第十二話

 閃光で室内が一瞬明るさを増し、一拍後れて雷鳴が轟く。戸板を叩く雨音の激しさから、横殴りの雨が降っているのがわかった。

 雷は、雷珠山山麓に広がる永菻の夏の風物詩ともいえる。ここで生まれ育った者たちにとっては、空を切り裂く稲光も、耳をつんざくような雷鳴も慣れたものなのだが、今夜の雷雨は、数年に一度あるかどうかというくらいに激しい。

 この嵐の中、訪いが告げられる。開けられた扉から吹き込む風で、灯火が大きく揺れた。そのうちのいくつかは消えてしまったようだ。

 雨の匂いをまとわせた官服の男がふたり、皇帝の御前に姿を見せる。


「拝謁のお許しに感謝いたします」

「こんなときにまで仕事とは、熱心だな」

「陛下は、こんな時分から御酒などお珍しい」


 いつもなら苑輝はこの時刻、まだ執務中だ。それが、今宵は静かに盃を傾けていた。


「さすがにここまでうるさくては敵わん。ふたりもともにどうだ?」

「いいですね」


 袍の雨滴を払いながら、劉剛燕が舌なめずりで応える。

 苑輝は新たに酒盃を用意させようとするが、それには李博全が、丁重に断りを入れた。


「大変光栄なのですが、その前にご報告をさせてください。庚州の件です」


 州の名が出たと同時に、苑輝は盃を卓子に置く。その横に博全は巻子を広げた。


「先日、押収した記録が届きました。これは、その一部をまとめたにすぎませんが……」


 細かく記載された数字を博全が説明する。優美で明確な筆遣いの文字が几帳面に並ぶ書は、彼の手によるものだ。

 剛燕は横からのぞき見ただけで、うんざりと顔を背けてしまった。


「かなりの人夫の数を水増ししています。国からの十分な補助を受け取っているはずですが、それが末端まで届いていないようです。少ない人数で採掘量を得るために、彼らは過酷な労働をしいられているのでしょう」


 働き手の多くは、日照りや水害で土地を離れた流民だ。日々の暮らしにも困っているような者は、たとえ過酷な仕事でもないよりはと泣き寝入りするしかない。


「これからさらに詳細を調べてみますが、ほかにも横流しや数字の改ざんなどもありそうです」


 苑輝は並べられた文字を目で辿る。庚州の鉱山は国内にいくつもある内のひとつだ。だからといって、おざなりな管理をしていたつもりはないが、多忙な政務の流れの中で見落としてしまっていたのかもしれない。己の意識の低さを省みる。


「西から帰ったばかりなうえ、直接の管轄ではない博全の手を煩わせてすまない。ここまで詳細な数字を出すのは骨が折れたのではないか? 自身の仕事もあるだろうに」

「お気遣い痛み入ります。ですが以前いた部署ところなので比較的手も口も出しやすく、特に問題はありません」


 涼しい顔で事も無げに言う。

 帝位に就いて十年。いまだ片付けなければならない問題は、次から次へとわいてくる。

 引き続きの調査を命じて、苑輝は酒盃に手を伸ばした。


「止まぬな。――雨漏りは大丈夫だろうか」


 会話の邪魔をする光と音は、いっこうに衰える気配をみせない。酒気とともに心の内が漏れ出した。

 それを耳に留めた博全が渋面を作る。


「雨漏りといえば。思悠宮で、剛燕の犬に吠えられたとうかがいましたが」

「犬? ああ……」

「不敬を働いたばかりか、西姫を連れて逃亡を企てようとしたそうではありませんか」

「逃亡って、また大仰な」


 鼻を鳴らした剛燕を、じろりと博全が睨めつけた。しかし、太い首をすくめながらも、悪びれる様子はない。さらには苦言を呈してくる。


「けれどね、あいつの言うことにも、一理あるとは思われませんか? いまのままでは、ご意思がどうであれ、周囲はあの姫がいずれ后にと考えるでしょう」


 苑輝とて当然、現在のリーリュアの状況を善しとしているわけではない。予定では、とうに音を上げて故国へ帰っているはずだった。

 キールから向けられた、清々しいほどに真っ直ぐな敵意を思い出す。ひしひしと伝わるリーリュアへの一途な想いは、眩しいほどだった。周りを顧みない浅はかな言動さえ、己にはなかったものだとうらやましくもなった。

 追いかけなくてよいのかと問われて答えた言葉に偽りはない。

 現在の世情ならば、アザロフも無理に他国と縁組をする必要もないだろう。剛燕が自身で預かってもよいと思う程度には見所がある自国の若者に末姬を託せるのならば、むしろ国王夫妻は慶ぶのではないか。


「いっそ戻らねばよかったのだ。年頃もちょうどよいではないか」 


 しらず口の端をあげた苑輝は、盃の濁った水面に目を落とした。

 まるで十年以上昔の出来事が再現されたかのような光景。しかし、すがるような翠緑の瞳を残して見えなくなった華奢な後ろ姿は、あのときとは似て非なるものだった。

 わずかにたった細波ごと、一気に酒を呷る。

 酒器を手にした剛燕が、再び盃を満たした。


「まさか、若い者は若い者同士、なんて年寄り臭いことをおっしゃるんじゃありませんよね」

「実際、彼らからすれば年寄りだろう」

「そんなこと言ったら、博全のオヤジ殿に懇々と説教されますよ」


 剛燕が勧めるまま杯を重ねる主に、博全が眉をひそめる。それを横目で見留めながらも、苑輝は盃を空けた。


宜珀ぎはくか。それは……面倒だな」


 先帝の代からの重臣はまだまだ現役で、政の中心を担っている。彼からしてみれば、在位十年になる苑輝とてまだ青い若造だろう。


「私に妹ができたのは、父がいまの陛下と同じ年のころです。なんら問題は無いかと」


 真顔で唱えた博全が剛燕から酒器を取りあげるが、中身はすでに空だ。


「ですが、苑輝さま。年齢の差を気にするようになられたんですねえ」


 剛燕のかららうような口調に、胡乱な目つきで苑輝が「なんのことだ」と反論するが、「さて」とはぐらかされる。

 手の空いた剛燕は、懐から布に包んだ紙片を取り出した。


「まあ、次はこちらをご覧ください」


 小さく折り畳まれているものを、苑輝が慎重に開く。


「これは?」

「思悠宮の屋根瓦の隙間に挟まっていたものです」


 風雨にさらされ、日に雨に当てられたためだろう。破損や汚れが目立つ紙の中心に小さく書かれていたのは――


「『返』?」

「秘書省の者は、だろうと」


 葆の秘書省には、筆蹟鑑定を専門とする文官がいる。思悠宮をあとにしたその足で、剛燕はこの紙を持ちこんだ。


「手蹟の主は判明したのか」

「それがまだ。傷みがあるうえに、意図的に筆蹟を変えているのではないかという話です」


 苑輝の指先が歪んで滲む墨跡を辿る。幾度も繰り返して、首をひねった。


「返る、返す……いや、返れ、返せのほうが強いか」


 線の勢いや抑揚、そこにこめられた意図を探ろうとするが、肝心のところがはっきりしない。文字が不明瞭なためか、それとも書き手の問題か。

 

「剛燕、思悠宮の屋根でみつけたと言ったな」

「ああ。お前の読みどおり、工部には颯璉の話が伝わっていなかったようだ。それから瓦が数カ所ずれていたが、あれも人の手によるものだろうな」

「だれがなんのために……?」


 滑らかな顎に手を添え思案していた博全が、はっと顔をあげて苑輝の手元から書を取りあげた。親指と人差し指で紙の端を摘まみ、腕を目一杯伸ばして主から遠ざける。


「もしやこれは、西姫を狙った呪符なのでは!?」


 怨念のこもった書などに触れてくれるな、と気色ばむ。

 リーリュアの輿入れに不服がある者の仕業である可能性には、苑輝も思い至った。しかしこの文字から受ける印象に、そこまでの禍々しさは感じない。

 それ以外の点にも疑問が残る。


「そうならば、『返』よりも『帰』が適当とは思わないか」

 

 いいながらも、苑輝の懸念は増す。おそらくは官制の環魂紙。汚れや破れがあるとはいえ、思悠宮が無人だった年月を考慮すると、そこまでひどい劣化ではない。ならば、リーリュアに向けられた文字だと考えるほうが自然だ。

 苑輝の耳の奥で、狂乱した母の声が反響する。

 リーリュアには伝えていないが、曹皇太后はあの直後に発作を起こして倒れていた。病状は一進一退を繰り返しており、予断を許さない。

 夫である望界帝を殺してから――いや、その前から、皇太后の心身はひどく不安定な状態にあった。時期を前後して、卒中を起こしたことも関係しているのだろう。近ごろでは、たびたび記憶の交錯もみられるようになっていた。

 その状況でリーリュアのことを知った皇太后は、夫の元へ新たな妃がやってきたと思いこんだのである。リーリュアを襲った際の皇太后は、先帝に自ら毒を盛ったことも、既にこの世にいないことさえ忘れ去っていた。記憶の混乱が興奮を呼び、それがいままでになく大きな発作を引き起こした。

 ところが、理不尽な仕打ちを受け、後宮の醜さや恐ろしさを身を以て経験したというのに、リーリュアはまだ国に帰ろうとしない。図らずも腕に収めた身体は、少し力を加えれば壊れそうにか細いものだった。それなのに、自身が受けた痛みにではなく、苑輝のために涙を流す。なにがそこまで彼女を強くしているのか。

 答えはすでに、もらっている。


「とにかく、この書についてはもう少し情報を引き出すよう、秘書省に差し戻しておきます」


 博全から紙を押しつけられた剛燕の声が、苑輝の意識を引き戻した。


「そうだな。念のため颯璉にも、今一度宮女たちの身辺の確認させておこう。必要ならば、筆蹟も――」


 薄絹を貼った格子戸越しでも目が眩むほど鋭く外が光り、ほぼ同時に殿舎が揺らぐような轟音にみまわれる。


「近いな」

「まさか、落ちましたか」


 雷の多い永菻でも、雷珠山の中腹にある宗廟に封じられた龍の加護により、皇宮に落ちることはないといわれている。

 全員の顔が、閃光が走った西を向く。


「それから、もうひとつ。思悠宮の警護をまとめている武官から聞かされたのですが」


 西――後宮の方角に、険しい顔を向けたまま剛燕が口を開いた。その、いつになく重い口調に、苑輝は襟を正す。


「ある衛士が、思悠宮の周辺で仔猫を数匹みかけたと」

「そういえば、あそこで産まれたと言っていたな」

一所ひとところに集まってしきりに地面を引っ掻いていたのですが、その者が近寄ると逃げてしまったそうです。けれど猫たちはどこからか見ていたようで」


 剛燕の話は要領を得ない。先を急かしたい気持ちを抑え、苑輝は辛抱強く耳を貸していた。


「彼が離れるとまたそこに集まってくる。それを数回繰り返し……」

「それがどうした? もったいぶらずに早く言え」


 先に博全がしびれを切らす。「まあ、待て」と剛燕は順を追う。


「妙に気になっ衛士は、猫がいたところを掘ってみることにしました。すると、腐敗の進んだ――ネズミと思われる死骸が数匹分、いたそうです」


 苑輝は思わず息を呑む。


「それは……」


 吐き出す息に、雨音をもかき消しやってくる足音が重なった。

 侍従が扉を開けると、風雨を伴ったずぶ濡れの衛士が転がり込む。


「陛下に申し上げます! 後宮に――思悠宮付近で落雷があり、火の手があがったとの報せがございました」


 皆まで言い終える前に、苑輝は立ちあがっていた。 

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