第五章 齟齬

第十一話

 リーリュアは膝を抱えて座りこみ、地面の一点を厳しい顔で見詰めていた。


「なにをなさっているのですか? まだ無理をされるとお身体に障ります」

「紅珠、もう平気だと何度言わせればすむの?」


 静稜宮での一件は、方颯璉から丹紅珠に堅く口止めがなされた。ほかの宮女たちに、赤く腫れた頬や身体中の傷は皇太后の所業だと告げるわけにはいかない。事情を知る紅珠がリーリュアの看病を任され、以来影法師のように付き従っていた。

 直後は発熱し、三日間ほどは寝台から出してもらえなかったが、熱も痛みも引いたいまではほとんどの痣が消え、順調に体調は回復してきている。

 しかし、続けざまに床に就くことになったリーリュアを、近頃では皆があれこれとかまうようになった。彼女たちとの距離が近づいたことは喜ばしいが、今は過保護すぎて困っているくらいだ。

 贅沢な悩みのため息を落とした地面を、紅珠も脇から覗き込んできた。途端に悲鳴をあげる。


「ど、ど、ど、どうして、ミミズなんか見ていらっしゃるんですかっ!?」

「この前太医が持ってきたお薬ね、ミミズが入っているのですって」


 リーリュアが初めて処方内容を知らされたときと同じく、紅珠の表情が固まった。葆で常用されている薬に、葆の民がこれだけ衝撃を受けるのだ。解熱効果があるという薬を飲んで、リーリュアの熱がぶり返しそうになったのも無理はない。


「毒蛇や毒虫も薬になるものがあるというし。驚いたわ」

「毒……」


 息を呑み顔色を青白くさせた紅珠に上の空でうなずく。

 苑輝から蠱毒の話を聞かされ関心を持ったリーリュアに水を向けられた太医が、喜々として生薬の説明をしてくれたのだ。

 皇太后のもとを訪れた日、苑輝は結局リーリュアの想いに答えを返してはくれず、ゆっくり休むように念を押して帰っていった。その言葉もむなしく結局はまた寝込むことになったのだが、今回は見舞いに訪れることはなかった。

 ただ、いますぐ環境を変えるのは勧めないという太医の診断を盾に、こうして思悠宮に居座ることには成功した。かわりに宮の周囲に衛士が置かれるようになったらしい。らしい、というのは、その姿がいっさい目に入らないからだ。女の園に物々しい武官を配することに支障があるという以外に、リーリュアへの配慮なのかもしれない。

 また、体力作りに散策しようとすれば、紅珠だけではなく颯璉までもがついてきて、敷地内の狭い範囲を周回させられるという味気なさ。

 再び、後宮という鳥かごに放置される日々が続いていた。

 それでもリーリュアの中に、ここから出ていくという選択肢は相変わらずない。あの一連の出来事を思い返すと、様々な感情が胸に詰まって痛くなる。それでも、だ。

 陽の当たるしきがわらの上でのたうち回るミミズを小枝にひっかけ、草むらに放り込んだ。


「オレ、瓦なんて直せませんよ」

「かまわん。今日のところは下調べだからな」


 突然、緑濃い木立の中が騒がしくなる。こちらに向かって近づいてくる聞き覚えのある声に、リーリュアは小枝を投げ捨て駆けだした。


「キール!」

「……姫さま」


 剛燕とともに現れたキールは、ヒゲ面に恨めしげな視線を投げる。


「おっさん! 姫さまのところへ行くなんて聞いてなかった」

「そうだったか? 後宮に行くとは伝えたはずだが」

「どうしてあなたがここに……?」

「工部の連中の腰が重そうなので、屋根の状態をみにきました。ちゃんと内侍省の許可は取ってますのでご安心を」


 示した腰にさがるのは、大剣ではなく割り符だ。剛燕は胡散臭さを豪快な笑顔でごまかし、肩に担いでいた荷を降ろす。


「そうではなくて」


 アザロフに帰ったはずのキールが、なぜ剛燕とここにいるのか。


「……姫さま、少し痩せました?」


 目の前まできたキールは、憂い顔をみせた。


「そんなことより、なぜ帰らなかったの? きっとみんな、あなたの帰りを待っているはずよ」


 キールの両親は健在で、兄弟や友もいる。リーリュアの責め立てるような口調が、彼の気に障ったようだ。さらに険しく眉間を寄せる。


「なんでって? そんなの……」

「いかがわしい通りでうろついていたのを拾ったんですよ。よっぽど葆の酒が気に入ったらしい。なっ!」


 剛燕はキールの肩に手を乗せ、勢いよく叩く。弾みでよろけそうになり睨み付けるが、せせら笑いで一蹴されていた。


「仮にも主人に対してそのような態度は感心せんな。――姫さん。こいつはいま、劉家の従者なんですよ。孩子チビたちのいい遊び相手で」


 リーリュアが驚いた視線を向けると、彼はふて腐れた顔でうなずく。亜麻色の短い髪はどうにもならないが、交領の上衣にゆとりのある袴という格好はすっかり葆の若者だ。


「じゃあちょっと、屋根の上を失礼しますよ」


 竹梯子を裏手から運んでくると、突き出た軒先に立てかける。剛燕はキールを伴い、大きな身体に似合わず身軽な動きで急勾配の屋根を登っていった。


 瓦の隙間にはびこっていた雑草が抜かれ、無造作に上から落ちてくる。それを黙々と片付けていたリーリュアだったが、さすがに腰が痛くなってきた。加えて夏の陽射しがきつい。瓦の上にいる男たちはなおさらだろう。


「ふたりとも! いったん降りてきて休憩しましょう」 


 なにやら賑やかな屋根に向かって大きく両手を振り叫ぶと、キールが手を振り返す。 

 颯璉は渋い顔をしたが、木陰に広げた毛氈の上で、リーリュアは皆と茶を楽しんだ。思悠宮のすぐ脇を流れる小川で冷やした瓜なども用意され、その瑞々しさと甘みに舌鼓を打った。


「おっさ……劉将軍の奥方はとても小柄な方で、そのうち邸の中で熊に踏み潰されるんじゃないかって、劉家のみんなが心配しているんですよ」

「そうなる前に、こっちが斬り殺されるわ」


 リーリュアが、自分のように習慣のまったく異なる葆での生活に戸惑っているのではないかとの心配をよそに、キールは剛燕の邸での生活を面白おかしく話して聞かせる。


「孩子は孩子たちの面倒をみるのがうまくて助かっています。倅の剣の相手にちょうどいい」

孩子孩子チビチビ言わないでください。でもすごいんですよ、義侑ぎゆうさま。まだこんなに小さいのに、ちゃんと剣を持てるんです」


 興奮気味に手のひらをかざしたのは、座したリーリュアの目線より少し上。熊だ孩子だと言い合うが、武人としての気は合うらしい。剛燕の元なら大丈夫だと、リーリュアは安心する。

 後宮に入ってからというもの、こんなにも楽しくおしゃべりして笑ったことがあっただろうか。リーリュアの顔に明るい笑顔が戻っていた。


「剛燕が犬を連れてきたと聞いたのだが……」


 その場にいた者の顔が一斉に声のした方向を見る。それまで無礼講で輪をつくっていた宮女たちが、さっと下がって拝跪した。

 ひと呼吸遅れてリーリュアたちも頭を下げようとするが、そのまえに皇帝本人から制される。


「邪魔をしてしまったか?」

「いえいえ。陛下も一服、ごいっしょにいかがです?」


 先触れもせずやってきた苑輝にも、気易く同席を勧める剛燕にも颯璉は眉をひそめるが、苑輝が躊躇いもなく座ってしまったため、渋々といった体で茶の用意を始めた。


「博全が言っていた犬……いや、なんでもない。そなたはたしか、あのとき西姫と」


 唐突に訪れた間近での皇帝との対面に、キールが表情を強張らせた。


「あ、え、その……。その節は失礼しました」

「そうか。立派な青年になったな。わたしも年を取るはずだ」

「陛下。瓜もよく冷えてうまいですよ」 


 ぎこちないながらも世間話を始める横で、リーリュアの鼓動は速くなっていた。会いたい、話がしたいと願っていたはずなのに、いざとなると苑輝にどう声をかけたらいいのかわからない。

 顔を上げ口を開いては、なにも言えずに閉じて俯くことを繰り返していた。


「本日は突然のお越し、いかがなさいましたか」


 颯璉の問いではっと顔を上げる。苑輝が自発的にここへやってきたのは初めてのことだ。


「ああ。屋根の修繕が必要だと聞いたので様子を確かめに。――どうだ?」


 心なしか険しい顔を向けられた剛燕が屋根をみやり、歯切れ悪く答える。


「そうですね。あまり良い状態ではないようです。専門外のオレではお手上げなので、詳しい者に調べさせたほうがいいかと思いますよ。早急に対処するか、ほかに遷っていただくことを考えられては? 使える殿舎はいくらでもおもちでしょう」

「そう、だな」


 苑輝は思案顔で返事をするが、あまり乗り気でないようだ。 


「……どういうことですか」


 補修したとはいえ一目でわかる寂れた宮に、少ない宮女。自国の姫の扱いに不審を感じたキールが、ふたりの会話に割って入る。


「リーリュアさまを后にしておいて、わざとこんな寂しいところにあるぼろ家に住まわせているというのですか?」

「そんなことはないわ。ここもすてきな場所よ」


 慌ててリーリュアが取り繕うが無駄だった。キールは苑輝に、問い詰めるような視線を投げ続ける。


「妻にしてはいない。当然、共寝も。余は葆に留まることを望んだ姫に、適当な住まいを与えたにすぎない」

「そんな! だって……」


 キールが信じられないような目でリーリュアを見る。俯いて固く結んだ口は、あらためて言い渡された自身の立場へのもどかしさを表していた。


「客人としての扱いに不服があるのなら、国へ連れて帰れ。新たな嫁ぎ先をみつけるのに、なんの問題もないだろう」

「そんなおかしな理屈が通るとでも? 我が国を、リーリュアさまをバカにしているんですかっ!?」

「キール、やめて!」


 下唇をかみしめて苑輝の言葉を聞いていたリーリュアが叱責する。不敬がすぎると謝罪を促すが従わず、彼の苛立ちはリーリュア自身にも向けられた。


「だからいっしょに帰ろうって言ったのに。姫さまも、どうしてこんな扱いを受けてまでここにいるんですか。こんな男と結婚したって、幸せになんかなれるはずがない!」

「お黙りなさい! それ以上の物言いはわたくしが許しません」


 ぴしゃりと言い放ち、リーリュアは苑輝の前に跪く。

 状況的にはこの場で首を刎ねられても、文句は言えない。周囲にも緊張が走った。


「まことに申し訳ございません。この者が国へ帰らなかったのはわたくしの不行届。即刻葆から出国させアザロフへ戻しますので、この場はわたくしに免じ、どうかご寛恕を」 

「……まったく。だれがそのような言い回しを教えたのだ」


 叩頭するリーリュアに苦笑し、苑輝は眇めた目を転じる。感情を消した黒い瞳を向けられ、キールが顎を引いた。


「そなたの言うとおりだ。西姫は余の許にいても不幸になるだけと、本人にも伝えてある」


 キールの暴言にも冷静を崩さない苑輝の顔は、微笑んでいるようにさえ見えた。


『なんだよ、それ。リーリュアさまは、そんなんでいいのかよ!?』


 キールはリーリュアの腕を掴み引っ張り上げる。


『行こう』


 リーリュアは必死に振り解こうと抵抗するが、大人になったキールの力に敵うはずもない。萬華門へと続く道が通る木立へと、引きずられるように連れて行かれてしまう。

 

「苑輝さま!」


 悲鳴にも近い声に腰を浮かせた剛燕が、主に問うような視線を投げる。成り行きをおろおろと見守っていた宮女たちも、颯璉に判断を仰ぐ。しかし「かまうな」という無情な答えがリーリュアの耳に届いた。


「離して。離してちょうだい、キール!」

『こんなときでも葆の言葉なんだ』


 思悠宮の屋根が、繁る枝葉で見えなくなってようやくキールは足は止めたが、腕を握る力はさらに増す。痛みと不快で、リーリュアは顔をしかめた。


「皇帝の前でこんなことをして、どうなるかわかっているの?」

「あいつにはなにも言う権利なんかない。だって、姫さまはお后じゃないんでしょう?」

「それは……。だけど、っ!?」


 大木の幹に身体を押しつけられて、両腕で囲い込まれてしまう。十年前はリーリュアより低い位置にあったはずの榛色の瞳が、いまはずっと上から見下ろしていた。


「だったら、オレがこんなことをしても問題はありませんよね?」

「なにを、言っているの?」


 ふっ、とキールが笑った息がかかる距離に、リーリュアは困惑を隠せない。


「オレがどんな思いで姫さまの傍にいたか、知らなかったんですか? 熱心に葆語を習っている間も、瞳を輝かせてあいつの噂話に聴き入っているときも。オレはずっと、リーリュアさましかみていなかったのに」


 そんなことは知らない。一心に首を横に振り続ける。


「だって、キールは……」

「主従だから? 弟みたいなもんだから?」


 これまでみたこともない笑みで口を歪め、キールはリーリュアの耳の縁から首筋に沿って指先を滑らせていく。びくりと肩を揺らすと満足げに目を細めた。


「オレは姫さまのことを、ただの一度だって姉だと思ったことなんかない。命をかけてでも守らなければいけない大切な姫君で、誰よりも愛しい女性ひとだった」


 見開かれた翠の瞳は、切なげに眉を寄せるキールを映す。そこから視線を逸らして、彼は小さく息を吐いた。


「いずれ他国に嫁いでいく王女への恋なんて、叶わない想いだと初めからわかっていたから、伝えるつもりはなかった。せめて、傍であなたの幸せを見守ることができるのなら、それで満足するつもりだったのに……」


 下りてきた指が、小さな顎先を捕らえて持ち上げる。


「あんな男を好きになったリーリュアさまが悪いんです」


 近づけられる顔を避けることもできない。リーリュアの瞳からひと雫の涙が、震えるくちびるからは音にならないアザロフ語がひと言、こぼれ落ちた。

 途端に身体が自由になる。

 キールが傍らの木に思い切り拳を打ちつけた。驚いた小鳥が啼きながら飛び立っていく。


『ごめん、ってなんなんですか』


 リーリュアは彼の肩に触れようとした手を引き、胸の前で握りしめる。


「キールの気持ちに気づかなくてごめんなさい。心配ばかりかけて、辛い思いをさせてごめんなさい。それから……あなたの想いに応えられなくて、ごめんなさい」


 どんなに大切で好きだと思っていても、それはあくまで身内としての愛情だ。苑輝へ向けているものとは、絶対的ななにかが違う。


『勝手にしろっ!』


 木々の間に消えて行くキールを引き止める権利は、いまのリーリュアにはない。

 自分をいつも守ってくれていた背中が完全に見えなくなるまで、ごめんなさいと何度も繰り返していた。



「度重なるご無礼、まことにお詫びのしようもございません。 お叱りはわたくしに」


 裙の裾を乱して苑輝の元へ戻るなり、倒れ込むように膝をついて頭を下げる。額を磚の上で重ねた両手の甲に擦りつけんばかりのリーリュアの前に、呆れながら苑輝が片膝をついた。


「颯璉は、そなたに謝罪の作法ばかり教えたようだ」

「そんなことは。でもっ! 苑輝さまにあんな失礼なことを……」

「真実を指摘した者を罰するほど狭量ではないつもりだ。それに、あの程度でいちいち腹を立てていては、この皇宮には人がいなくなってしまう。なにせ、不敬な大熊や口煩い古狐の住処だからな。それでも責任をというのなら、彼の者の主人だという剛燕を咎めなくてはならなくなるが?」

「それはダメです!」


 即答であげられたリーリュアの顔に涙の跡をみつけ、苑輝は眉を曇らせた。


「旧知の身を案じて泣いたのか。それとも、ほかになにか?」

「……いいえ、なにも! 林の中を走ったので、目に虫が飛びこんだのかもしれません」

「虫? どれ、診せてみなさい」


 頬に手を添え、顔を近づけてくる。とたんに跳ねた胸の音に驚き、思わずリーリュアは身を引いてしまう。


「大丈夫です。もう、取れましたから」


 動揺をごまかすように袖でゴシゴシとこすったリーリュアの顔は、さらに赤みが強まった。

 置き去りにされた苑輝の手が、所在なげに衿を直す。


「ならばよい。気をつけなさい」


 顔をあげられないままうなずくと、苑輝はゆるりと腰を上げる。


「屋根の件だが……なにがおかしい?」


 一歩離れた場所から、にやけた締りのない顔の剛燕がふたりを眺めていた。


「どうぞお気になさらず。屋根ですよね。ええ、詳細がわかり次第ご報告します。ご安心を」


 政務へ戻っていく苑輝を、皆で拝礼して見送る。

 その後ろ姿が木立の中に消えると、思い出したようにセミの声が大きくなった。

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