第十七話
上下左右に激しく身体を揺すぶられ、リーリュアは小声で呟き、苦痛に眉根を寄せる。
「陛下の嘘つき」
リーリュアと苑輝をそれぞれに乗せた輿は、雷珠山へと繋がる皇宮の北大門をくぐり、山の中腹に建てられた宗廟を目指す。
まだ暗く険しい山道を登っていく輿に、リーリュアはただ乗っているだけでいいはずなのだが、一応は道としての体裁が整えられているとはいえ、雷珠山全体が皇家直轄の地として民の立ち入りが禁じられた聖地である。道程は激しい揺れを伴い、転がり落ちないようにするのが精一杯。寝ていれば着くと言った苑輝の言葉は、まったくの偽りだった。
輿を覆う白い紗を少しずらして景色を覗く。道の左右はすぐに深い山林が広がり、多くの木々が色を変えた葉を落として冬支度を始めていた。
空気が皇城のある麓よりもいっそう冷たく感じるのは、前をゆく苑輝の輿が判別できぬほど立ちこめる靄のせいだけではないだろう。辺りに漂うどこか凜とした雰囲気は、霊峰と崇められるものに相応しい。。
自生する樹木も、なりを潜めてこちらを窺う生き物も異なるというのに、リーリュアは生まれ育った故郷の山を思い出していた。
次第に生える草木の種類が変わる。ずいぶんと高く登ったところで、急に輿の揺れが緩やかなものになった。聞こえる足音も固いものに変化したことから、山の中腹を切り開いて建てた宗廟に到着したとわかる。ほどなく紗幕越しの正面に現れた建物は小さく、そこに荒ぶる龍が封じられているとはとうてい信じられない。
先には苑輝が乗った輿もある。リーリュアは停止した輿の中で姿勢を正し、そっと身なりを整えた。
ゆっくり下ろされた輿の幕が除けられ、よりいっそう静謐な気がリーリュアを取り囲んだ。
輿に付き添い山道を歩いてきた紅珠が、降りようとするリーリュアに手を差し出す。いつの間にか靄は晴れ、ぽっかりと開いた空からは陽光が差し込んでいた。
眩しさに目を細めたまま、延べられた手に己の手をのせようとした、そのときだ。
『ダメだ! 姫さまっ!!』
懐かしい声がしたかと思うと、紅珠の身体が勢いよく突き飛ばされ
『キール!?』
輿の前に飛び出してきたのはリーリュアにとって大切な友人だが、この場にいる者たちには淡い色の髪をした不審人物にすぎない。禁衛兵らが彼を取り囲み、慎重に包囲を狭めていく。キールは一瞬、腰の柄に手をかけたが、舌打ちして空手で構える。そのことと、人数の有利に油断したのだろう。まずはひとりが飛びかかった。素早く腰を落としたキールが足払いをかけると、仰向けにひっくり返る。磚をしたたかに打つ銀の鎧の音が、ほかの兵の意識を変えた。
そうなると多勢に無勢。しかも相手は、皇帝を守る禁軍の兵士らだ。抵抗のかいなく、取り押さえられる。
引き倒されて腹這いになった。髪を掴まれ、左右の腕を後ろから捕らえられたキールは、それでも振り解こうと必死にもがく。
複数の兵が剣を抜く耳障りな金属音に、リーリュアの全身が粟立った。
「お止めなさいっ! その者はわたくしの知り合いです」
悲鳴まじりの叱責が、その場の動きを一旦止める。剣が引かれるのを確認し、リーリュアが動く。
「紅珠! 大丈夫?」
まだ倒れたままの彼女を助け起こそうと、リーリュアは輿から降りて近寄った。
『姫さま! そいつに近づいちゃいけない!!』
紅珠の傍らに膝をついたリーリュアは、再び叫んだキールに気を取られる。
「どういうこと?」
意味がわからず目を離したため、紅珠が腕を伸ばして地面からなにかを拾ったのには気がつかない。次の瞬間には、ぐっと腕を掴まれていた。
「西姫さま、申し訳ありません」
耳元でした小声の意味を問う前に、さらに腕が引かれて身体が傾ぐ。紅珠が翳した右手の指先で小さな針が光る。
自分に向けられたその先端が肌に埋まるのを予測し、リーリュアは思わず目を瞑って身構える。だがほんのわずかな痛みさえ襲っては来ず、逆に強く掴まれていた腕は自由を取り戻した。
恐る恐る瞼を上げると、苦痛に顔を歪めた紅珠の右手首を掴んで吊り下げる、苑輝の姿がある。
リーリュアの知らない険しい顔をした苑輝が少し手に力を加えると、ふるふると震えていた紅珠の右手から針が落ちた。磚の上に目を凝らしても、どこにあるのかよくわからないほど細く小さな針。それを苑輝は
「毒針か」
苦々しげに問う。自由になる左手で自分の胸元を押さえた紅珠は、とっくに力なく項垂れていた頭を小さく動かし肯定した。
「どう……して?」
からからの喉から出たはずなのにリーリュアは涙声になる。口数は少なくいつもなにかに怯えるようにおどおどとしていたが、リーリュアによく仕えてくれていたはずだった。熱で倒れたときも、親身になって看病してくれていた。
「どうして? それはこちらが伺いたいです。どうして西姫さまはあの国の姫なのですか!? 私の父と兄を殺した、あの西の国の……」
目を見開いたリーリュアは息を呑む。突き付けられた事実の衝撃で、その場にへたり込んだリーリュアに向けられた紅珠の瞳は、憎しみよりも哀しみの色が濃い。
「あなたがこの国の方でしたら、立后を心からお祝い申し上げることができましたのに」
紅珠の目から一筋の涙が頬を伝い、悶え苦しみはじめた。震える口からは、大量の唾液と切願が流れる。
「……して。ふた……り…を、返……し、て」
「紅珠?」
苑輝が慌てて紅珠の胸から手を退けさせるが、衿の裏に仕込んであった針が彼女の肌に深く埋まっており、針先に塗布された毒はすでに全身を冒していた。
苑輝は痙攣がはじまった紅珠を放り出し、リーリュアの頭を抱え込んで彼女の視界を塞ぐ。リーリュアは苑輝の胸元を両手で掴みさらに堅く目を閉じていたが、動悸は激しくなる一方だ。
呻きながら磚の上を転がる紅珠が事切れるより先に、リーリュアは現実から逃げるように意識を手放してしまっていた。
馬のいななきと剣戟の音にまじり、怒号と悲鳴が聞こえる。巻きあげられる砂埃と昇っていく黒い煙で、空は暗く濁る。逃げ惑う人々。だらりと下げた腕から血を流す兄。そして、大きく切られた背を天に向け、地に伏しているのは――。
「苑輝さまっ!」
リーリュアは自分の叫び声で目が覚めた。しかし開けているはずの目の前は真っ暗で、耳の奥ではまだ助けを求める叫び声が聞え続けている。
止めどなく溢れる涙が頬を伝い枕を濡らし、全身の血が涙に変わって流れ出てしまったのではないかと思い始めたころ、寝台の覆う紗幕をあげる者がいた。
ぽつぽつと点けられた灯りがぼんやりと寝間を照らし、訪問者の正体を教える。するとまた新たに浮かんだ涙で、その姿がぼやけてしまう。
「……百合」
そうリーリュアを呼ぶのは、この世でたったひとり。
「苑輝さま。……紅珠は?」
訊かなくてもわかりきっていることだが、それでも確認せずにはいられなかった。予想通り、苑輝はリーリュアの頬を濡らし続ける涙を袖で拭いながら、静かに首を横に振る。
リーリュアはしばらく瞑目すると、ふらつく身体をゆっくりと起こし、深呼吸した。気遣わしげに手を貸す苑輝を、真っ直ぐに見据える。
「教えてください。いったいなにが起きたのかを」
「いまはまず、ゆっくり休め」
「いいえ。わたくしは、彼女から家族を奪った国の王族として、この葆の皇后になる者として、すべてを知っておきたいのです」
リーリュアの決意は揺るがない。
ごまかすことを諦めた苑輝は、ところどころ言葉を選びながら、己の死を覚悟していた紅珠が遺した書からもわかった、事の次第を説明した。
「丹紅珠の父親は工部の官吏だった。先帝の東征で広がった領土の調査のため軍に同行していた際、あの戦に巻き込まれたそうだ。見習いとしてついてきていた長子とともに命を落としている」
「武人ではないのに、前線にいたのですか?」
リーリュアが発した疑問に、苑輝の表情がいっそう曇る。
「あのときは、西国の裏をかき、急いで王都へ回り込むため、山に詳しい者が必要だった」
山の地形に明るい者に助力を求めたのは、指揮を執っていた苑輝自身だ。
敵国の王族として。図らずも巻き込んでしまった将として。やるせない想いを抱えたふたりの間に、苦みしかない沈黙が流れる。
しかし苑輝は、重い口を再び開けた。
「夫と長男を失っても、年若い次男の将来を望みに細々と家を守っていた母親のところへ、娘が百合の侍女に選ばれたことを聞きつけた、夫の以前の同朋だという者が現れたそうだ。次男の出仕と引き換えに……」
「わたくしを、殺せ……と?」
苑輝は曖昧に顔を歪めて先を続ける。
「主犯は工部次官の
「崔……?」
どこかで聞き覚えのある名のように感じたが、リーリュアは思い出せなかった。
その崔次官は、鉱山のある庚州の鉄官府の官吏から袖の下を受け取り、人足の手配の優遇、産出量の改ざん、産出品横流しの斡旋など様々な便宜を図っていた。
今回アザロフとの間で採掘の提携がまとまれば、発見された鉱脈の有用性によっては、葆国内各所に存在する鉱山の体制に大幅な改革が行われる可能性がある。
それにより、己の不正が発覚することを恐れた崔勧は、王女との縁組が決裂することで、条約をも不締結にさせようと目論んだのだという。
「初めの指示は、百合が葆を去ればよいという程度だった。だがそれもうまくいかず、立后まで決まってしまった。むこうも焦ったのだろう。宗廟で倒れたのなら、それこそ龍の怒りだとこじつけられる」
細い針だ。言われなければ、手のひらにできた小さな傷跡など、そう簡単にはみつけられない。それにまさか、金衞が警護する皇帝の目の前で犯行が行われたとは思いもしない。夏に起きた落雷騒ぎと霊廟という場所を利用するつもりだったのだ。
「紅珠は、アザロフとわたくしを恨んでいたのですね」
「単にそれだけではなかった。紅珠の父親も不正に荷担していたと脅され、母親と弟妹を人質に囚えられていたらしい。それでも最初は彼女なりに穏便な方法をとろうとしたようだ。雨漏りがする幽霊屋敷から逃げ出す姫でなかったのは、誤算だったのだろうな」
無理に作った笑いが、かえって悲劇を強調させる。
丹紅珠がそれほどの大きな悩みを抱えていたことに気がつけなかった。もっときちんと向き合っていればよかった。自分の事ばかり考えていた。後悔だけがリーリュアの胸に満ちていく。
「……それで、紅珠の家族は無事なのですか」
リーリュアは紅珠が命がけで守ろうとした彼らの安否が気になり、身を乗り出して消息を訊ねた。
「鉱山の不正の調査は、すでに別方向から行っていたのだ。それに思悠宮の修繕の件での工部の扱いと方颯璉からの報告で、おかしな点があることに博全が気づき、探りを入れている最中だった。もう少し早く手を回していれば、あれは防ぐことができたのかもしれない」
悔恨のため息を吐き出した苑輝の前置きは、リーリュアの緊張を高めるばかりだ。重ねて問いを急かす。
「それで、丹家の者たちは」
「皆無事に保護された」
とりあえずは胸を撫で下ろした。葆の法では、彼らにどのような処分が下るのだろうか。
眉を曇らせるリーリュアの頬に、苑輝の手が伸びてくる。涙で冷えた頬に、それはとても温かい。
「そんな顔をさせたくなかったから、国へ返そうとしていたのだが」
「苑輝さまこそ、お辛そうです」
少しやつれたように見える苑輝の顔を両手で引き寄せ、額を合わせる。リーリュアには、自分が倒れてからどのくらい経っているのかもわからない。
「あたり前だ。百合が三日も目を覚まさなかったのだから」
笑おうとして失敗した苑輝がリーリュアを胸に抱き、失わずに済んだ存在を確かめた。
「もう一度訊く。
リーリュアは苑輝の背に腕を回して、力の限りに抱きしめ返す。
「何度でも言います。わたくしはあなたの妻で、わたくしの国はすでに、この葆です」
涙の乾いた顔で、精一杯の笑顔を作った。
「ふたりで……みんなで創りましょう。皆が笑ってしあわせに暮らせる国を。同じ人間同士で傷つけあうことのない世の中を」
幼い理想だと笑われてもかまわない。
それを次の代に残せるのなら――。
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