第十五話


 酒盃に浮かべた菊の花びらが二枚、凪いだ水面に浮かんでいた。

 霊峰から湧く清水を使って作られた菊酒は、長寿をもたらすという。昼間の宴席でも振る舞われたものだ。

 庚州でおきた鉱山の問題は、思いのほか根が深いものだった。調べが進むにつれ、それは先帝の時代から行われていた悪習が、複数の官吏の手により連綿と受け継がれてきたものらしいという事実がわかってきた。関係者を洗い出すとともに、証拠となる過去の記録を遡る作業が、いまも続けられている。

 苑輝が伸ばした手は酒盃を通り過ぎ、卓上の小袋に乗せられた。手のひらに呉茱萸の硬い凹凸が伝わる。ごくわずかなものだが、たしかにそれはそこにある。これほど小さな実でも己を主張するというのだから、人ひとりの存在をいつまでも無視できるものではなかった。


 方颯璉からの再三にわたる屋根の修繕依頼は、思悠宮から内侍、工部への連絡が各所で滞っていた。さらに、工部でも保留案件として処理されていたのを剛燕が確認している。しかしそのほとんどが、言った言わない、聞いた聞いていないというあやふやなもので、根源を辿ることが難しい。

『返』の書に関しても、そこに明確な害意が読み取れない以上、庚州の件で手を煩わせている筆蹟鑑定官たちを急かすのは忍びなかった。

 唯一有害かと思われたネズミの死骸だが、腐敗が進みすぎており死因を特定するには至っていない。なにぶんあの環境である。駆除したネズミを埋めただけといわれれば、それまでだ。

 いまの時点で判明している実害といえば、思悠宮の雨漏りくらいだろう。しかしそれとて疑問しかない。


「そんなことをしてなんの得がある?」

「西の姫さんに迷惑をかけることでしょうかねえ」


 菊酒に手を着けず頭を抱えた苑輝に、劉剛燕が濃い酒精を放ちながら応えた。


「では、だれが?」


 真っ先に疑われるのは思悠宮の宮女たちだが、能力は言うに及ばず、出自についても熟考した上での颯璉の人選に、穴があったようにも思えない。政に関わりたがるような家から選ぶことはしていないはずである。万が一彼女たちの中にいたとしても、目的がわからない。

 しかし外に目を向ければ、今度はあまりにも疑わしい人物が多すぎて、絞り込むことが難しい。

 異国人であるリーリュアの立后に反対する者。自分の身内をその座にと狙う者。そもそも、苑輝が帝位に就いていること自体に不満を抱いている者。いずれにしろ腹に一物を抱えた不穏分子は、少なからず挙げられるのだ。

 また、病の床に就く皇太后の指図であった可能性も捨てきれない。

 策に詰まった苑輝は、警護を強化するとともに、姿を見せぬ輩を煽ってあぶり出すため、リーリュアを昇陽殿に遷すことにした。

 さっそく後見をもたぬ彼女に阿ねる者が現れ、次々に届けられる品の贈り主も一覧にして提出させているが、いまのところ疑わしい名前はみつけられていなかった。

 とりあえずは、リーリュアの周辺で新たな動きがあった様子は窺えない。こちらに気づいて諦めたのか、より確実な手段を模索しているか。どちらにせよ、引き続き調査と警戒は続けなければならないだろう。

 成り行き上、捜査の担当となってしまった剛燕が、珍しく疲れた様子で肩を落とす。こうした細かい仕事を彼が好まないことは重々承知している苑輝だが、ほかに丸投げし、事を荒立てたくないという思いがあった。

 

「まだが小さいんですかねえ?」


 コキコキと首を鳴らしながら言う剛燕に、苑輝は咎めるような視線を投げて顔をしかめるが、彼は気にしたようすもなく続ける。


「姬さんをとっとと立后なされば、特大の蛇が捕まえられると思うんですが」

「これ以上あれを巻き込むわけには……」

「巻き込む? ご冗談を」


 不遜にも剛燕は渋面の皇帝を鼻で笑う。


「あの方はすでに当事者ですよ。事実はどうであれ、西姫が后ではないと思っているのは苑輝さま、あなたくらいです」


 剛燕はさらに一歩前に出て、座わる苑輝を高い位置から見下ろした。


「姫が昇陽殿に入られてから、一度も顔を出されていないとか。いまさらどうしてなんです? そこまでなさったのならいい加減もう、お認めになりましょうや」

「唐突になにを言う」


 ため息交じりの問いから、苑輝は目を逸らす。その、往生際の悪い主君の鼻先に、剛燕は茱萸袋を突きつけた。呉茱萸独特の匂いに混じり、雷雨の夜に覚えた香りが苑輝の鼻をくすぐる。


「気になさっているのは、姫さんの年齢だけですか? なら、そんなのなんだっていうんです。二十歳はたちともなれば十分でしょう」

「……わたしとは、父娘おやこといってもおかしくはないほどに離れている」

「たった十五じゃないですか。百歳と八十五歳なら? 年なんて、とってしまえばそう変わりはしません」

「百まで生きればの話だろう?」


 さも些細なことのように言ってのける剛燕を、冷笑で一蹴する。

 なおも頑なな態度を続けようとする苑輝に、剛燕は苛立ちを隠さずに詰め寄った。


「ご自分が年を食っているとお思いなら、なおさら早くしないと! 今度こそ本当に若いヤツにかっ攫われちまいますよ!?」


 既に二度、苑輝の目の前でリーリュアはほかの男に連れ去られている。三度目がないとは言い切れない。そして、彼女がまた苑輝の元へ戻ってくる保証もない。

 剛燕の手から、目の前で左右に揺れる小さな袋を奪い返す。


「苑輝さまは、皇太子の椅子も皇帝の座も望んで手に入れたわけじゃない。でも、こっちが心配になるほど懸命に務めていらっしゃる。がんばってきたご褒美があの姫さんだ。ひとつくらい、欲しいものを手に入れたっていいじゃないですか。だいたいですね――」


 剛燕が拳を左の手のひらに叩きつける。目が覚めるような音は殿内の空気を震わせ、燭台の灯火をも揺るがせた。


「一度嫁にいったはずの娘が泣きながら戻ってきたら、送り出した親も困るんですよ。オレだったら間違いなく地の果てまでも追いかけて、気がすむまでそいつをぶん殴りますね」

「六つで拾ったおまえも、一男二女の父親か」


 国内外を廻り雑伎を披露する旅芸人の一座でみつけた貧相な孩子こどもが、いまや一国の将軍にまでなったのだ。過ぎた年月を想い、感傷にも浸りたくなる。

 達観した表情で無傷なはずの頬をさする苑輝に、剛燕が首を左右に振って肩を落とした。


「この際だから白状しますが、オレは別に、この国の跡継ぎなんてどうでもいいんですよ。こんなことをいうと、博全がうるさいでしょうがね」

「ならばなおのこと、口出しは無用」

「いや、言わせていただきます」


 苑輝の正面にどかりと腰を落ち着ける。


「オレはただ、苑輝さまにしあわせになってほしいだけなんです。しあわせになりましょうよ、苑輝さま」


 剛燕の言葉は懇願のようだ。それは誘いになって、赦しに変わる。


「――しあわせになって、いいんです」



 にわかに表が騒がしくなった。一瞬で表情を変えた剛燕が、腰を浮かせて身構える。否が応でも先日の落雷を思い起こさせ、苑輝にも緊張が走った。

 荒々しく開かれた扉から飛び込んできた官吏が、拝跪し口上もそこそこに用件を述べる。


「陛下に申し上げます。皇太后陛下が崩御されました!」


 剛燕が目を見開き、主君を振り返る。

 苑輝は暫しの間瞑目したのち、重い息を吐きだした。



 国中で鳴らされた弔鐘が、まだ耳の奥に残る。

 正直なところ、苑輝はその日がそう遠くないうちに訪れることを知っていた。

 あの件で起こした発作のため、皇太后は床から上がることもできずほぼ眠ったままだった。ごく稀に目が開いたかと思えば意識は混濁しており、会話など到底成り立たない状態が続いていて、いつなにがあってもおかしくないと、太医からも宣告を受けていた。

 苑輝は重い足を運び何度か見舞いに赴いていたが、目にしたのは後宮の華だったころの面影など微塵もない、衰弱しきった母の苦しげな寝顔ばかりだった。

 それでも数回、偶然目を覚ました母と対面したが、覚束ない意識の中で父帝や亡き兄と間違えられたことのほうが多い。静稜宮からの帰り道は、行き以上に心身が重かった。

 国葬を終えたいま、皇帝として、子としての責任を果たし、ようやくひとつの重荷を下ろすことができる。苑輝はそう願っていた。

 ところが、肩の荷が軽くなったからといって、心の内まで軽くなることはなかったのだ。

 それもそのはずである。彼女が犯した罪までもが消えたわけではないのだから。

 ずいぶんと都合良く考えていた己に対し、自嘲の笑みを浮かべて回廊を進んでいた苑輝は、秋の冷たい夜風に乗り聞こえてきた歌に足を止める。


「これは……」


 方颯璉に、リーリュアのようすが気になると呼び出された昇陽殿の前だった。そして歌声は、殿舎を囲む塀の中から流れてくる。苑輝の来訪に気づき、素早く膝をついた衛士が守る門をくぐった。

 歌声と灯籠の明かりを頼りに進むと、困り顔で立つ習珊がいた。一礼ののち、少し先の暗がりを示してさがっていく。無意識に足音を忍ばせ、苑輝は近づいていった。


「西姫」


 薄闇でもきらめく髪が目立つ後ろ姿に呼びかける。歌が止み、白い顔が振り返った。


「苑輝さまっ!?」


 よほど驚いたのか、リーリュアは礼も忘れて目を瞬かせた。

 続けて、身体を右に左にひねり、衣におかしなところがないかを確認する。ほんの少しだけ曲がっていた帯の結び目を直すと、ようやく思い至ったのか、深々と腰を折った。


「此度の皇太后陛下、御崩御におかれましては……」


 苑輝は片手をあげ、たどたどしく葆の言葉で弔辞を述べようとするリーリュアを制した。


「もういい。このひと月あまりの間、同じ言葉ばかりで聞き飽きた」


 リーリュアからの申し出により、陵墓に向かう棺の葬列を皇城の門の上から見送ることは許したが、多忙を極めた苑輝が、彼女と私的な言葉を交わすのは、御花園で会って以来だ。


「それより、こんなところでなにをしている?」


 昼間の陽射しはまだ暖かいが、日が落ちると同時に気温は急降下する。じっとしていると足元から冷気がのぼってくるというのに、外衣も羽織っていない。

 咎めるような口調で問うと、リーリュアは視線を泳がせた。


「え? あ、そうです、月を! 月を観ていました」


 いかにも取って付けたような言い訳をして天を仰ぐが、すぐさま気まずそうにうつむいてしまう。

 苑輝も墨色の帳に覆われた空を見上げるが、月どころか星のひとつもない。


「今宵は故郷と同じ月が観られず残念だったな。――帰りたいか?」


 父母から遠く離れた地で、現れもしない月を待っていたのかと、苑輝は不憫に思う。ところがリーリュアは、必死に首を横に振った。背に流したままの髪が動きに遅れついてくる様は、麦の穂が風に揺れているようだ。


「こんなところに独りで、寂しくはないのか?」


 苑輝を見上げたリーリュアの長い睫毛が、小刻みに震えた。桃の花びらを思わせるくちびるが、なにかを言いかけていったん結ばれる。

 やがて眉尻を下げたリーリュアから、耐えかねたようにひと言だけ、吐息を絡ませてこぼれ落ちた。


「……寂しいです」

「そうか」


 やはり、何事かが起こる前に葆から出すべきだ。必要とあらば、こちらで良縁を探してやればよい。葆の口添えを拒む国はないだろう。

 立ち去ろうとしたはずが、やわらかな髪へと腕を伸ばした理由は苑輝自身にもわからない。だがその手が届くことはなかった。先に、リーリュアに袖をつかまれてしまったのだ。


「このようなときにわがままを言っているのはわかっています。それでも寂しいのです!」


 眉根を寄せて苑輝に向けられた瞳は、怒りに燃えているようにも見える。


「苑輝さまは会いに来てくださらない。宮女たちとの他愛のないおしゃべりも、後宮内の散策もままなりません。この国の者たちの多くは、わたくしの髪と瞳の色の違うというだけで、恐ろしいものでも見るような目を向けてきます。きちんとお別れも言えないまま、キールはいなくなってしまいました。……ここではだれもわたくしのことを、リーリュアと名前で呼んでくれないのです!」


 矢継ぎ早に不満を爆発させたリーリュアの袖を握る手は、力が入りすぎているのか震えていた。


「けれどなによりも、陛下がお辛いときに傍にいてお役に立てないことが、とても寂しいのです」


 リーリュアは涙を堪えるように、瞼を閉じて深呼吸する。その努力も虚しく、再び開かれた翆緑の瞳にはうっすらと水の膜が張られていた。


「わたくしは、この国に災いをもたらすのでしょうか? 苑輝さまの治世の妨げにしかならないのですか? わたくしは、ここにいてはいけないのでしょうか……」


 異国出身の皇后が誕生するのを危ぶむ声があることは、苑輝も把握している。しかしそれが、後宮にいるリーリュアの耳にまで届いているとは予想外だった。


「葆の民を苦しめることも、平らかな世を目指す苑輝さまの邪魔になることも、わたくしの本意ではありません。……ですがそれでも、陛下の傍にいたいと願ってしまうようなわたくしだから、龍は怒って雷を落としたのでしょうか」


 後宮に雷が落ちたことが、一部の者の間で騒ぎになっていることも認識していた。それらを知りながら、庚州の問題や皇太后の死などで対処を後回しにしてしまったことを、苑輝は激しく悔やむ。


「皇太后さまは、わたくしのせいで……」

「それは違う!」


 思わず叫んでいた。苑輝は、嵐に耐える小鳥のように震える、リーリュアの細い肩を抱き寄せる。


「すまない。守ってやると言いながら、わたしはなにもしていなかった。母の死はだれのせいでもない。病だったのだ。むしろいままで苦しませてしまったのは、ほかでもないわたしの責任だろう」


 先帝の死因を公にし皇太后を罪をつまびらかにしていれば、母はこんなにも長い間、屍のように生きながらえることなく、夫や息子の元へ旅立てたのかもしれない。苑輝の保身は、図らずも皇太后にとって、死を与えられることよりも残酷な刑になっていたのだ。


「もし落雷が龍の怒りだというのなら、忌まわしい血の流れる身でありながら、西姫を愛しく思うことで安らぎを感じた余への戒めだ」


 いまにも溢れんばかりに涙を溜めていたリーリュアが瞬きをした。雫になって落ちるかと思われた一滴は、苑輝の袖に吸い込まれて消える。


「このように穢れた手でそなたに触れることを、天は許さないのだろうか」

「これほど温かな手の、いったいどこに穢れがあるというのですか」


 恐る恐る翳した手のひらに、リーリュアのほうから頬ずりをしてきた。


「なにを恐れることがありましょう。これで何度目になりますか? わたくしはあなたの妻になりたいのです」


 新たな涙を浮かべる一方で微笑むリーリュアの面差しからはもう、雛鳥の持つ危うさなど微塵も感じない。

リーリュアが、頬に触れる苑輝の手に自分のそれを添える。まるで違う大きさのふたつは、対のようにしっとりと重なった。


「それにわたくしの手も、陛下が思われるほど清らかなものではありません」


 まだ涙に濡れる瞳の奥に、いたずらな光が宿る。


「子どものころ、葆に嫁ぐ予定だった姉さまの婚礼衣装に、わたくしは山葡萄の汁をつけてしまったのです」


 神妙に始められたリーリュアの話に、苑輝は興味深く耳を傾ける。眼裏に浮かんだのは、小さな手を赤紫に染めた幼い日のリーリュアだ。


「父も母も、姉本人でさえも、姉が遠くへ行ってしまうことを、わたくしが寂しがってしたのだろうと許してくれました。でも、本当は違ったのです」

「どういうことだ?」


 理由を訊ねると、リーリュアは胸の前で両手を組み、天に向かって懺悔する。 


「わたくし、嫉妬していました。きれいな花嫁衣装を着て、苑輝さまの妻となる姉さまに」


 あまりにもかわいらしい罪の告白に、硬かった苑輝の表情もようやくほころびをみせる。リーリュアの手をとり、薄紅の爪が彩る白く細い指にくちびるを押し当てた。

 驚いた彼女が引こうとする指先をつかんで、舌先でひと舐めする。


「たしかに甘酸っぱいな。これが証拠か」

「そんなはずは……」


 大きな目を白黒させているリーリュアの手に、もう一度口づけしてから離す。


「姉上には詫びとして我が国の絹を届けさせよう。それから西姫には、極上の婚礼衣装を」


 リーリュアの眼が見開かれた。瞬きも、呼吸さえも忘れたように苑輝を見つめる。


「長い間待たせてすまなかった。西姫に、私の后となって欲しい」


 翠色の瞳が大きく揺れ、重ねた手で苦しそうな胸を押さえるリーリュアの口が動く。


「……いや、です」


 まさかの拒否に苑輝は心臓が止まる思いをした。おろおろと意味も無く手を上げ下げするが、そのわけに辿り着けない。

 上目遣いで苑輝をうかがい見るリーリュアは、不満げにくちびるを尖らせた。


「西姫では嫌です。せめて苑輝さまだけは、リーリュアと名前で呼んでください」

「名前を?」


 葆の者たちがリーリュアのことを名で呼ばないのには、それなりの理由があった。

 後宮の妃嬪たちは位号の頭に姓をつけて呼ばれる。リーリュアの場合は異国人のため『西』の字がつけられた、というのは建前だ。実のところ、その名を正確に発音することがこの国の人間には難しい、という現実的な問題があったのだ。

苑輝は顔をしかめ、何度か声に出しリーリュアを呼んでみる。だがどれも、少し違うと首を振られてしまった。


「リーリュア、です。陛下」

「リューリハ? いや、リャールアか?」


 なぜできないのかと呆れられ、終いにはとうとうリーリュアが折れた。


「もう、結構です。苑輝さまが呼んでくださるのでしたら、西でも東でもかまいません」


 ふいと、頬を膨らませてそっぽを向く。


「そのようにすると、やはりまだ幼子のようだ」


 自分の不出来を棚に上げて愛らしい姿をからかうと、リーリュアは慌てて戻した頬を月のない夜でもわかるほど真っ赤に染めた。

 苑輝は折衷案を模索する。


「葆では子につける名と文字に意味を持たせることが多い。そなたの国ではどうだ?」


 うっすらと笑みを浮かべ、リーリュアは眼を細めて暗い西の空を見晴るかす。


「母が産み月に入ったある日。父王はアザロフの山へ狩りへ出かけていたそうです。鹿も猪もまったくみつからず、鳥の一羽も獲ることができないまま山を下りようとしたとき、岩場に咲く一輪の大きな白ユリの花をみつけました。母に贈ろうとそれを持ち帰ったその夜に、わたくしが産まれたのだと聞いています」

「ユリ……」


「はい。私の名前、リーリュアはアザロフの言葉で“ユリの花”を指すのです」


 納得した苑輝は大きく頷いた。アザロフ王の白ユリは、いま、自分の目の前で大輪の花を咲かせようとしている。


「父上がつけてくださった大切な名だ。これからは、そなたのことを『百合』と呼ぶことにしよう。――良いだろうか?」


「百合、百合、百合……。もちろんです!」


 何度も確かめるようにつぶやき、喜色満面で前に出した両腕を、慌てて引っ込め背中に隠す。

 不審な動きをしたリーリュアに、苑輝が眉だけで理由を問う。


「……颯璉に、はしたない振る舞いは慎むようにと言われています」


 相も変わらず頭の堅い女官に向け内心で舌打ちをした苑輝は、大きく腕を広げた。揺れる袖から香る玉香が、ふわりと夜闇に溶けていく。


「ならば私からの命としよう。さあ、こちらへおいで。百合」


 今度は躊躇うことなく、リーリュアは苑輝の腕の中へ飛び込んだ。それをしっかり受け止めた苑輝は頬に手を添え、静かにくちびるを重ねた。

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