第七章 別離

第十六話

 独り寝には十分すぎる寝台。寝ぼけ眼で動かした腕は空を切り、そのままふとんを叩く。その行為に若干の虚しさを覚えながら、リーリュアは目を覚ました。

 寝台の上で身じろぎした主人に気づいた侍女たちがやってきて、紗幕をあげる。まだ日の昇る前の殿内は薄暗かった。


「陛下は、また?」

「はい。昨夜のうちに丞明じょうめい殿に戻られました」


 気落ちする主人の心情を察し、皆は一様に顔を伏せる。リーリュアは、ため息を残した寝台から出た。


 苑輝は先触れもせず、政務後の遅くにリーリュアの元を訪ねて来るようになった。ともに酒肴を楽しんだり、リーリュアの話に付き合ったりして、穏やかな夜を過ごしていく。

 リーリュアが眠気に勝てずうつらうつらし始めると、寝間へと誘われる。しかし苑輝は枕元に腰を掛け、金色の髪を撫でるだけ。下がってくる瞼に必死で抗うリーリュアに、葆に伝わる昔話を聞かせる夜もあった。

 やがて抵抗も虚しく力尽きて寝入ったリーリュアを置いて、自分は居殿に戻っていってしまう。

 だからいつも、衾に包まれたリーリュアの最後の記憶となるのは、堕ちる間際に額に触れる、温かなくちびるの感触ばかりだった。

 これでは、幼子が寝かしつけられているのと変わらない。


「西姫さま。本日の御髪にはこちらでよろしいでしょうか」


 紅珊瑚の花が咲く釵を見せられ、うわの空でうなずく。

 皇太后の喪が明けたのちに、リーリュアを皇后に封じることが正式に決まった。

 婚礼衣装の準備に式典の段取り、皇后としての心構えを説かれ、立ち居振る舞いを叩きこまれる。課せられらるものは、日々際限なく増えていく。その疲労もあり、つい夜は眠くなってしまうのだが、このままでいいと思っているわけではない。

 皇后の、妻としての一番の役目は、夫の子をなすこと。それはどの国、どの家でも同じだろう。王女であるリーリュアも、そのように教えられて育った。

 けれど、大国の君主である苑輝にその意思はない。リーリュアを妻取ると言ってくれた口から、かつて苦しそうに吐き出された言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


『忌まわしい血を遺したくない』


 愛しいと言われ、名をもらい、口づけを受けた。熱に浮かされたような状態で、リーリュアはその意味の深さを考える余裕を失っていた。

 それでもいい。ただ傍にいられるのならば、それでいい。 

 なのに、だ。ついこの間までは苑輝の顔を見られただけ喜んでいた自分は、どこまで厚かましくなっていくのだろう。

 彼の指先やくちびるが触れるたび、リーリュアの胸の内には歓びと同時に切なさが募る。

 リーリュアは、苑輝が絶ちたいと望む血を、繋げたいと願ってしまうのを止められない。

 無益な争いのない世を創ろうとしている彼の意志を受け継ぐ彼の子を、次の世に残したい。


「……ま。西姫さま、お決まりになりましたか?」

「ごめんなさい。刺繍の図案だったわね」


 リーリュアは、卓上に広がる紙に目を向ける。婚礼衣装に施す刺繍の柄の希望を訊かれていたのだ。決められた場所に決められた紋様という伝統はあるが、そのほかの部分に好きな図柄を入れてくれるという。絵柄はどれも、縁起が良いと言われる紋様だ。

 皇太后の喪が明けるまでにはしばらくあるが、生地を織る糸選びから始めるので月日は足りないくらいだと、担当を任されて張り切る游葵から催促されていた。

 

「お悩みですか」


 婚礼準備だというのに浮かぬ顔をしたリーリュアを、游葵が不審に思う。


「え? ええ、そうね。なんだか植物が多いと思って……」


 しかも、桃に葡萄、柘榴といった果実の絵が目に付く。


「ご婚儀の際にお召しになるご衣装ですから、どうしても子孫繁栄や子宝を願うものが多くなってしまいますね」 

「そうなの? では、これとこれ。それからこちらも。できるだけたくさん入れてちょうだい」 


 リーリュアは手当たり次第、子授祈願に効くという紋様を選ぶ。願うくらいは自由だろう。真剣な面持ちで頼むが、游葵の反応は芳しくない。


「……はしたなかったかしら」


 子の望むということは、肌を重ねたいというのも同然。正式な婚姻を結ぶ前からそれを口にするなど、淑女の行いではない。その教えは、風習の異なるこの国でも有効だ。けれどここは、皇帝の後宮。本来は、主の血統を守るためにある場所なのだ。ゆえに、その限りでないはずだが――。

 リーリュアは急速に熱くなった頬に手をあてて冷ます。 


「いいえ、そのようなことはございません! 一日も早いご懐妊を願い、ひと針ひと針、心を込めてお作りしますわ」


 リーリュアが、苑輝と一度も同衾していないことを知らぬはずがない。それでも游葵は、力強くうなづく。

 頼もしい味方を得たリーリュアは、とたんに勢いづいた。


「そうだわ! 桃の画もあったわね。紅珠、あとで持ってきて。鴛鴦の画と交換しましょう」


 片付いた卓に茶を用意する丹紅珠に頼む。


「桃の。ですが、あれは……」

「ちょっと、紅珠! お茶が溢れているわよ」


 高泉の指摘で、さらに慌てた紅珠の手から茶器が放り出され、熱い茶を振りまきながらリーリュアのすぐ脇を通過していく。派手な音を立て落ちた茶壺は割れ、盛大に茶と茶葉が床にばらまかれた。


「西姫さま! お怪我は?」

「大丈夫よ。裾が少し濡れたくらいだわ」

「こちらへ。すぐにお召し替えを」


 声と音を聞きつけ、昇陽殿のあちらこちらから宮女が集まってくる。

 うな垂れて落とした肩を震わせる紅珠が気になったが、染みを作った長裙を替えようと促す宮女らに、その場から離されてしまった。 



「明日の供なのだけど」


 就寝前に飲まされる薬茶を持ってきた颯璉が眉を顰める。リーリュアがなにを言い出すのか、おおかたの予想がついたのだろう。

 いつもは、見た目も匂いも、もちろん味も好みでないそれを渋るリーリュアだが、この日は素直に受け取った。いっそのことひと息に飲むべきかと悩み、けっきょくはちびちびと口に含む。


「丹紅珠は外しました。本日もまた、粗相をしたとか」

「たいしたことではないわ」

「そのように甘やかしているうちに、取返しの付かないことを起こすかもしれません」

「まさか、昇陽殿ここを辞めさせるつもりではないわよね?」


 無言は肯定なのか。いつも以上に苦さを感じる茶を飲み干しリーリュアが顔をしかめると、颯璉が嘆息する。


「以前は、気の弱いところはありましたが、細やかな仕事をする娘だったのですが」

「なにか心配事でもあるのかしら。颯璉は聞いていないの?」

「存じません。が、家のことでなにかあったのかもしれません。父親を早くに亡くし、苦労している娘なので」

「そうだったの……」

 

 紅珠がさげていた茱萸袋を気にしていたのは、そのためかもしれないと思い至る。


「やはり、紅珠も連れて行くわ」


 昼間のことを颯璉に叱責され、ひどく青い顔をしていたのが印象深い。近いうちに時間を作り、彼女の話を聞こう。リーリュアは心に留める。

 異論があるように颯璉が口を開きかけたが、「わたくしが決めたの」と言い切ると、渋々引き下がった。


「明日の朝は、夜が明ける前の出立となります。そろそろお休みになりませんと」


 空いた碗を手にした颯璉に就寝を急かされるが、こんな日に限って睡魔が下りてこない。まったく読めない書物でも眺めていればと開いてはみたが、徒労に終わる。

 明朝リーリュアは、琥氏の祖霊が祀られている廟へ赴く予定だった。そこには、かつて永菻に災厄を招いた龍が封印されていると語られている。皇宮のいたるところでみかける龍の姿は、リーリュアがおとぎ話で聞かされたどの生き物とも違っていた。

 天意を伝えるというその神獣に、『嫁失格』の雷を落とされたらと思うと気が立ち、寝台に入ることもできない。

 長椅子にもたれかかり、揺らぐ灯火に合わせてゆっくり首を動かしていたリーリュアは、知らず知らずに歌詞のない曲を口ずさんでいた。


「……その歌は? 以前にも歌っていたが」


 不意に降ってきた声にぼんやりとしていた視線を上げれば、苑輝が怪訝な顔でリーリュアを見下ろしていた。礼をとるため立とうとするリーリュアを留めて、苑輝は隣に腰掛ける。


「今宵はいらっしゃらないのかと」


 明日の朝は早い。いくら輿に乗るとはいえ、日頃の疲れを取るためにも、苑輝もそうそうに休むのだと思っていた。


「ああ。早く帰れと李父子に書房から追い出されてしまった。百合の寝顔だけ見て戻ろうと思っていたのだが……」


 苑輝はつい今し方まで旋律を奏でていたリーリュアのくちびるを指先でなぞる。


「その歌はどこで習った? 颯璉か」


 問い質す苑輝の眼差しには、曲調と同じく切なさと懐かしさが入り交じっていた。少し逡巡したのち、リーリュアは小さく首を横に振る。


「習ったのではありません。二度ほど聞いたきりです。……皇太后さまの静稜殿で」


 盗み聞きしただけの歌詞もわからない旋律が、なぜかリーリュアの耳に残り続けていた。心が落ち着く不思議な曲。

 ああ、と苑輝から吐息がもれる。


「それは子守歌だ。まだわたしが幼かったころ、枕辺で母がよく歌ってくれた」 


 曲の正体を聞いて腑に落ちる。だからこれほどまでに、懐かしく、やさしく染みてくるのだ。


「苑輝さま」


 リーリュアは意を決して、思い出の中にある母親の歌に耳を澄ませていた苑輝に声をかける。


「わたくしに教えてくださいませんか。この歌を聴かせてあげたいのです。あなたの御子に、あなたがお母様に歌ってもらったように」


 苑輝の顔が苦悩に歪む。


「百合。そなたには申し訳ないが、それはできない。もしどうしても子を望むなら……」

「わたくしはあなたの子が欲しいのです! わたくしの子ではありません」


 いまにも離別を言い出しそうな苑輝を遮り、リーリュアは自分の想いを告げるが、その真意は伝わらなかったようだ。苑輝は困惑げに眼を細める。


「人には受け継ぐ血で決まるものと、そうでないものがあります。わたくしは、あなたの血だけではなくて、志を継ぐ者を育てたいのです」


 リーリュアを、壊れ物のようにやさしく扱う温かく大きな手。それを小さな両手でしっかり包む。


「もし道を誤りそうになったら、あなた自身が正しい方へこの手で導けば良いのです。苑輝さまにはそれができるはず」


「もし余自身が道を踏み外したら? 余がいなくなったあとはどうする」


 力の入っていない苑輝の手を引き寄せ、リーリュアは自信を持って微笑む。


「その心配は不要です。この手はわたくしが絶対に離したりしませんから。それに、手を繋いでくれるのはわたくしだけではないでしょう? 李家の父子も劉剛燕も、苑輝さまの周りにはたくさんの頼もしい手があるではありませんか。その子どもたちも必ず、同じように御子の手をとってくれます」


 確信を持って言うリーリュアの手の中で、苑輝が拳を握る。反対に、ふっと肩からは力が抜けたのがわかった。辛そうに堅く結ばれていた口元にも微かな笑みが浮かぶ。


「……百合のその自信の根拠は、いったいどこからきているものか」


 呆れたようにも聞こえる声音に、リーリュアは椅子の上で背筋を伸ばし得意げに胸を反らした。


「それはもちろんわたくしが、苑輝さまの言葉に偽りはないと信頼しているからに決まっているではありませんか。ですから苑輝さまも、わたくしや周りを――なによりご自分を、もっと信用なさってください」


 手を引かれ、長椅子の上で抱きすくめられる。

 息苦しいくらいに強い腕の中では、苑輝の声と心音とだけがリーリュアの耳に届く。


「覚悟も定まらぬのに、そなたの願いを、余が叶えてやりたいと思ってしまったのは、驕りなのだろうか」


 回した腕で広い背中にしがみつき顔を埋めたまま、ふるふると首を横に振る。

  

「鳴いて餌をもらうだけの雛鳥のままでいたくない。猫のようにかわいがられるだけでは満足できない。すべてはわたくしのわがままです」


 早くなるばかりの心臓をなだめようと、大きく吸った息を吐き出す。

 逃がさないよう、小さく身じろぎをした苑輝の背中の衣を、リーリュアはしっかりつかんだ。


「ですから苑輝さまは、約束を守ってくださるだけでよいのです。わたくしを――あなたさまのにしてください」

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