第十三話
――建国より昔。琥氏がまだ、永菻を含むこの一帯を統べる首領の一族にすぎなかったころのことだ。雷珠山に棲まう龍が天で地で暴れ回り、この地に様々な災厄をもたらしたことがあった。
その荒ぶる龍を、後に葆国を興すこととなる琥氏の頭目が率いた四人の書家が、筆をもって雷珠山中腹に建てた廟に封じ、世に安寧をもたらしたという。
以降、龍の加護を得た琥氏の治める地である永菻の皇宮には、決して雷が落ちることはないと語り継がれている。
リーリュアは寝間の隅で、
墨で塗り固めたように真っ黒な空を割る光。腹の底に響く音。目と耳を塞いでも瞼の裏には稲妻が走り、耳の奥にまで雷鳴が響く。
まだ修繕がされない天井から、ぴちゃんぴちゃんと不定期に落ちてくる、雨漏りの雫がたてる音も不気味だ。移ろうにも、ほかの
「西姫さま。もう、お休みでしょうか」
「は、はいっ!?」
突然かけられた方颯璉の声に、リーリュアの声が裏返る。
「お待ちくださいませ! 陛下」
「……陛下?」
そんなはずはない。慌てる颯璉の声に訝かりながら、リーリュアはかき合わせた衾の隙間から薄暗い室内を覗いた。
「西姫。どこにいる、西姫」
「本当に苑輝さま?」
声を頼りにリーリュアの居場所をみつけた苑輝が大股で寄ってくる。
苑輝と会うのは、剛燕たちが訪れた日以来だ。キールの行いに、自分の振る舞いに、本当は腹を立てているのではないかと気を揉む数日を過ごしていた。
先触れもなく現れた苑輝の声音に、焦りや苛立ちが含まれているのを感じて、リーリュアは身を硬くする。
「無事なのだな」
そろりと顔を出すと、声色は安堵したようなものに変わった。
「はい。あの、でも、どうしてこちらへ?」
「この近くに落雷があったと報せがあり来てみたのだ。杉の木に落ちたらしいが、すでに火は消えていた」
「そういえば、少し前にすごく大きな音がしていました。それで、わざわざこちらにもお寄りいただいたのですか」
肩に衾をかけたまま床の上を膝で移動し、苑輝ににじり寄ってみれば、どこか印象が違う。いつもはまとめられて冠をつけている黒髪が、肩に流れているせいだと気づいた。
「そなたはなぜ、そのような格好をしている?」
「それは……」
不思議そうに見下ろされ言葉に詰まる。いい年をして雷が怖かったから、などと告げたらよけいに子ども扱いされてしまいそうだ。
いまさらながら作法通りの挨拶をしようと衾を落とし、苑輝の前に膝をつく。冷たい床で重ねた手に額をつけようとした、まさにその時、またしても特大の雷鳴が轟く。
「いやっ!」
たまらずリーリュアは両耳を押さえ、苑輝の足元にうずくまった。
「西姫はもしや、雷が怖いのか?」
腰を折った苑輝に耳を塞ぐ手首が掴まれ、再び音が鮮明になる。まだ鳴り続ける雷に、リーリュアは床の上でさらに小さく縮こまる。
思悠宮にきてからというもの、幾度となく雷雨にみまわれていた。だが颯璉を筆頭に、この宮の者たちは頻繁に起こる雷に対し平然としているのだ。
「いちいち怖がっていたら、
ところが、今回の激しい雷の前では、その虚勢を保つことは不可能だった。かといって皆に泣きつくこともできずに、じっとひとりで耐えていたのだ。
「嘘つき。落ちないと言っていたのに」
青ざめたくちびるから、だれに聞かせるでもなく涙声の愚痴がもれる。震えの止まらない背中に片腕が回され、頭は大きな手で抱えられた。
「それはすまなかったな。収まるまでこうしているから、許せ」
あぐらのうえに乗せられ、耳も目も覆うように苑輝の腕の中に閉じ込められる。とたんに目に突き刺さる眩しい光も、息が止まりそうな轟もリーリュアには届かなくなった。
代わりに聴こえてきたのは、自分のものよりも穏やかに刻まれる苑輝の鼓動。それに合わせるように、リーリュアの心臓も落ち着きを取り戻し始める。
しばらくすると、互いの呼吸音が感じられるほどまでに、雷鳴も雨音も遠のいていった。静寂を邪魔する雨垂れの音がそこかしこで鳴る房を見回し、苑輝が眉をひそめて嘆息する。
「それにしても、ひどい有様だな」
「先日までは、これほどひどくはありませんでした」
剛燕たちが屋根の上を歩き回り、手当たり次第に雑草を抜いたのが致命傷となったのだ。くちびるを尖らせて颯璉の口まねで苦情を申し立てると、苑輝は天井に向かって舌打ちした。
「西姫の国には雷はないのか?」
「あります。ありますけれど、こんなにすごいのは初めてで……」
距離の近さをあらためて認識し、子どもじみた行動が恥ずかしくなる。言い訳して苑輝から離れようとするが、しかし腕の力が緩められることはなかった。リーリュアの気持ちを宥めるように片手はゆっくりと、乱れた金の髪を梳く。
「ではいつも、あのようにひとりで耐えていたのか」
苑輝が床に投げ出された衾に痛ましげな視線を送るので、リーリュアは肩口に額を押しつけ顔を紅くする。
「アザロフの城ではいつも、母や姉や……キールが傍にいてくれました」
髪を撫でていた苑輝の手が、不意に止まった。
「あの従者は劉家を出ていったらしい」
「そうでしたか。国に着くまで、何事もなければいいのですが……」
「ともに帰らなくてよかったのか?」
長い旅路を憂い睫毛を伏せると、探るような口調で問われた。リーリュアは絹地に額を擦りつけながら首を振る。
「何度も言わせないでください。わたくしの家はここなのです」
ふっと、吐息が耳朶を掠める。甘いくすぐったさに襲われたリーリュアは、細い肩を小さく跳ねかせた。
「雨漏りするこの宮が? たかが雷にさえ雛鳥のように震えているというのに」
揶揄を含んだ声にリーリュアは毅然と顔をあげ、苑輝を上目で睨む。
「わたくしはここが、この思悠宮が好きですわ。静かだし、空気は清涼。皆もよくしてくれます。雷だって……慣れてみせます! ええ、きっと、たぶん」
勢いに乗っていた言葉は徐々に尻すぼみになり、肩も眉も下がっていく。すると苑輝から忍び笑いが漏れ、再び指がやわらかな髪を弄ぶ。
「無理をしなくていい。気に入ってもらえたのは嬉しいが、やはりここではなにかと問題がありそうだ。面倒だろうが、住まいを遷ってはもらえないか」
「どちらへでしょう」
ついに後宮を追い出されるのかと身構えるが、告げられた転居先は意外な場所だった。
「
「なにか、とは」
この前の件を気にしているのか、物騒な物言いが引っかかる。不安げに小首を傾けると、苑輝はくちびるで緩やかな弧を描いてうなずいた。
「ああ、そうだな。――たとえばこうして、そなたを雷から守ってやろう」
両腕を腰に回され、今まで以上に引き寄せられる。ようやく凪いだばかりのリーリュアの心音が、雷の轟きよりも騒がしくなった。
自分も遠慮がちに苑輝の背に手を回し、摺りたての墨のような清々しさのある玉香と微かな酒精が香る胸に、驚きと嬉しさと、羞恥に染めた頬を寄せる。
「苑輝さまがそう言ってくださるのなら、怖いものなどありません。雷だって、幽鬼だって、たとえなにがあろうとも」
淡い熱を帯びた瞳に自分の姿が映る。ようやく想いが苑輝に届いたのだとリーリュアは思った。
証をねだるように見つめ返したリーリュアの頤に指が添えられる。キールのときに抱いた戸惑いは皆無だった。
しかし次の瞬間、黒い瞳からすうっと熱が引いていく。後悔するように眉根を寄せた苑輝から、やがて深く息が吐き出され、顎にあった指先は力なく外された。
「――
リーリュアは息を呑む。あらためて向けられた眼差しは慈愛に満ち、決して冷たいものではない。だがそれは、彼女が望んでいた答えとは異なる。
「わたくしはもう、雛鳥ではありません」
長い睫毛を震わせて呟くと、苑輝は首を横に振って腕の中からリーリュアを解放した。彼女を包んでいた温もりと香りが遠ざかっていく。
「必要なものはこちらで揃えておく。明日にでも遷るがいい」
房から出ていく苑輝を、床にぺたりと座りこんだまま茫然と見送る。いつまでも瞼から消えない後ろ姿に、彼のまとう衣の縹色が、裾から膝のあたりにかけて色が変わるほどしっとりと水気を吸い、たくさんの泥はねができていたと、雨上がりの夜に虫の声が戻るころになって初めてリーリュアは気づいた。
落雷による出火を知り、髪を結う暇も惜しんで駆けつけてくれたのだ。
礼を言わなければと房を飛び出したが、、すでに苑輝の姿は思悠宮から消えたあとだった。
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