主は、夫婦揃っていろいろと甘いらしい。キールは、他国の内情ながら心配になる。

 しかし、苑輝が自分の外衣をリーリュアの肩にかけ、「寒くはないか」「大丈夫です。陛下こそお風邪を召されたら大変です」などとじゃれ合っている姿を見せつけられたら、それも余計なお世話なのかと思い直す。

 キールは剛燕を手招きして耳打ちした。


「おっさんがオレを従者にしたのって、陛下を焚き付けるためだったんだろう?」


 剛燕はなにも言わずに、にいっとヒゲといっしょに片側の口角を上げてみせる。

 純情を大人たちにいいように弄ばれたキールは、「陛下」と苑輝に対峙した。


「僭越ながら。オレとひとつだけ約束してください。――この先、リーリュアさまだけを愛すると」

「キール? あなた、なにを……」


 妙なことを言いだした幼馴染みに慌てふためくリーリュアを、苑輝が腰を抱いて引き寄せる。 


「もし破ったら?」

「そのときは返してもらいます。後宮に侵入して攫ってでも」


 三度目はない。キールの真剣な眼差し受け、眩しげに目を細めてから、苑輝は不敵に口の両端を上げる。


「そなたには残念だが、この手がわたしを離してはくれないのだそうだ。それに妻は生涯、百合ただひとりきりと決めている」


 誓うように、苑輝がリーリュアの手に口づけた。途端、リーリュアの顔がみるみるうちに紅く染まっていく。


「苑輝さまも大人げねえなあ」


 楽しげな剛燕の声が、キールの心に残っていた淡い光を放つ欠片を吹き飛ばした。


「じゃあ、そろそろ帰ります。みなさん、お元気で」


 すっきりした気持ちで、手を胸の前で重ねた辞去の礼をする。その手をほどき、旅荷を積んだ馬の手綱を引いた。


「キール!」


 リーリュアが数歩、後を追いかけてきた。キールはゆっくり振り返り笑顔を向ける。


「いままでありがとう。――どうか、身体に気をつけて」


 葆語で言い微笑みを返す彼女の瞳に涙はない。この国で皇后として生きていく覚悟が、本当にできたのだと悟った。


『リーリュアさまも、末永くおしあわせに』


 歩き始めたキールはもう、一度も後ろをみることはなかった。

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