第八話

「この国は猫の毛まで皆、真っ黒なのね」


 物置小屋の暗がりで、黒猫がリーリュアに威嚇の牙を剥く。その後ろには、よっつほどの小さな塊が蠢いていた。


「そんなことはありませんよ。ほら、くつしたを履いている仔猫もいるようです」


 四足の先が白い一匹を、高泉が指さす。片手の上に乗っていまいそうな躰で力いっぱい母を呼ぶ声は、赤子のものに聴こえなくもない。母猫はこの仔らを育てるために盗みを働いたのだと思うと、叱る気も失せた。


「こんな場所で産んでいたなんて、まったく気づかなかったわ」

「いけませんっ!」


 無謀にも仔猫に手を伸ばそうとしたリーリュアに、高泉が声を荒らげる。母猫の毛がますます逆立ち、慌ててリーリュアは身を引いた。


「気が立っているようです。離れたほうがよろしいでしょう」


 習珊にも窘められたリーリュアは、猫探しに付き合ってくれたふたりと外に出た。後ろ髪を引かれ、建て付けの悪い戸を振り返る。隙間からはまだ、愛らしい鳴き声が聴こえていた。

 空いているへや、軒下、草むらの中。もしこのまま猫がみつからなかったら――不安を抱えてのぞいた庭道具をしまう小屋の中で、金色に光る瞳と目が合ったときは安堵した。


「御膳房の猫かもしれませんね」


 先ほどの非礼を詫びた、高泉が言う。

 アザロフの城でも、ねずみ対策で猫を放していた。あるいはかつての妃嬪の飼い猫の末裔か。

 もっともこの緑の多さでは、熊や猪が出たと聞いても驚かないだろう。


「ここで飼ってもいいかしら?」


 なかば決定事項のように訊くと、高泉は習珊と困ったように顔を見合わせる。


「……私どもにはなんとも。それに、まだ乳離れもしていないようですし」


 その言い分に納得して、次にリーリュアは颯璉に尋ねた。しかし色よい返答は得られない。


「ならば、苑輝さまに直接うかがってお許しをいただくわ。後宮に寝殿をおもちなのでしょう? お帰りになるまでいつまでも待ちます」


 殿舎までの案内を頼んでも、颯璉が腰を上げることはない。


「陛下は後宮にお戻りにはなりません」


 即位以来、政務に重宝な丞明じょうめい殿を公私の居処としている苑輝を、後宮から出て訪ねることもできないという。颯璉に詰め寄ったが、それが掟だとの一点張り。


「どうしろというの……」


 途方に暮れるリーリュアの目に、颯璉が用意した書道具が映った。書簡ならば届けてもらえる。さっそく墨を用意させ、真っ白な羊毛の筆先を浸した。

 ところがそこで、リーリュアの手が進まなくなる。葆の字で文章など無理な話だ。ならば、とアザロフ語を綴ろうとするが、やわらかな筆先は思うように動いてはくれず、もたもたしているとあっという間に紙が墨を吸っていく。

 何枚もの紙を黒くし無駄にしても、満足のいくものは書けない。しまいには、猫の絵を描いてなんとかしようとしたが、それも失敗に終わった。


「もう、いやっ!」


 丸めた紙を放り投げ立ちあがろうしたが、リーリュアは葆の床に坐る姿勢に慣れていなかった。痺れた足からくずおれる。とっさについた手が座卓を揺らす。硯の海で大きな波がたち、漆黒の飛沫がリーリュアの顔めがけて跳ねた。


「ご無事ですか!?」

「……大丈夫。目には入っていないわ」


 瞬きをして確認する。かすかに違和感のある下瞼に触れようとした。


「お待ちください。お顔に墨が」


 それを颯璉が制し、紅珠に水盥を用意させて鏡を差し出す。

 リーリュアが丸い鏡をのぞくと、緑色の瞳の下の白い肌を墨色が丸く染めていた。

 言葉も文字も違う。筆も紙もつくえも、なにもかもが祖国と違う。 

 わかっていたことが、いまさら墨のように滲みてくる。

 顔についた汚れを絹布で拭き取る紅珠の手が震えるのを見て、とある思考が頭をもたげる。

 幽鬼騒ぎの一件を経て、ほかの宮女たちとの関係は少しずつ変化していた。しかし紅珠との距離は相変わらずだ。毎朝夕の身支度を調えるときでもよそよそしく、リーリュアがほんの少し身じろぎするだけで、びくりと手を引っこめてしまう。

 葆を訪れてから浴び続けてきた視線に似た色が、その黒い瞳のなかに見てとれた。

 ――気味が悪い。

 彼女の懸念は、この宮にまつわることではなかったのかもしれない。

 紅珠と、毎回すぐに逸らされてしまう視線を鏡越しに合わせる。


「この髪や目も、あなたように黒かったらよかったのに」


 手が止まった紅珠の動揺が、鏡のなかからも伝わってきた。

 リーリュアは感覚を失っていたつま先を握る。血の通いだした足が、じわじわと痛んだ。

 

「……ごめんなさい。くだらないことを言ったわ」

「西姫さまはお疲れのようです。あなたはお茶の支度を」


 逃げるように退室していった紅珠と交代した颯璉の手つきは、幼い日、リーリュアが頬につけた泥汚れを落としてくれた母と同じだ。

 丁寧に時間を掛けて拭かれた肌は、すっかりもとの白さを取り戻した。 


「西姫さまのご希望は、私が代筆して陛下にお伝えいたしましょう」


 颯璉の気遣いに、リーリュアは首を横に振る。

 子どものようなわがままは言えない。それに、リーリュアが求める温もりは違うものだ。


「……それから、その『さいき』というのはやめてちょうだい。リーリュアと、名前でいいわ」

「それはいたしかねます。後宮ここでは、賜った妃嬪の位号でお呼びする習わしとなっておりますので」

「位? 側室にそんなものまであるのね。知らなかった……」


 後宮のことばかりではない。礼の仕方に食事の作法、なにもかもがアザロフとは異なるこの葆では、リーリュアが王女として幼いころから教えこまれてきたものの多くが役に立たなかった。

 いまのままでは、皇帝の妻として民の前に立ったとき、自分が恥をかくだけではすまない。苑輝にまで迷惑をかけてしまう。

 できない、知らないと嘆き、宮女にあたっている場合ではない。


「ねえ、颯璉。わたくしに、この国のことを教えて」


 しかしリーリュアは、颯璉の手蹟による書を前に、自分から願い出たことをすぐに後悔することになった。


「後宮には、心身が健やかなことは当然とし、家柄、容姿、品格、教養、すべてにおいて秀でた娘が厳選のうえ集められます。皇后を頂点とし、玄妃げんひ蒼妃そうひ白妃はくひ紅妃こうひの四妃。その下に、梅、桂花、梨などの花の名前を冠した十二ひん。さらに星の名で呼ばれる貴人きじんが二十八。最大で四十五名が、皇帝の血統を繋ぐため、妻としてお仕えすることになります」

「……こんなにたくさん」


 柔軟性に富んだ筆先から生まれたとは思えぬほど四角四面な、紙一面に記された葆の文字に圧倒される。


「しかしながら、常にすべての席が埋められるとは限りません。――とは申しましても」


 颯璉の講義は、息をつく間もなく続く。

 リーリュアの足を考慮し、脚高の卓子と丸椅子が運びこまれた。


「そのほかの、後宮にいる女官、宮女、すべての女子に、皇帝の寵を賜る可能性があるのです。過去には宮妓が皇子を授かり、紅妃にまで上った例もございます。また、ご寵愛を失った妃嬪がその地位を追われることも」


 初耳の単語は都度その意味を尋ねるリーリュアに、颯璉は根気よく付き合い、時に文字にして示す。


「わたくしの『西姫』というは、このうちのどれなのかしら」

「それは……」


 颯璉が珍しく言い淀んだ。新たな紙を用意すると、再び筆を執った。定規をあてたような横線が書かれる。そのまま二画三画と書き足され、ひとつの字が終わると、少し複雑な形のもうひと文字が加えられた。

 向きを変えた紙がリーリュアの前に移動してくる。


「西姫とは、このように書きます」


 比べてみても、先の書のなかに同じものはみつからない。リーリュアは首を傾げて颯璉をうかがう。


「このなかにはありません。これは、『西の国の姫君』という意味の文字です」

「西……」

 

 皇后どころか、妃嬪でさえない。まだ婚姻の儀式もすんでいない事実に不安を覚え、リーリュアは席を立つ。

 扉を開け放つと、西の空が茜色に染まりはじめていた。どれほど背伸びしても見えることのない祖国との距離を、あらためて意識させられた。



 気づけば、季節はすっかり夏。

 頂に万年雪の残る雷珠山から吹き下ろされる風のおかげで、うだるような暑さは避けられているが、それでも日中は屋内にいてもじわりと汗が滲む。

 その後も苑輝からはなんの音沙汰もない。猫の母子は人気ひとけを嫌ったのか、思悠宮から姿を消してしまっていた。

 己で望んだこととはいえ、颯璉による連日の厳しい所作指導に若干辟易し始めてきたリーリュアは、後宮の敷地を散策したいと要求した。


「葆の淑女は、滅多なことでは邸の外へ出ないものです」

「深窓の姫君だって庭の散歩くらいするでしょう? 陽に当たらないと身体が弱ってしまうわ」


 リーリュアには殿舎を飛び出そうとした前科がある。颯璉は渋々ながら、供から離れないこと、あまり遠くへ行かないことを条件に許可を出した。

 付き添いに丹紅珠を選んだのは、リーリュアだ。


「紅珠。この間はすまなかったわ」


 足を緩め、ニ歩分離れてついてきていた彼女に並ぶ。俯きがちに歩いていた紅珠は、突然真横から掛けられた声に驚き後ろにさがる。その分だけまた、リーリュアが間を詰めた。


「私こそ、大変失礼をいたしました」


 そう言いながらも、やはり目を合わせてはもらえない。


「もしかしたら、あなた。この瞳や髪の色が気味悪いの?」

「いっ、いえ! まさか、そのような……」


 尻すぼみの否定が肯定に聞える。

 葆にも異国人がまったくいないわけではない。この数年で盛んになった交易により、宮処にも様々な国からいろいろな目的で人々が集まっている。

 それでもリーリュアたちのように、髪も眼も葆の民とまったく違う色をした者はまだ珍しい。良家に育った娘ならば外出もままならず、なおさら目にする機会などなかったのだろう。

 

「気にしなくていいのよ。しかたがないわ。わたくしだって、蛇や蜘蛛は苦手だもの。颯璉には、もとの仕事に戻してもらえるように伝えましょう」


 気持ち悪いと思うものに、無理をしてまで傍にいてくれとは頼めない。だが、自分から尋ねたこととはいえ、さすがにここまであからさまな態度で示されては気も沈む。

 リーリュアは紅珠に背を向け、あてもなく後宮内を歩き始めた。

 大きな池や水面に張り出す涼しげな四阿もあった。清らかな流れをつくる川には石橋が渡され、その下を水鳥が通る。人の手が加えられた庭園と、あえて残された自然が混在する、庭と呼ぶにはあまりに広大な敷地をさまよう。

 思悠宮からずいぶん離れてしまっていたが、先ほどのやりとりを気にしているのか、なにも言わずに着いてきていた紅珠が、突然、リーリュアの目の前に回りこんだ。その場にひれ伏し、ひと息に言い募る。


「ご無礼はこのとおりお詫びいたします。二度と、西姫さまがご不快になるような振る舞いはいたしません。ですから、どうか! どうかこのまま、お傍においてくださいませっ!」


 艶のある黒髪を二つに結った髻が地につくのも気にせず、深く頭を下げ続けた。 


「ねえ、紅珠。落ち着いて。わたくしは怒っているのでも、咎めているわけでもないの。言い方が悪かったのね。どうか頭を上げてちょうだい」


 自らも膝をついたリーリュアの再三にわたる説得に、ようやく紅珠は身を起こす。リーリュアは、土のついた彼女の手をとって立ちあがらせた。


「……申し訳ありません」


 ぐすりと鼻を鳴らしながらも、紅珠はリーリュアの手を拒否しなかった。安堵したリーリュアはさらに手を重ねる。


「わたくしは、紅珠さえよければいてほしいの。だって、ともにあの思悠宮お化け屋敷で過ごしてきた仲ですもの」


 明るくおおらかな高泉。習珊は落ち着いた物腰で思慮深い。游葵のまわりには、ゆったりとした時が流れているようだ。そして、控え目で生真面目な丹紅珠。

 それぞれの特長がリーリュアのためになるようにと、方颯璉が考え抜いた人選なのだろう。たったひとりで異国に残り、苑輝からも遠ざけられたリーリュアにとって、思悠宮の宮女たちは唯一のよりどころになっていた。


「私、ここへ来るまで、異国の人を見たことがありませんでした。西姫さまが初めてです」


 気持ちが落ち着いてきたのか、紅珠はぽつりぽつりと話を始めた。


「それまで西方の人たちは、身体が大きくて粗野で乱暴だと聞かされていて……っ!」


 己の失言に気づいた紅珠は目を泳がせる。

 リーリュアが包む彼女の手が小刻みに震えだした。リーリュアは、宥めるように優しく手を叩いて先を促す。


「それで、その……実際にお会いした西姫さまに驚いてしまって」

「がさつでわがままで、子どもっぽかったから?」


 自覚している己の欠点を挙げ自嘲する。こんな自分だから、苑輝に帰れと言われ続けてしまうのだろうか。

 儚げな笑みを浮かべたリーリュアを、紅珠は夢中で首を振って否定した。


「いいえ、いいえ! ただ、聞いていたこととあまりにも違いすぎて……」

「しっ! 静かに。これはなに?」


 そばだてたリーリュアの耳が、自然が創るものとは違う音を拾う。はっきりと歌詞が聴き取れるわけではないが、誰かが歌っているようだ。

 もの悲しいのに懐かしくも感じる旋律に引き寄せられ、リーリュアは音源を辿り始める。

 行き当たったのは、背の高い木々に隠されひっそりと建つ、思悠宮と同等かやや大きな宮殿だった。建物の周りを、ぐるりとリーリュアの背よりも高い塀が囲んでいる。

 閉まっている門扉の前には、後宮では珍しく衛士がふたり。歌声はこの建物から漏れていた。リーリュアは声の主を探し、まるでなにかを閉じ込めているような塀に沿ってゆっくり歩く。


「あそこからだわ」


 塀のすぐ向こうは庭園になっているらしい。花の形をした漏窓から覗くと、整えられた草木や灯籠、築山などが望める。横へ滑らせた視線の先にある小さな四阿に、ひとつの人影をみつけた。

 柱に寄りかかるようにして立っているのは、白髪を結い上げた老女だった。年の頃はリーリュアの両親よりも上だろう。定まらない視線を宙に向け、薄いくちびるがあの曲を口ずさむ。身につけている襦裙や装飾品などから、高い身分の人物だと知れた。

 不意に、さまよっていた彼女の目がリーリュアのいる漏窓に向けられる。のぞき見などという無作法を咎められるかと、リーリュアは塀から離れようとした。

 しかし老女は、年齢には些か不釣り合いに思えるほど鮮やかな紅を塗ったくちびるを吊り上げ笑みを作る。若いころの美しさを想像させるに十分な妖艶さだった。

 帔帛をたなびかせながら、こちらへ近寄ってくる。幽鬼のようなその足取りに、思わずリーリュアは後退った。

 数歩もいかないうちに背がなにかにぶつかり、声にならない悲鳴が喉に詰まる。心臓が止まってしまったのではと、衿の合わせを握りしめた。


「ここでなにをしている」


 背後からかけられた声と忘れられない香りが、停止したかと思われたリーリュアの心臓の鼓動を速める。


「……苑輝さま?」


 首だけを巡らせ、後ろの存在を振り仰ぐ。

 苑輝はため息混じりに問いを重ねた。


「ここでなにをしている。思悠宮は真逆の方角だが?」

「散歩を……。それよりっ!」


 リーリュアは恐れる気持ちを奮い立て、件の窓へと視線を戻す。


「あのなかに老女が……」


 しかしそこにはすでに彼女の姿はなく、歌声ももちろん聴こえない。夏の熱気が見せた白昼夢というにはあまりにも鮮明な残像に、リーリュアは粟立つ腕で寒気のする自身の身体を抱く。


「あの者はいったいだれなのです? なぜこのようなところに?」


 苑輝が漏窓に向けた目は、リーリュアがこれまで見たどんな眼差しより冷たく、凍りつくようなものだった。


「この中にいるのはそう皇太后。わたしの実母だ」

「お母……さま? ご病気なのでは……」


 意外な正体を知り戸惑うリーリュアの身体が傾ぐ。動悸が止まらず、背中を嫌な汗が伝う。膝から力が抜けていく彼女を苑輝が支え、耳に口を近づけた。念じるように言葉を吹き込む。


「ここには二度と近づくな。そなたもあれのようになりたくなければ、一刻も早く後宮から去れ」


 離れたところで身を固くして控える紅珠を呼び、まだ呆然としているリーリュアを預ける。

 細腰を抱えていた大きな手の熱が離れていくのを感じて、リーリュアは思わず苑輝の袍の袖を掴もうとするが、力の入らない指先から絹地はするりと抜けていく。


「お待ちください」


 リーリュアの掠れた叫びが、苑輝の足を止める。だが、


「いつまでもこんなところにいてはいけない。命が惜しければ、早く国に帰りなさい」


 振り返ることもせず幼子を諭すように言い置き、門の中へ消えていった。


 その後どのようにして思悠宮まで戻ったか、はっきりとは覚えていない。

 予定より大幅に時間を超過して戻ってきたリーリュアに、方颯璉は特大級の雷を落としたが、どんなにこんこんと説教をされても、霞がかかったような頭には少しも響かなかった。

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