第四章 孤独

第九話

 ようやく苑輝に逢えたというのに、状況はなにも変わらない。

 なぜもっと強く袖を掴まなかったのか。追いかけて話をしなかったのか。話したいこと、訊きたいことは、両手両足の指を使って数えても足りぬというのに。

 リーリュアはあれからずっと、悔やんでも悔やみきれずにいる。

 次はいつ逢えるのだろう。

 物思いにふけるのを邪魔するように、リーリュアの細くやわらかな髪を梳きながら高泉がため息をついた。


「いったいどうしたというの? さっきから、もう三度目よ」


「申し訳ありません」と言ったそばから、また吐息が髪を揺らす。浮かぬ顔でリーリュアの房間へやを訪れた朝から、この調子なのだ。

 

「またお饅頭を盗まれた?」


 リーリュアが思いつく高泉の悩みなど、この程度である。ところが高泉の持つ櫛に力が入った。


「どうしてわかったのですか!? 今回は月餅ですが」

「え? また猫なの?」


 いなくなった猫たちが戻ってきたのだろうか。わずかにリーリュアの腰が浮いた。

 

「ねずみのようです。厨の裏手でみつかりましたものに、囓られた跡がありましたから」


 けれど高泉は、どうやって外まで運んだのか不思議そうだ。大きさを訊ねたところ、両手の親指と人差し指を使って円を作ってみせた。

 来月の中秋節にふるまわれる菓子の試作品をこっそり御膳房から分けてもらったのだと、首をすくめながら白状した。颯璉への口止めもしっかり添えて。


「まだ塞いでいない穴があるのかもしれないわね。あとで調べてみましょう」


 観月の宴だという中秋節についても詳しく尋ねようとしたが、丹紅珠が運んできた朝餉に中断された。

 リーリュアが体調を崩したのは、その日の昼過ぎのことだ。

 まずは腹の具合が悪くなった。脂汗をにじませて腹の中を出しきり、それが空になると今度は目眩と吐き気に襲われる。介抱する颯璉がその身体の熱さに驚き、太医を呼んだのは日が暮れるころだった。



 額に張り付いていた髪がそっと除けられる。顔の汗を拭うひやりと冷たい布が気持ちいい。


「かあ……さま」


 そのはずはなかった。では、この丁寧な手つきは颯璉だろうか。紅珠だったら、もっと遠慮がちのはずだ。それに……。

 微かに届いた香りが、リーリュアの重い瞼を持ち上げさせた。薄暗い部屋の寝台で開けた瞳に映った顔は、発熱で朦朧としていた意識を覚醒させる。


「……陛下っ!?」


 からからの喉から出た声は酷く掠れていた。飛び起きようとして頭を持ち上げると、目の前がくらりとする。


「無理をするな」


 苑輝がリーリュアの肩を軽く押せば、力の入らない身体は呆気なく褥に沈む。


「どう……し、て?」


 ほとんど息だけのような声で投げかけた疑問に、苑輝は苦笑いを浮かべた。


「西姫が死にそうだと、颯璉が急使を寄越してきてな」

「そんな、大袈裟です」


 太医の診断は、疲労と夏負けだ。長旅からの環境の変化でたまった疲れと連日の暑さが、身体に負担をかけたのだろう。


「ああ。まんまとあれのひどく乱れた手蹟に騙されたらしい。慌てて来てみれば、西姫はいびきをかいて眠っていた」

「う、嘘です」


 リーリュアは衾を頭の上まで引き揚げる。その上から、苑輝が笑い声をたて頭を撫でた。


「預かりものの姫になにかあったら、そなたの父上に申し開きができない。帰国に備えしっかり養生するがいい」


 早くも立ち去ろうとした苑輝の深衣の袖を、リーリュアは無我夢中で掴んで引き留める。そのまま伸ばした腕を首に回し、ぶら下がるようにしがみつく。


「なぜです。どうしてわたくしではダメなのですか。髪や目の色が違うから? この国の者ではないから、皇帝の妻として相応しくないとおっしゃるのですか?」


 それはどんなにリーリュアが努力しても、覆しようのないことだった。

 急に起き上がり興奮したため、息を荒くするリーリュアの背中を苑輝がさすって宥め、再び静かに横たえる。

 嘆息して寝台の端に腰を下ろし、褥に広がるやわらかい髪を指で梳いた。何度も何度も繰り返されるその手は慰撫するように優しく、堪えていたリーリュアの涙を誘う。


「西姫に非などない。異国の姫だからというわけでもない。わたしは相手がたとえだれであろうと、生涯妻をもつつもりがないだけだ」

「なぜ……」


 それでは、跡継ぎを残すという君主に課せられた務めが果たせない。

 彼の本心を探ろうと、リーリュアは寝台の上から苑輝の瞳を見つめ返した。

 目が合った苑輝はくちびるを歪める。まるで笑おうとして失敗したかのような形には、覚えがあった。


「この座に相応しくないのはそなたではない。余のほうだ」

「そんなことは、ありませんっ!」


 リーリュアは葆の宮処につくまでの間に、多くのものを見てきた。長戦ながいくさで荒れ果てた地に人が戻り、たくさんの作物が育つ光景や、戦乱で壊された町や道が整備され、商売が楽になったと喜ぶ商人たち。アザロフも、葆と結んだ盟約のおかげで東西の諸国に脅かされることがなくなり、行き交う旅人で賑わっている。

 どれもこれも、苑輝が帝位に就いてからのことだ。皆、功を讃えこそすれ、不相応などという者などいるはずがない。


「陛下は……。苑輝さまは、わたくしの願った世を築かれた。あのときの約束を守ってくれたのですよね」


 涙に濡れる翠緑の瞳を向けると、あの日と同じように苑輝がリーリュアの頬に手を添え、涙を拭ってくれる。その温かさに変わりはないのに、彼はうなずき返してはくれなかった。


「西姫はというものを知っているか?」

「……こどく?」


 初めて耳にした単語に戸惑いつつも頭を振る。苑輝は薄い笑いを浮かべながら語り始めた。


「古くから東に伝わる呪術の一種だ。壺の中に百種類の蛇やムカデといった生き物を入れ蓋をして地中に埋める。するとその中で、奴等は生き残りをかけ、互いを喰らい始めるという」


 狭い壺の中で繰り広げられる、おぞましい光景を想像した。リーリュアは悪寒を覚え、たまらず衾をたぐり寄せる。

 そんな彼女の様子を横目に、苑輝は話を続けた。


「壺の中で最後まで勝ち残ったものは、九十九匹分の怨念を呑み込み強力な毒となる。それが蠱毒と呼ばれる禁呪だ」


 途中から耳を塞ぎたくなったが、どこに苑輝の真意が隠れているのかもわからない。リーリュアは、一字一句聞き逃さないよう真剣に耳を傾け続けた。


「皇宮――こと、後宮はまさにその“壺”。人の皮を被った魑魅魍魎が数多押し込められ、ある者は富や名声を手に入れるため、またある者はただ生き残るためだけに互いを牽制し共食いをする場所。そうして、最後に残ってしまったのが……この私なのだ」

「陛下は決して毒などでは……」


 腕にすがろうとするリーリュアの手を引き剥がし、諦念の滲む笑みを浮かべた苑輝はゆるりと首を横に振った。


「すまない。恐ろしい話を聞かせてしまったな。だが、これでわかったであろう? ここは西姫のような娘がいる場所ではない。余という蠱毒に冒されぬうちに去ったほうがいい」


 最後に苑輝は、また浮かんできたリーリュアの涙を、眦から零れる寸前で親指の腹で払う。


「この身には、多くの民や臣を虐げた父と、そして母の忌々しい血が流れている。その血を後世に遺すことはできない」


 それが、苑輝が妻帯を頑なに拒む理由だった。


◇ ◇ ◇


 皇帝が政務を行う房間には複数の人間が存在しているはずなのに、筆先が紙の上を滑る音さえ聞こえそうなほど静まり返っている。

 苑輝が筆置きに筆を戻すわずかな音が響いたと同時に、室内に息遣いが戻ってきた。玉璽を捺して仕上げる。

 

「これで頼む。早急にこう州まで届けてくれ」


 書き上げた文面にもう一度目を通してうなずくと、控えていた李博全にまだ墨の乾ききらない紙を示す。博全は一礼して、皇帝の手蹟による書を預かった。


「いつもながらお見事です」


 己の意思を正確に伝えるための文字を書くには、一筆たりとも気が抜けない。それが勅旨となればなおさらだ。

 やわらかさのなかに揺るがぬ芯が通る苑輝の筆蹟からは、明確な意志が感じられる。

 博全はできあがった書へ、心からの賛辞を送った。

 主人の疲労を察した侍従が、一際良い香りのする茶を差し出した。


「やはり、庚州の鉱山で横領が行われているのは間違いないようだな」


 採掘量、それに伴う人足にかかるものとして計上される経費、対して、周辺の土地に落とされるはずの金子きんす。庚州では、あきらかにそれらの均衡がとれていない。

 先ほどの勅は、証拠保全と詳細な説明を求めるものだ。

 博全は神妙な面持ちでうなずき、墨の乾いた紙を巻いた。


「……それから。よう礼部令が、立后の儀のご相談したいとおっしゃっておりました。ただいま、占により然るべき吉日を選んでいるところだそうです」

「立后だと? なんのことだ」


 口にした茶を吹き出しそうになる。


「先日、思悠宮へお渡りになったとうかがいましたが」

「あれは、見舞いに行っただけだ。いったいだれが……」


 リーリュアに皇帝の手がついたなどと余計な噂がたてば、国元へ帰す際面倒になる。頭を抱え嘆息をする主君に、博全は意外な顔をした。


「そうでしたか。西姫さまもいっこうにお国へ帰るご様子もありませんし、てっきりこのまま思悠宮に留まられるのかと。ですので、私のほうからも屋根の修理を手配しようと思っていましたが……よろしいですか?」 


「屋根?」

「西姫さまの寝間で雨漏りがすると、方颯璉殿から申告がありました。さすがにそこは自分たちではできないからとおっしゃっているそうです」


 ということは、あの捨て置かれていた宮を自らの手で修理したのだろうか。苑輝が訪れた際は外見にまで気が回らなかったが、いわれてみれば、内部の体裁はそれなりに整えられていたことを思い出す。


「入宮されて間もなく内侍を通じて依頼したそうですが、いっこうに直されないと、颯璉もご立腹のようです。――陛下がお止めになられていたのでは?」


 幼気な娘にひどい仕打ちをしている極悪人を見るような顔をされる。


「さすがにそこまではしていない」


 むしろ、思悠宮がそれほどまでに荒廃していたのかと驚いた。

 あの華奢な姫が、そんな場所でよくぞ逃げ出さなかったものだと感心する。

 ふと脳裏に、遠い昔、木の枝にしがみついていたリーリュアの姿が浮かんだ。


「山の仔リス……」


 くすり、と思い出し笑いが苑輝から漏れる。

 博全が珍しいものを見たかのように目を見張り、口角をわずかにあげ満足げに小さくうなずく。


「それから。劉将軍が珍しい毛色の犬を飼い始めたのは、ご存じでいらっしゃいますか」


 ほう、と興味深げに苑輝は顔をあげる。


「気に入りのようで、連れ歩いております。近いうちにお目に入れられることもあるかと」

「新たな子が産まれたばかりだというのに、劉家も賑やかなものだ」

「上のふたりの、良い遊び相手になっているようです」

「たしか三人目は女子だったな。博全のところはまだか。さぞや宜珀が、気を揉んでいることだろう」


 語学にも外交術にも長けた若者を、南へ西へとつい便利に遣ってしまう。この件が片付いたら、彼にはまとまった休暇を与えなければ。そう、苑輝が反省した矢先。


「そのお気持ちがあるのでしたら、われらの一番の懸念を解消していただきたいものです」


 何気なく突いた草むらから飛び出した蛇を、あえて苑輝は聞き流した。  


「犬か……」


 積まれた書簡を退けると、シワだらけの紙が現れる。墨で塗りつぶされたそれを見た博全の眉が寄る。


「猫だそうだ」


 表情を察した苑輝の説明に、博全はますます眉間のシワを深くした。


「西姫が、猫を飼いたいと願い出ようとして描いたらしい。ここが耳と鼻。こちらが尾だな」


 墨を重ねすぎてところどころに穴が空いたをなぞって指し示す。


「それで、お許しに?」

「いや。猫は家に付くという。情が移ってから別れることになっては、互いに辛かろう。その点、犬ならば……」


 長い帰路のよい供にもなる。仔犬の入手先を本気で考えはじめた苑輝は、思考の彼方で深い嘆息を聞いた。


「失礼いたします。陛下に方颯璉殿が至急お目通りしたいと、お越しです」


 侍従が膝をついて、割り符を差し出す。颯璉はもともと、侍女として苑輝の身の回りの世話していた。リーリュアに伴うに際し、宸筆で萬華門の通過を許可する旨を記し彼女に渡したものだ。

 しかし彼女がそれを行使するのは、これが初めてではなかったか。


「颯璉が? 珍しい」

「ご自分で、修繕の催促に来たのでしょうか」


 訝かりながら、苑輝は入室を許した。

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