第六章 命名

第十四話


 翌日。颯璉に急かされ、着の身着のまま乗った輿で昇陽殿に到着したリーリュアの表情は硬い。

 瑠璃瓦も眩い高い屋根や、寝殿だけでもゆうに思悠宮の倍はある大きさはもちろんのこと、随所に吉祥紋様をあしらった絢爛な内外装は、外朝の正殿と比べても遜色ない。ここが、歴代の皇后の居殿として使用されてきた建物だと聞けば、身が引きしまる思いだった。

 習珊に手を引かれ、大きく開いた扉から足を踏み入れる。細やかな螺鈿が施された卓に椅子。多彩な玻璃が模様を造る衝立。蔓草を図案化した敷物は、踏むのを躊躇うほど精緻に織られ、大きな空間をいくつにも仕切る紗幕が微風にそよぐ。錦の寝具が用意された寝台は、いままでよりもずっと広く天蓋から垂れる幕で目隠しがされていた。

 調度だけではない。昨日の今日でどのように用意したのか、衣装や装飾品も十分に揃えられており、目にも鮮やかな衣が広げられた室内は、さながら尚服局の針子房のようだった。


「全部に袖を通してもひと月以上かかりそうね」


 仕える宮女の数も大幅に増え、皆が突然の移動で忙しそうに動いている中、ひとりなにもできず……というよりさせてもらえずにいるリーリュアは暇を持て余してしていた。

 邪魔にならないよう散策でもと庭に降りたとたん、幾人もの侍女が列をなしてついてくる。殿舎の周りにも、常に衛士が目を光らせており、この調子では気分転換にはならない。

 そんな生活を数日も過ごせば、これなら雨漏りがしようが思悠宮のほうがまだ気楽でよかった、とさえ感じてしまう。


 昇陽殿には、皇帝からの下賜品以外にも様々な荷物が運び込まれていた。


「こちらはていよう様からです」


 入れ物だけでも十分美術品に匹敵する箱が届けられる。聞いたこともない名の官吏から贈られたのは、翡翠でできた酒盃だ。

 ほかにも絹地や簪、壺、書の国である葆らしいともいえる筆や硯などが、この殿舎に遷った日を境に、続々とリーリュアの元へ届くようになっていた。


「きゃあ!」


 甲高い大きな音と女の悲鳴が響く。大慌てでリーリュアが声のした方へ行ってみると、青い顔の宮女たちと床に座りこむ丹紅珠がいた。


「いったい何事です」


 険しい顔の方颯璉が怒りを抑えた声で問い質す。いきなり紅珠が叩頭した。


「も、申し訳ございません。西姫さまへの贈り物の品を落としてしまい……」


 床に伏したまま紅珠が押し出した木箱の中で、青磁の碗が粉々に割れていた。さすがにこれでは、修復不可能だろう。

 ため息とともにかがみ込んだリーリュアが中へ手を伸ばそうとした箱が、さっと移動する。


「お止めください。お怪我をされたら大変です」

「怪我をしたのは紅珠、あなたでしょう? この前の傷がまだ治っていないのに無理をしたからではないの?」


 火から下ろしたばかりの茶で火傷したという手からはまだ薬の匂いがして、厳重に布が巻かれていた。

 リーリュアは箱の蓋を颯璉に見せて、中身の確認する。


「これは貴重な品なのかしら? だれからのもの?」

「ここまで割れてしまっては私には判別しかねますが、銘が確かだとしてもそれほど高価なものではないかと……。門下省のとう謙保けんほ殿からのようです」


 書付に目を走らせた颯璉は、大きく嘆息して紅珠を見据えた。いくらたいした価値があるものではないといっても、昇陽殿へ贈られた品だ。それなりの処罰は必要となる。


「紅珠。最近のあなたは注意力の散漫が目に余ります。そのようなことでは、西姫のお世話を任せることなどできません」

「待って! 颯璉」


 まさか解雇を言い渡す気か。焦ったリーリュアが止めに入る。


「壊れてしまったものは仕方がないわ。その、湯とかいう者には、わたくしの名で礼状を届けておいてちょうだい。「結構な品をありがとう」とね」

「ですが」


 無難に事を収めようとするのを、颯璉は快く思わないらしく苦い顔をする。しかし見ず知らずの官吏には悪いが、リーリュアには顔面蒼白で震えている己の侍女のほうが心配だった。

 箱に蓋をして、紅珠の視界から無残な姿になった碗を隠す。


「こういうものって、いつかは壊れるのよ。わたくしもよく割ったもの。だからその時期が少し早まっただけ。でもそうね、紅珠には反省はしてもらわないと」


 リーリュアは指先を唇に添えて悩む素振りをしてから、艶然と微笑む。


「ではこうしましょう。火傷が治るまでの仕事は、わたくしのお話相手をすること」


 ますますもって颯璉の表情の険しさが増したが、リーリュアは上機嫌で決めてしまった。


 貢物はとどまるところを知らない。また、新たな品が届けられた。


「素敵ね」


 二幅の掛軸を広げて、リーリュアはため息をつく。片方は番の鴛鴦おしどりが寄り添い、ゆったりと川の流れに揺蕩う様を、もう一幅は枝もたわわに実る瑞々しい桃を描いた画だ。どちらも水を弾く羽根の一枚一枚や熟した実を包む産毛まで描きこまれ、本物と見紛うばかりによくできている。


「どちらを飾ろうかしら。ねえ、紅珠。あなたはどう思う?」


 訊ねてみるが、相手を命じたはずの紅珠は固くかしこまってしまい、ただリーリュアの話を聞くだけなので会話にならない。代わりにおしゃべり好きのこうせんが口を挟んできた。


「私は断然こちら! この桃、すごくおいしそうに描かれていますね」


 食い意地も人一倍の彼女が身を乗り出す。たしかに、立派な桃の実からは甘い香りが漂ってきそうだ。

 鴛鴦の軸が吏部の、桃の画は工部の官吏からだと教えられるが、当然の如くどちらもリーリュアの知らぬ名だ。ほかにも、読めない文字が書かれたもの、色彩鮮やかな人物画や墨の濃淡だけで描かれた山水画などが並べられたが、とりわけこのふたつの絵に、リーリュアは興味を惹かれた。


「では、これを飾ろうかしら」

「私は! こちらがいいと思いますっ!」


 桃の軸に手をかけたとたんに、紅珠は鴛鴦のほうを推してくる。リーリュアはいつにない勢いに驚いたが、高泉はあっさり意見を翻した。


「そうですね。西姫さまにはこちらが先かも」

「どういう意味?」

「鴛鴦は夫婦円満、桃の実は子宝祈願を表していますか……らっ」


 傍らで目録を作っている颯璉に睨まれ、慌てて高泉は口をつぐむ。その口を両手で塞いだままそそくさと仕事に戻ったのを確認し、颯璉はまた筆を動かしはじめた。

 だいぶ具合の良くなった手を使って桃の軸を片付けた紅珠が、壁に鴛鴦の画を架ける。睦まじく川の流れにたゆたう鴛鴦を、リーリュアは頬杖をついて眺めていた。


「……夫婦、ね」


 目を転じ、颯璉の筆先を見るとはなしに追いかける。滑らかな動きから生まれる文字は、彼女の性格通り角々しい。


「颯璉。わたくしはいま、どういう立場なのかしら? 苑輝さまの妻なの?」

「西姫さまはまだ、位号を授かっておりませんので……」


 そういう意味ではないのだ。リーリュアは扉を開け放ち空を仰ぐ。

 昇陽殿に居を遷してからも、苑輝がリーリュアの元を訪れることはなかった。ただ後宮に新しい住処を与えられただけで、『妻』になどなっていないのである。

 これは単に、より快適な滞在先を与えられただけなのだろうか。それとも、名目だけの妻として置くことにしたのか。

 苑輝の本意がどこにあれ、リーリュアが皇后の位に就くものだと周囲が思っているのは、この貢物の数でもよくわかる。民の期待の重さも、リーリュアを悩ませる。

 あの嵐の晩、ようやく想いを受け取ってもらえたのだと感じたのは、錯覚だったのだろうか。苑輝から、あらためて距離を置かれたような気がした。

 雷のときは駆けつけてくれると苑輝は言ったが、図ったようにあれ以降ピタリと止んでいる。雷雲を待ち望むなど、生まれて初めてのことだ。

 しかし雲ひとつない空は高く、麦穂色の髪を撫でる風には秋の気配が感じられた。


  

 縁起の良い数字が重なるというその日は、朝から宮女たちが浮き立っていた。

 着替えを終えたリーリュアの腰帯に、游葵が朱い錦の小さな袋をさげる。同じようなものが、殿舎のあちこちの柱に掛けられていた。そのほかにも、内に外にと菊の鉢植えが並べられ、辺りには清涼な香りが満ちる。

 髻は、色とりどりの玉の実がなる枝を模した簪で飾られた。


「これはなに?」


 リーリュアが袋の中をのぞくと、乾燥した小さな実が入っている。


「本日、表では菊花の宴が催されるのですよ。それは呉茱萸ゴシュユの実で、魔除けやお薬になるんです」


 菊の花を愛でながら長寿を祝い、健康を祈る。朝一番に淹れた茶は菊花茶だと教えられた。

 本物の茱萸の枝を髪に挿す宮女たちの腰にも、それぞれに茱萸袋があるが、微妙に生地や形が違う。


「全部、游葵が作ったの?」

「いえ、なかには家から送られてきた者もいるかと。ああそうですね、高泉などはお母さまの手作りだそうですよ」

「わたくしが苑輝さまに贈ってもいいのかしら」

「お守りですもの。殿方が着けられてもよろしいかと存じますわ。では、のちほど生地をお持ちしましょう!」


 快く請け負い、游葵は端切れを用意する。その中からリーリュアは手触りのよい生地を選んだ。

 小さな袋は、さほど時間もかからずにできあがり、自分の茱萸袋から取り分けた呉茱萸を詰めて完成させる。

 問題は苑輝に渡す方法だ。できれば今日のうちに、この手で届けたい。


「宴はいつ終わるのかしら」

「昼過ぎにはお開きになるでしょうから、もしかしたら御花園にお見えになるかもしれません。お月見はできませんでしたから、ごいっしょにお花見ができるとよろしいですね」


 のんびりとした口調の游葵が微笑む。

 この日は、萬華門の外にある皇帝の花園が解放され、後宮の宮女たちも満開の菊を観に訪れることが許されているという。おそるおそる颯璉に外出を願うと、供からけっして離れず、知らない者にはついていかない、という条件を呑むことで了承が得られた。

 侍女として習珊と丹紅珠のほかにあとふたり、さらに護衛の武官も二名付く。リーリュアは計六人に囲まれて御花園へと向かった。

 菊のみに留まらず、萩や桔梗といった秋の花々や色づく樹木が彩る庭園を、早くもほろ酔いの文官や、連れだって賑やかにおしゃべりをしながら歩く宮女たち。普段の後宮ではみられない光景に、リーリュアの気分も自然と高揚していく。

 苑輝に渡す茱萸袋を胸に、右に左にと首を忙しなく動かしていると、紅珠がしきりと自分の茱萸袋に触れているのが見てとれた。臙脂に近い朱の小袋は、リーリュアが見たほかのだれのものとも違う。


「あなたの袋も、ご家族から贈られたの?」

「え? いえ。あ、はい……」


 まごまごと答えた紅珠は、手の中に袋を握ってうつむいてしまった。

 いったん後宮に入った宮女は、簡単には家族と会うことができなくなる。彼女の気持ちが、リーリュアには痛いほどわかった。


「そう。だったら大切になさいね。――ねえ、習珊! あの黄色い花はなにかしら」


 アザロフには見られない草花を習珊に尋ねる声が、一段と大きく高くなる。となれば衆目を集めるのは必然。あきらかに見目の異なる女人に驚く者もいれば、「あれが西姫か」との忍び声も聞えてきた。その中には、好意的とは思えないものも少なくない。

 好奇の目を向けられるのは、もはや仕方がない。だがそこにさらに加わったのは、あからさまな厭忌の感情であった。

 次第にリーリュアの足が鈍る。それに、習珊も気がついた。


「やはり面紗をお持ちすればよかったですね。配慮が足らず申し訳ありません」

「皇宮の中だからと断ったのはわたくしだもの」 

「西姫さま、少し休まれませんか」


 侍女たちが、垣を作るようにリーリュアを取り囲む。園内に巡らされた舗道から逸れ、池沿いに建つ四阿へと誘われた。


「こんなに広いなんて。きっと陛下にはお会いできないわね」


 膝の上に載せた茱萸袋の紐を、意味もなく結んだりほどいたりする。

 水面を渡って届く風に、リーリュアはぶるりと身体を震わせた。


「お寒いですか? あと少しすれば……」


 習珊が舗道に目を向けると、距離をあけて見張りをしていた衛士のひとりがやってきて片膝をつく。 


「西姫さまにご挨拶したいという者がいるのですが、追い返したほうがよろしいでしょうか」

「だれかしら」

とう謙保けんほという、門下省の文官だそうです」

「湯……?」

「あ!」


 リーリュアが思い出すより先に、紅珠が小さな叫びをあげて肩を縮める。


「知っているの?」

「……私が、割った……」

「ああ、あれの贈り主ね」


 謁見の許しを出したのは、碗を無駄にしまったという多少の後ろめたさと、外の情報を少しでも知りたいという欲求からだ。

 四阿の長椅子に座るリーリュアの前で、湯謙保は拱手で立礼した。


「こちらへ西姫さまがいらしているとうかがい、矢も盾もたまらずご無理は承知で拝謁を願い出てしまいました。お許しいただき、恐悦至極に存じます」


 五十を過ぎているとみられる男は、緩みきった身体を大儀そうに折り曲げる。


「わたくしこそ、先日は良い品をもらいました。あらためて礼を言います」


 顔をあげた湯謙保が瞠目したのは、リーリュアの口から滑らかな葆語が出たからか。恐縮したように、再度頭を下げた。


「お気に召していただけましたか。ぜひにも、あの碗であつものなどをお召し上がりくださいませ。目にも美味なものとなりましょう」

「そうね。楽しみだわ」


 粉々になった姿しか確認していないリーリュアは、素知らぬ顔で微笑んでみせる。返せと言われない限り、問題はないだろう。


「いやはや。お噂は耳にしておりましたが、まことにおうつくしい。陛下が長年の間お独りを貫かれたのも、西姫さまとのご縁を結ばれるためだったのでしょう」


 湯謙保の滑らかな口上は止まるところを知らない。葆の民とは異なる髪や目の色を褒めそやし、歯が浮くような美辞麗句を並び立てる。


「先だっては後宮に雷が落ちるなどという前代未聞の凶事があり、臣一同不安に襲われましたが、こうして西姫さまにお目にかかり安堵いたしました。この葆に、初めて異国より迎える皇后が誕生するという吉報が聞ける日を、心よりお待ち申しあげております」


 リーリュアがむずがゆさを覚え、腰が落ち着かなくなってきたころにようやく、そう締めて辞去していった。


「長かったですね。……西姫さま?」


 嘆息で湯謙保を見送った習珊が、色をなくしたリーリュアの顔を覗きこむ。


「ご気分がすぐれませんか? お待ちくださいませ。至急、輿を用意させます」

「違うわ。大丈夫よ……」


 習珊の袖をつかんで引き留める。

 リーリュアは、今日浴びてきた負の感情の意味に思い至ったのだ。

 おそらくは、先日の落雷騒ぎとリーリュアの存在が結びつけられ、不本意極まりない噂がまことしやかに広がっているのだろう。


 ――龍に護られているはずの皇宮への落雷は、異国人の后誕生に対する天の怒りに違いない。


 冷たくなっていく両手で茱萸袋を握りしめると、緩んだ口からぱらぱらと音を立てて邪気を払う実がこぼれ落ちていく。

 この国にとって毒となるのは、苑輝ではなく自分のほうなのかもしれない。

 石の床に散らばった実をゆるゆると拾っていた視界に、大きな手が入りこんできた。その手が小さな実をつまみ、リーリュアの左の手に乗せる。

 リーリュアが呆然としている間に、すべての実は手のひらの上に集められていた。


「これで終いのようだ」


 最後のひと粒が乗せられた手を握り、右手で包んで胸に抱く。


「ありがとうございます、陛下」

「颯璉が詳しい場所を記しておかぬから、ずいぶんと探してしまった」


 宴から直行したらしい。盛装の苑輝がかぶる冠から垂れる玉が、立ちあがる際に触れ合い澄んだ音を奏でた。

 紅珠の手を借り慎重に呉茱萸を戻した袋が、リーリュアの手から消える。


「渡す物がある、とはこれのことか」

「はい。あ! でも、落ちてしまったので縁起が……」

「縁起? 本当に西姫は、よく葆の言葉を知っておるな」


 苦笑いをして、苑輝は茱萸袋を帯に結びつけてしまう。


「かまわん。よい厄落しになっただろう」

「やくお……?」

「なんだ、それはわからんのか。基準が謎だな」


 独りごちた苑輝は、顎に手を添え右上に視線を向ける。しばらくそうしていたが、やがて諦めたようにうなずいた。


「そうだな。わたしの身におこるはずだった災いを、この呉茱萸が引き受けたと思えばいい」

「代わりに、災いを……。だとしたら、お役に立ててうれしいです」


 苑輝の上に降りかかる災厄は、残らずすべて引き受けよう。

 ひとつだけ手の中に残った実を、リーリュアは自分の茱萸袋の中にそっと混ぜた。


 菊の香に包まれる独り寝の寝台で、茱萸袋を抱いたまま幾度も寝返りを打つリーリュアは、どこかで哀しい鐘の音が鳴らされるのを聴いた。

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