第十話
◇
「曹皇太后が?」
「はい。ぜひ
なんの前触れもなく、輿を連れて思悠宮を訪れた女官が、無表情のまま恭しく頭を下げる。リーリュアは、皇太后の宮殿に招かれたことに困惑し、その返答に悩んでいた。
指示を仰ごうにも、方颯璉は少し前、何度目かになる屋根の修繕の要請に萬華門まで赴いてしまっていて不在だ。だれかを迎えに行かせるか。しかしそれでは、使者を長時間待たせてしまう。
体調が回復したリーリュアは、何度か颯璉から皇太后の話を聞き出そうと試みたが、数年前に中風で倒れて以来療養中なのだと教えられただけだ。
本来ならば、リーリュアに拒否権などない。もしこの場にいたら、規律にうるさい彼女はどう返事をするのだろうかを考え、これはまたとない機会ではないかと思い至る。
「わかったわ。支度をするので、少し時間をもらえるかしら」
リーリュアは女官を待たせて、皇太后を訪問するための身支度を調えた。
非公式なものとはいえ、皇太后との謁見となれば気は抜けぬ。游葵が数日前に仕立てあげたばかりの襦裙に袖を通す。彼女は、普段のおっとりとした所作に比べて驚くほど手が早かった。
髪を結う習珊から「颯璉に無断で本当に行くのか」と何度も確認される。宮女たちが、皇太后のあの状態を知っているのかはわからない。だが、突然のお召しに戸惑っているのは、彼女らも同様なのだろう。
正直なところ、静稜宮の庭でみかけた曹皇太后の姿を思い出すと、いまでも背筋がぞくりとする。しかし、なにひとつ進展しない現状をどうにかしたいという想いが勝った。
リーリュアは丹紅珠を伴い、玉簾のさがった輿に乗る。初めて経験する揺れは、あまり心地の好いものではない。早くも道程に不安を覚えた。しかしこの間はずいぶん遠くに感じた宮殿には、近道があるのか緊張していたせいか、思いのほか早く到着した。
輿の上のリーリュアの姿を見て門衛が少し驚いた顔をみせたが、女官のひと言ですんなり通される。規模は思悠宮と似ていたが、建物は雲泥の差だった。当然の如く、建具のどこにも壊れたところなどない。柱や扉、至るところに使われた丹色の鮮やかさが目にしみる。
女官に案内され内に進むが、この宮にも
落ち着きなくあたりを見渡しているうちに、天井から幾重にも紗幕が垂らされた奥にいる人の存在に気づく。
数段上に据えられた長椅子の肘掛けにもたれるように座しているのは、先日庭でみかけた老女――曹皇太后だった。
「皇太后さま。西姫をお連れいたしました」
女官の声でリーリュアは我に返る。颯璉から教えられたとおりに拝跪し口上を述べ、入宮の挨拶が遅れたことを詫びた。
ところが、いつまで待っても立ち上がる許しが出ない。なにか不手際があったのだろうか。不安に駆られるリーリュアに、衣擦れが近づく。下げたままの視界に、長裙の裾が入ってきた。
「そなたと会うのは二度目ですね」
リーリュアの真上に落とされた声は、皇太后の年齢に比べて張りがありしっかりとしていた。
「さあ、お立ちなさい」
だがリーリュアの白い手をとる皇太后の骨張った手は、染みとシワの浮いたものだ。むせるほどの甘い香りが、精緻な刺繍の鳳凰が舞う広袖をまとった身体から漂う。
「異国からきたあなたの口に、この国の味が合えば良いのだけれど」
そのまま手を引いて席まで導く。微笑む皇太后が下げたシワを刻む目尻に、苑輝とのたしかな繋がりをみつけ、リーリュアの肩から力が抜けた。
注がれた茶からも、花の蜜のような香りが立ちのぼる。袖で隠した口元に茶杯を運んだ。
「おいしい!」
紅珠たちが淹れる茶には、ときおり渋みや苦味を感じることがある。こと体調を崩してからは、薬茶ばかりが出てきて辟易していた。ところがこちらは、香り同様にとろりと甘い。淹れ方の問題か、そもそも茶葉が違うのか。
思わずつぶやきをこぼしてしまう。しかし皇太后は、リーリュアの無作法を咎めることはなかった。
「そなたの国とは異なることが多いゆえ、気苦労も多かろう」
茶や菓子を勧められる。リーリュアが請われるまま、浮かされたように続ける故郷の話に、皇太后は穏やかな笑みを崩すことなく耳を傾けていた。
やがて、懐かしい人々を思い出し、和やかに流れる刻を楽しんでいたリーリュアに異変が起きる。床に座り続けていた脚が、限界に近づいていたのだ。
落ち着きなく身体を揺らす彼女に気がついたのだろうか。皇太后はおもむろに席を立つ。
「
衣の裾を長く引きながら、身体を左右に振りゆっくりと歩きだす。その、まるで雲の上を歩いているかのような足取りを心配するリーリュアを、女官が無言で促した。
皇太后が降り立った院子は、前にリーリュアが覗いたものと別の場所のようだ。酔芙蓉がつけたたくさんの花が、白から薄紅へと色を変えていく。
恍惚とそれを眺める皇太后の紅いくちびるからは、あの歌が流れていた。
儚げな花弁を、甘やかな芳香と静かな歌声が包む。
アザロフでは見かけない花が咲き乱れる光景に、暫しリーリュアは魅入っていた。
突然、甲高い耳障りな音をたて、
「まこと、金糸のよう」
皇太后の枯れ枝じみた指の間を、リーリュアの髪がすり抜けていく。毛先に届く直前で、ぐっと手が握られた。
「痛いっ!」
病持ちの老女とは信じられぬ力で、髪の毛ごと頭が引かれる。身体がよろめき、リーリュアはそのまま地面に両膝を打ちつけた。それでもなお、皇太后は毛先から手を離さない。
「なにを……」
皇太后を見上げた顔に唾が降る。腕をかざして避ける姿を、皇太后は嘲笑を浮かべて見下ろしていた。
「常ならぬこの髪で、その瞳で、そなたは陛下を誑かしたのか」
「そのようなこと、しておりません!」
反論したリーリュアの顔に平手が飛んだ。二度、三度と繰り返し打たれ、口の中に嫌な味が広がっていく。投げつけるように手を離され、ぶちぶちと音を立て抜けた髪とともに、リーリュアは地に伏した。
ついた手の甲を皇太后が踏みしだく。リーリュアが苦痛の悲鳴を上げると、皇太后の眦と口角が愉しげに吊り上がった。
「汚らわしいこの手で玉体に触れたのか? この腕を、この脚を、我が夫に絡ませたか?」
手の次は、裾が乱れ現れた脛を蹴り続ける。
痛みと恐れで混乱し、抵抗も忘れたリーリュアの頭の中で、冷静な部分が違和感を覚えた。「我が夫」とはだれを指す?
その意味を考えようとするが、まとわりつくような甘い香りが邪魔をする。皇太后のつま先は徐々に移動して、ついに腹に届いた。執拗に狙われる下腹部を、リーリュアは身体を丸めて庇う。涙で滲んできた視界の端に、顔を蒼白にした紅珠と、その行く手を阻む女官が映った。
不意に攻撃が止んだ。安堵して気が抜け、意識を飛ばしそうになったリーリュアの喉に、冷たい手がのびる。いっそう濃くなった香りに、一瞬にして恐怖に引き戻された。
「もしや、あのお方の御子など孕んではおらぬだろうな」
細い首に骨と筋だけの指がめり込んでいく。否定したくても、喉が塞がれていて息もできない。
それを誤解したのか、皇太后の目が細められた。
「ならば、母子仲良くあの世へ旅立つがよい」
皇太后の指先にいっそう力が加わる。
なんとかしなければ。遠退き始めた意識の片隅で考えるのだが、痛めつけられた身体は重く、いうことを利かない。瞼は開いているはずなのに、リーリュアの目の前が暗くなっていく。
すべての感覚が遠くなっていくなかで、唐突に喉が解放された。咳き込みながら幾度も深呼吸して、身体に空気を送り込む。
ようやく息が落ち着き、恐る恐る顔を上げたリーリュアがみつけたのは、皇太后の手を払いのけ、間に入った苑輝の背中だった。
「……なにをなさっているんです」
険しい顔を向ける苑輝の顔を見留めると、地面に倒れていた皇太后は、表情を一変させる。
「陛下! お待ち申し上げておりました」
驚くほどすっくと立ち上がり頬を赤らめ声を弾ませる様は、つい今し方、リーリュアを殺めようとしたことなど忘れたのか、娘のように朗らかだ。
「なぜ西姫がここにいるのです」
「ご覧くださいまし。今年も芙蓉がきれいに咲きましたわ」
咎める苑輝の声は皇太后の耳まで届いていない。しなだれかかり胸に頬を寄せる母親を押し退け、苑輝はまだ立ち上がれずにいるリーリュアに手を差し伸べた。
震えの収まらない手をのせると、苑輝はリーリュアを抱き起こし、全身に痛ましげな視線を走らせる。
彼女を背に庇うようにして、再び皇太后と正対した。
「母上。西姫をどうするおつもりでしたか」
抑えきれない怒気を含んだ声に、皇太后の眉がびくりと跳ねた。
「
「母上!」
「皇后である私よりも、この世のものとは思えない、気味の悪い色の髪と眼をした異形の娘のほうを寵愛なさると!?」
「母上! 私は父上ではありません。父上はもうおりません。母上、あなたが……」
苑輝は皇太后の両肩を強く掴んで揺する。焦点の定まらない母親の目を、真正面から見据えた。
「あなたが父上を殺したのです」
駆け寄ってきた紅珠に支えられて立つリーリュアは、己の耳を疑う。だが苑輝は、再びはっきりと口にした。
「母上ご自身が、あなたの夫、
皇太后の目がこれでもかというほど大きく見開かれた。両手で耳を塞ぎ、駄々をこねる幼子のように首を左右に大きく振る。髻がほぐれて乱れた髪が、白粉を塗り重ねた顔面を覆う。
乾いた唇から呻きとも叫びとも取れない声が発せられる。それは地の底から湧く幽鬼の怨嗟のようで、リーリュアを支える紅珠の身体も震えていた。
その声が次第に高笑いへと変化する。皇太后は干涸らびた指先を苑輝に向け、罵倒を浴びせかけた。
「苑輝よ。そなた、だれのおかげで今の地位があると思うておる? 私がおまえの代わりに、この手で道を浄めてやったからではないか。その母の手を払うか」
「私は、頼んでなどおりません」
苦渋の色を濃くする苑輝を嘲笑う声が、雲ひとつない空に響く。
「望んでおったであろう? 皇帝の崩御を。父親が死ねばよいと!」
両手で硬い拳を作る苑輝を鼻先で笑い、皇太后は声も出せずにいるリーリュアを睥睨した。尖った顎を反らす。
「そなたもあのような異国の娘に入れ揚げ、己の身を潰すつもりか? 国が傾いてもかまわぬと申すか」
「この姫は関係ありません」
なお謗りの言葉を吐き続ける母に背を向け、苑輝は紅珠に寄りかかるようにしてやっとの思いで立っていたリーリュアを抱き上げる。
「……それに私は、父上とは違います。あの人のようにはならない」
ぎりりと奥歯を噛みしめる音まで聞こえそうに顔をしかめる苑輝に抱えられたまま、リーリュアは叫声の止まない静稜宮をあとにした。
◇
苑輝には、胎を同じくする五つ違いの兄がいた。
兄は先帝の血を濃く受け継いだのか血気盛んで、皇太子に封じられたにもかかわらず最前線に立つことを厭わなかった。苑輝はそんな兄を気遣い、常に傍らに立ち彼を助けた。ごく普通の兄弟のはずだった。
しかしその関係は、いとも簡単に壊される。ときおり見受けられた兄の残虐性と向こう見ずな行動を危ぶんだ臣下の間で、「苑輝を次期皇帝に」との声があがり始めたのだ。
だが苑輝にそのような意志はなく、変わらず戦場に赴く兄に付き従っていたある夜、奇襲に遭い背中に大怪我を負った。療養生活を送る
己が側を離れたばかりにと悔やみ、嘆いていた苑輝は、さらに辛い現実を知ることとなる。敵から受けたと思っていた傷は、廃太子を恐れた実兄が差し向けた刺客によるものだったのだ。
傷心の中で新たな皇太子として立ち、父帝の暴政を食い止めようと尽力する。度重なる戦による被害を少しでも減らすため、可能な限り前線にあり続けた。
その父が急逝したのである。
「そなたには考えられぬだろう? 父親が死んで安堵した、など」
これでもう、戦で民を苦しめなくて済む。己の手で、皇帝である父を弑せねばならぬ日が訪れることはない。
死を悼むより先にそう考えた、苑輝の複雑な胸の内を打ち明けられても、リーリュアにはなにも言うことができなかった。どんな言葉をかけたところで、上辺だけのものになってしまうのは明白だった。
「だがそれも、ほんの束の間だった。父は母に毒殺されたのだと知ってしまったからな」
ああ、とリーリュアはそれまで詰めていた息を吐く。どんなに呼吸しても胸が苦しいのに、苑輝の言葉はまだ、リーリュアに苦痛を与える。
「積もり積もっていたものもあったのだろう。ただ最終的なきっかけは、アザロフの王女を連れて帰らなかった私に、父帝が激怒したことだった」
「姉さま……を?」
「すでに妃嬪は両手でも足りないほどいるのに、まだ女を欲しがるのか、と。地位も富も女として最上のものを手に入れたはずの母が、会ったこともない若い姫への嫉妬に狂った末の凶行だった」
痛いくらい早鐘を打つ胸を押さえても、リーリュアの動悸は収まらない。このままでは心臓が壊れて、停まってしまうのではないかとさえ思う。
「しかも母が手にかけたのは、父が最初で最後ではない。
「もういいです。もう、止めてください」
寝台に膝立ちになったリーリュアは、御伽噺を語るように淡々と話し続けた苑輝の頭を抱えて言葉を遮る。
自分で教えてほしいと懇願したのに、これ以上彼に話をさせたくなかった。
高泉に、リーリュアが皇太后の宮殿を訪問することになったと伝えに行かせたのは、習珊の判断だ。萬華門でそれを聞いた颯璉は、すぐに皇帝への目通りを願い出た。話を聞いた苑輝は、取るものも取りあえず静稜宮に向かったという。
ただならぬようすの皇帝に抱かれ、変わり果てた姿で思悠宮に戻ったリーリュアを、宮女たちの悲鳴が出迎えた。戻ったばかりの高泉が、また萬華門へと遣いに走り、すぐさま太医が呼ばれた。
見た目ほど傷が深くないことを確認し、「すまなかった」のひと言で帰ろうとする苑輝を、「話してくれなければ薬を飲まない」と子どもじみたわがままで引き留めたのはリーリュアだ。それなのに――
鬱血の残る首や手には白布が巻かれた。寝衣に隠れている足や腹にはいくつもの打ち身がある。口の中は切れ、薬湯がひどくしみた。だがそれらよりも痛むリーリュアの胸など比べものにならないくらい、苑輝の心は傷つき、長い間血の涙を流し続けていたのだ。そこに自分はさらに刃物を突き刺し、抉ってしまった。
幼い自分を受け止めてくれた逞しい腕が、雛鳥に触れるようにそっとリーリュアの腰に回された。辛いのは、悲しいのは彼のはずなのに、大きく温かい手のひらは、泣きじゃくるリーリュアの背を優しく撫でる。
「そなたには二度と母を近寄らせない。後宮の外に邸を用意させる。身体が回復したら、剛燕に国まで送り届けさせよう。……だからさあ、今日はもう休みなさい」
苑輝は心身共に傷ついたリーリュアに横になるように促すが、それを断る。
「苑輝さまは優しすぎるのです」
リーリュアは袖口で赤く手形の残る頬を拭う。一生分の涙を出し尽くしてしまったかと思ったが、気を許すとまた視界が歪み始める。意識して目を見開いたが、それもうまくはいかない。
頬を伝い落ちていく滴は膝の上で握りしめた拳に当たり、あえなく弾けた。
「
「いいえ。いいえ! わたくしの夢を叶えてくださった賢君も、己ではどうしようもできなかったことに悩み苦しまれる陛下も、どちらも同じ苑輝さまにかわりありません」
寝間に点された燭の灯りが作る苑輝の顔の陰影が、彼の苦悩の深さを表す。リーリュアはまだ涙で潤む瞳で、精一杯の笑みをつくってみせた。
「本当の苑輝さまを教えていただき、少し安心いたしました。正直なところ、聖人君子のような方の妻が、ただ王族に生まれただけというわたくしに務まるかと不安だったのです」
アザロフで言葉を教えてくれた葆の商人たちは、こぞって自国の新しい君主を讃え、それらはリーリュアの恋慕を際限なく膨らませる手伝いをした。その反面、彼らの口から皇后と世継ぎを望む声を聞くたび、今にも大国の皇帝の妻として申し分のない姫君が現れるのではと、やきもきさせられてもいたのだ。
「これでも、わたくしだって王家の人間です。政が綺麗事だけでは済まされないことも、どこの国のどの時代でも、玉座を巡る惨劇が起き得ることを知っています」
それでもやはり、人間同士で争い血が流れるのは嫌だと思ってしまう自分は、間違いなく甘いのだろう。膝に乗せた両手で衣をきつく握り、己を奮い立たせた。
「覚悟はできていると申し上げました。なにがあろうと、わたくしは苑輝さまのお傍にいたいのです」
「なぜそこまで。余は、一度はそなたの国に攻め入ったのだぞ」
アザロフの歴史の中でも、あの戦は国家存続がかかった最大規模の危機だった。
あのまま西国に占領されていたら、いまのアザロフ王朝は消えていただろう。そして、葆の将が苑輝ではなかったら、父王や兄たちの命は亡く、リーリュアの行く末はどうなっていたかわからない。
「アザロフの高台でお逢いしたあの日から、陛下はわたくしの英雄でした。――あなたさまをお慕いしております」
しかし、リーリュアの決死の告白も、苑輝を困惑させるだけだった。
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